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きれいさっぱりと文学なんかおっぽり出して、もう何も書かず、きみと一緒に、きみの内に暮しに行き、頭を絶えず手淫して文章を射精させる代りに、この頭をきみの乳房の間に憩わせたい 2020/10/18

 子供たちが鬼滅を見たがり新宿へ。紀伊国屋書店で建築コーナーを漁ってみたり、日記系の本をどかどかと買い込んでみたり。指がちぎれそうなくらい重い。

 乗代雄介『本物の読書家』を読んだ。面白すぎて、びっくりした。今年は新たな作家との出会いが当たりすぎる。乗代雄介とか木下古栗とか、アトウッドとか。最近、日記にハマっていたけれど、この本でフローベールの書簡集からの引用を読んで、書簡の面白さを知った。よりプライベートで本来秘せられた、いや、そんなの公開されるなんて勘弁してよ、と言った物も中にはあると思うのだけど、そういう日記の生っぽさとはまた違う、生々しさみたいなものもそこにはありそうな感じ。まぁある種の覗き見なのだけど。将来、書簡集みたいな感じでメール集、LINE集、Twitter集、などなどが刊行されたりするのだろうか。裏垢の呟き集成なんてものができたらそれはそれは面白そうな気もするが、より散逸しやすい環境になっているような気もする。

 きれいさっぱりと文学なんかおっぽり出して、もう何も書かず、きみと一緒に、きみの内に暮しに行き、頭を絶えず手淫して文章を射精させる代りに、この頭をきみの乳房の間に憩わせたいという欲望です。
ルイーズ・コレ宛 書簡『フローベール全集 9』
乗代雄介『本物の読書家』P.114

 これは『ボヴァリー夫人』を執筆中に恋人のルイーズ・コレに宛てたフローベールの書簡なのだけど、コレをみてもう書簡ってめちゃくちゃ面白いな、と思ったのだけど、死後他人に読まれ、引用され、こんなところに記録されるなんて本当に想像だにしていなかっただろうな、フローベール。でも僕は『ボヴァリー夫人』大好きなので許してほしい。

 誰かが文章を書く時、書かれた文章は、その都度の射精のように、当人にとって正しいものとなる。手を動かしている最中どんなにくたびれようと、事が終わってどんな後悔に苛まれようと、その時、その場で、その文章が書かれた瞬間が、当人にとって、正しいものであったことに疑いの余地はないわけだ。しかし、それゆえに、どんなに正しいものを書いたとしても、その正しさはその一時限りで、一生の糧に代入することはできない。その正しさを幾度も更新して、ある物事を表現するのにただ一つしかない『適正な言葉』にたどり着くことを目指し続けるのが、書くという行為が続くということである。
乗代雄介『本物の読書家』P.115

 ものを書くことにまつわる羞恥みたいなものってのがあるわけで、それはこんなくだらない日記を書いていることにもまとわりついてくるのだけど、それは要するに頭を手淫しているようなもんだからなんだろう。昨夜、おもむろに妻もこれを読み始め、スキ押しといてよと言ったら、良いと思ったらね、と上から目線で言い放たれ、2日分読んだくらいで早々に他のサイトに離脱された。これはなんの羞恥プレイなのだろう。

自分の好きなことを表明すると、気の合う仲間が集まってくるらしい。とりあえず、読んでくれた人に感謝、スキ押してくれた人に大感謝、あなたのスキが次を書くモチベーションです。サポートはいわゆる投げ銭。noteの会員じゃなくてもできるらしい。そんな奇特な人には超大感謝&幸せを祈ります。