2020/09/09
出社したので久しぶりに餃子の三幸園に行って、チャーハン食べたら、とても美味しかった。大満足だった。特に一緒についてくるなんてことはなさそうなスープが嬉しい。チャーハンを一口、もぐもぐしつつ、レンゲでスープをひと啜りすると、パサパサな口の中でチャーハンがほぐれてからの絶妙な塩み。思い出すとお腹が空いてくる訳なのだけど、そんなこんなで大満足してお会計に行ったら、鞄の中に財布がない。財布が、、、、ない。
体で払いますというわけにもいかないので素直に「お財布忘れちゃいました」と告げると待っていてくれるとのことだったので、どうにかお金を調達しようとしばし考えた。そういえばめっちゃ近所で妻が働いているではないか。という訳で妻に連絡してこのままだと食い逃げになってしまうので金をくれ、と伝え、妻の職場付近で現金をゲットしてお支払いへ。ちなみにその後、妻も食べたくなったらしくて三幸園行ったらしい。ありがとう三幸園。
そんな1日だったのだけど、けんすうさんのnoteがタイムラインに流れてきたので思わず見ていたら、自分が書いているこのnoteはファンを増やしたいぞ、という目的の人からすると真逆なんだなということがわかってとっても面白かった。
曰く、知らない人の日記なんて誰も読まない、いやまじそれ真理ですよね、と何度も肯いてしまった。まぁだからといって日記はダメという話ではなくて、あくまでも無名の人が人気者になりたいなら、という前提の話なので全国の日記愛好家には誤解して欲しくないのだけど、フォロワー増やしたい人とか、たくさんの人に届けたい人は、ここに書かれているとおりに戦略的に発信していかないとダメだよね、というお話。
という訳で、これからは日記ではなく、informationを発信していくぞ!となるかというとそんな訳なくて、僕はこういう他愛もない日常と読んだ本のことをこれからも垂れ流していくのだという決意を新たにしたのだった。しかも日記であればバズることもないだろうというお墨付きもある。平穏な本と読書の日常にバズりは不要だから。
さて、相変わらずシュルツの評伝を読んでいる。
通信社を通じて、何百という新聞に掲載されるようになり、普通の人の年収相当額が、毎月入ってくるようにもなった。成功者だ。しかし、この本に限ってなのかもしれないが、シュルツよかったね、やったね、おめでとうという気分にならないというか、それこそ、成功したというinformationにしか過ぎない感じで、こちらの感情が揺さぶられるようなことがない。資料を読み込み徹底的に客観的に人物像を描き出すという手法によるものだと思うのだけど、要するに出てくる人物に対して感情移入できる要素がほぼないのだな、これは、ということに気づいた。これはそういう本。いいとか悪いではなくて、そういうものとしてあるのだと思うので、淡々と読み進めていく。
ただ、淡々とした地の文に時折挟まれるピーナッツの引用、しかもシュルツの人生の影響を反映する回が見事に捉えられていて、自伝のエピソードと作品の対照、これはすこぶる面白い。面白くて、ピーナッツが読みたくなる。全集は買ってあるから、そっちを読み始めたくなるんだけど、そうすると絶対この評伝が止まるので、これ読み終わってからにしようとなんか謎の我慢をしている。
「私は子供が特別に好きだったわけではありません。いまもそうです。自分の子供は可愛いと思いますよ。でも、いわゆる子供好きとは違いますね」。だが、六〇年代の人気絶頂期にはそのことをひた隠しにしていた。晩年になってようやく公の場で明らかにした。「自分の子ができるまで、子供にはなんの関心もありませんでした。子供ができて初めて、子供を持つことの喜びがわかるようになったんです」
デイヴィッド・マイケリス『スヌーピーの父 チャールズ・シュルツ伝』P.324
自分の好きなことを表明すると、気の合う仲間が集まってくるらしい。とりあえず、読んでくれた人に感謝、スキ押してくれた人に大感謝、あなたのスキが次を書くモチベーションです。サポートはいわゆる投げ銭。noteの会員じゃなくてもできるらしい。そんな奇特な人には超大感謝&幸せを祈ります。