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人生詰んだら、聞いてくれる人の存在を知った

なんとなく生きていたら、人生が詰んじゃってました(^^)/
そう気づいたときに、なんとなく生きてきたその「なんとなく」って、いったいどういうことだったんだろう?と振り返らないではいられなかったんですよね。
なんとなく生きていた私は具体的になにをしていたんだろう?なんとなく生きていた私は重要な選択をする場面でどう考えていたんだろう?なんとなく生きていた私はなぜなんとなくに気づけなかったんだろう?

そう問い続けていると、次第にわかってきたのは、私にとって「なんとなく」とは、膜のようなものが私自身を包み込んでいて、そこに安住していた状態と言えるのかなって。世界はその中が全てで、囚われていて、他が見えない。
親の期待、社会からの要請、〇〇であるべきという世間の常識、立場という都合、男なら男らしくという規範意識、、、そういうものをひっくるめた膜のようなものが自分に覆いかぶさって、それが私の行動指針になっていたんですね。

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とはいえ、誰しもが少なからずそうなのかもしれません。ただ、私の場合、そこに「私」がいなかった。私がどうしたいか?私はどう感じているのか?私はどう考えているのか?それが不在で、先の行動指針が全てだったのよね。

人は社会的な動物だから社会と折り合う能力は欠かせないのでしょう。けれど、社会に過剰に適応するだけが全てではないということも言えると思います。社会と私の間を行き来する動物、それが人間なんじゃないかな。「私」がいなかった私は、だから、人生が詰んでしまったのかなと。

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臨床心理士の信田さよ子さんはこう言います。

カウンセラーとしての経験から、女性もそうであるように、男性も無批判に自分の語りを聞いてもらう場を必要としているのだと思う。
(…)
自分が語り、他者が聞く。そこには批判も否定も上下も存在しない。ひとりの人間として尊重(リスペクト)される場をもつことで、多くの男性たちは(もちろん女性も)自分の傷つき(被害者性)や何を望んでいたか(感情)をはじめて自覚できるのだ。カウンセリングの意義のひとつは、そんな場を提供することだと考えている。


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人はどこかで「私」の話を聞いてくれる人を求めている。ただ、膜のようなものが覆いかぶさっている状態のときは、それがよくわからないのだと思います。その自分の状態に気づき始めたときも、自分には聞いてくれる人も場もなかったんだ!と怒りと悲しみに暮れるかもしれません。怒りと悲しみの果てに、もう詰んだ人生にもかかわらず、それでもどうにか生きたいなと思うことがあったら、「私」を私の中に見つけることから始めるといいんじゃないかな。

これ意外と知られていないんですけど、この世界にはあなたの話を聞いてくれる人がいるんですよ( ̄∀ ̄)
カウンセリングという場がそうだし、それ以外にも自助グループ、当事者グループなどなど。ままならないことも理不尽なこともどうしようもないことも、話を聞いてくれて受け止めてくれるだけでどうにかやっていけることが多いんだなあと個人的には思います。

私がよく通っている繊細さんが集まるグループもそのひとつ。当初は自分と近い感覚を持った人と出会えて話せて共感できるところが魅力でした。けれど、今はとにかく話を聞いてくれる受け止めてくれる彼・彼女たちの存在に価値を感じてて。否定せず、無視せず、頼んでもいないアドバイスもせず、聞いてもらえる、そして、受け止めてもらえる。その時間が言い尽くせないほどのよろこびになっているんですよね。

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聞いてくれる人の存在が少しずつ少しずつ私の中に「私」を呼び戻してくれて、今では自分の中でとても心強い存在になっているなあ。そして、私の中に私の話を聞いてくれる私も現れてきて。あらまあ!そんな「私」もいるのね〜って、そんなささやかな発見と驚きがなんだかうれしいのでした。

↓今はこんな感じかなあ

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