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非美大卒の私がイラストレーションの沼にハマるまで

この3月で「パレットクラブスクール」というイラストレーションの学校の「卒業生コース」を修了した。パレットクラブは「あ、パレット出身なんだねー」と会話できるくらい、その界隈には出身者が大勢いるスクールで、イラストやデザイン業界で活躍する超一流の講師陣が授業をしてくれる。4つのコースがあり、私の場合は、2016年に基礎コース、2017年にイラストコースに通ったのち、1年空けて今年度に卒業生コース…と合計3年間在籍した。今年度通った卒業生コースは、言ってしまえば「大学院」みたいなコースだ。

フルタイムの会社員として働く私にとって、毎回出る「事前課題」の絵を描いて、週末ごとに1時間かけて築地へ通う生活は、時間が足りなかったり劣等感につぶされそうになったりで発狂しそうになったりもしたが、それでいて最高に幸せで得がたい青春の日々だった。

タイトルの通り私は「美大」や「芸術系の専門学校」の出身ではない。
そんな私が30歳もとうに過ぎてから、なぜいまさらイラストレーションを志すことにしたのか。卒業生コースを修了した今、書いておきたいと思う。

なぜパレットクラブで絵を学びたかったのか?

私は人生の大半を「普通」という呪いと戦いながら生きてきた。
小さい頃から絵が大好きで、毎日4コマ漫画を描いたり、友達の似顔絵を年賀状に描いたりするような子だった。生真面目だった自分を、絵や音楽といった芸術表現が自由にしてくれていた。しかしそんな芸術表現への憧れを抱いていた思春期の間、親にはこう言われて過ごした。

「あなたはね、普通の子なんだから、普通にしかなれないの。普通が一番なのだから、普通に生きなさい」

私はその言葉に縛られ、抑圧されてきた。ずっと、普通って何だよと悩んできた。自分の欲望は普通ではないのか? どうして普通が一番なんだ? 普通の何がいいっていうんだ。

今思えば、こんなことを本気で悩めるくらいに恵まれた家庭環境だったことは否定できない。両親は基本的によき両親だった。しかし私にとって普通に生きなければならないことは切実な問題だった。

保育園

(保育園の頃描いた鼓笛隊の絵)

中学生の私は「個性! 自分の表現! 芸術は爆発!」という岡本太郎並みの独自の表現世界に憧れていた。しかし親が私に求めたのは普通の人による普通で平凡な幸せの世界だった。親は学校の成績さえよくしておけば、個性を求めるのを許してくれる。だから変な話だが、周囲に文句を言わせないために、グレたように勉強していた。勉強グレである。この時植え付けられた「普通を満たした上でないと個性を求めてはいけない」という感覚は、いまだに抜けきっていない。私はこの静岡の田舎を早く抜け出して東京に行って、一旗揚げるんじゃ!そんな感じで「普通」との長い闘いが始まった。

私は、勉強も部活も恋も絵も歌も何でもかんでも手をつけた。勉強は上手く成果がでた。根性で何とかなった。しかし私の芸術表現は、どれも中途半端な素人表現だった。内心で自分がそれこそ「普通」の能力しかないことを感じていた。大学進学のときも、美大を志すほどの勇気と自信はなかった。それよりも確実に成果の出る勉強へ心が流され、次第に「普通の世界」がどんどん私を侵食していった。

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(大学時代の絵。稚拙で何とも恥ずかしいが晒す)

社会人になっても、親の求める「普通の世界」に、結局は留まり続けていた。
メーカー勤務だった親の影響で入った前職(自動車系のメーカーの社内広報担当)を辞めることにしたとき、「海外でアートを学ぼうかと考えている…」という話を親にしたら、案の定、猛反対をされて大喧嘩になった。数日泊まる予定の帰省だったのに、あまりの怒りで3時間後には新幹線に乗って東京に帰った。

しかし、そんなに反発して見せても結局「ああ自分にはやっぱりそういう人生は無理なのかな」という呪いに屈して、「普通」を優先した。もう私はすっかり大人だったのに、親の意見に背いて後悔するのが怖かった。

そして私は子供向けの教材出版社という普通でまともな会社に転職を決め、編集者としてほんの少し芸術ににじり寄りつつ、並行して独学で絵を描こうとした。ここでも普通を抑えて個性の世界でもいいとこ取りしようとしたのだ。デッサンを美大受験塾の社会人枠で学んでみたり(通い始めて1ヶ月ほどでその予備校は潰れてしまった)、友人とグループ展の真似事をしたりした。しかし転職先の仕事は猛烈に忙しく、休日の時間もどんどん奪われ、終電も多くなり、私の人生における「芸術という個性」の占める面積はほぼゼロになった。

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(2009年、転職した翌年に描きなぐっていた絵)

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その芸術への憧れが再燃したきっかけとしては、夫の言葉の影響が大きい。
夫は高校の同窓会的なホームパーティー経由で、薄くて細い友人関係を続けていた人だった。友人付き合い期間が長かったため、彼は私の中でくすぶる、やや破天荒な芸術愛を理解してくれていたし、少なくとも高校の文化祭で下手な歌を歌い狂っている姿も、社会人になって下手な絵を展示していた姿も知ってくれていた。

30歳で結婚したとき、私は子供向けの教材編集職で働いていたこともあり、当然「すぐにでも子供を産むもんだろう」と思っていた。そこで結婚して1年くらい経った頃、夫にその話題を振った。すると

「子供というのは始まってしまうと長いプロジェクトになるから、その前に、本当にきみがやりたかったことをちゃんとやっておいた方が良いと思うが、どうだい」

と提案された。そこで私の中からすっと出てきたのが「絵を学びたい」だった。
私の奥の方に閉じ込めて忘れようとしていた欲望の箱をもう一度開けさせてくれた夫の言葉に、今でも感謝している。

私は絵を専門的に学んでみたかった。大学に通うことも考えたが、もっと即物的に、「仕事になる絵」を学びたかった。若くもなかったし、時間もなかった。あとは、社会人になりたての頃、信頼していた人に「お金が対価にならない素人の絵なんて、ただの自己満足・自慰行為だ」と言われて悔し泣きした思い出もずるずる引きずっていた。だから、100%自己表現を目指す学校というより、仕事にもつながる可能性を感じられるところがよかった。

大学の頃から名前を知っていた「セツ・モードセミナー」にも憧れていたが、2016年は残念ながら閉校する年で、問い合わせたときには定員が埋まっていた。他の学校を探して、パレットクラブに辿り着いた。

「東京に行けば、何でもあって、何でもできる。」毎朝テレビを通して東京の景色を食い入るように見ていた中学生の自分。上京する直前、「東京で最先端の表現・芸術の世界を知るんだ」と心躍らせていた自分。東京に来て10年以上経ち、あの頃の自分の気持ちがもう一度胸にこみ上げてきた。東京にはパレットクラブがあった。本当によかった。ちょっと涙が出るくらい嬉しかった。原田治さんの初回授業は、私の一生の思い出だ。

私は絵をパレットクラブで学ぶことで、自分の子供時代を生き直そうとした。「普通」という呪いに縛られたまま、人生を閉じたくなかった。パレットクラブは、私自身の普通コンプレックスをちゃんと成仏させるためのきっかけとなる学校だった。そして、やっと辿り着けたイラストレーションの沼は、想像以上に深く魅惑的な沼だった。まだ私はこの沼にハマり続けていたい。まだ成仏は遠い。そう思わせてくれたパレットクラブに、心から感謝している。

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(パレットクラブでの授業の話はまた次の機会に書くつもりだ)



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