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「死にたい」は「死にたい」でいい

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つい先日、場づくりカレッジ「えすけーぷ。」さんが主催する『「死にたみさん」当事者研究会』なるオンラインでの集まりに参加した。
誤解ないように言いたいのは、自殺念慮を抱いている人の集まりではないということ。ここで話した内容は口外できないルールなので、あくまで私個人の思ったこと感じたことに限定して記したい。

なんだかよく分からないけど、とりあえず「死にたい」って気持ちになる時ってありませんか?
この「死にたい」って気持ちは、世間では軽々しく表現できる感情ではないですし、なかなか取り扱うのが難しいですよね…。
「死にたい」という言葉を言わせる、その背後にあるものがあるとしたら、それって一体何なのでしょう?
この研究会では、そんな私たちが「死にたい」と口走りたくなる衝動の、その意味についてみんなで考えます。

この研究会では、人が「死にたい」という気持ちになる時に、心の中に居る、その気持ちを生じさせる存在のことを「死にたみさん」と呼んでいます。
当日は参加者一人一人の「死にたみさん」のプロフィールを考え、みんなで共有しながらお話しします。
あまり重たくならずに、「死にたい」という気持ちを表現できる場になればと思います。

「死にたいは生きたいの裏返し」何度かそういうフレーズを目にしていて。確かにそうかもなと思いつつも、なにか少し違和感があった。
で、今回のこの会に集まった人たちの語りを聞いて思ったのは、死にたいはそのまま死にたいなんだってこと。
ただただ死にたいの表明、表現、叫びをさせてほしい。そういう場がどこにもないからだ。

だから「死にたいは生きたいの裏返しだよね」なんてあらかじめ前置きされてしまっていたら、もう何も言えなくなるなって。それは黙らせる暴力になりえるんじゃないか。先回りして裏返して解釈しなくていい。

まずは死にたいをそのまま死にたいと言いたい。死にたいと言うことが必ずしも直接死につながるわけじゃない。死にたいのなかに豊かさが多分に含まれていることをこの集まりを通じて知った。

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僕は死にたいが生きたいの裏返しかどうか判断するのは「死にたい」と口にした各々自身のみに委ねられていると思う。だから、他人が「死にたいは生きたいの裏返しだよね」と訳知り顔で語りかけるのはよくよく考えたほうがいいなって。

死にたいなあとつぶやく人に「死にたいは生きたいの裏返しだよね」とよかれと思って語りけることが、かえってその人を黙らせ、精神的に殺しにかかっている可能性があることを想像したい。

「死にたい」は「死にたい」でいい。
「死にたい」すらも言えないことが生きててもしかたないと思わせているのかもしれないなって思ったんだ。

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