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君へ、現代人は「生きる」ことに飽きている

今、なんとなくスマホを触って、なんとなく不安になったり、「やりたいこともないし、もう命もいっそ……」なんて、思ったりしている君へ

そうも思うかもしれない。なぜなら「生きる」ことに飽きやすい時代になってきているからだ。

今は食事にも飢えることなく、物に飢えることもなく、お金に飢えることも、そうそうなくなってきてしまった。飢えても、「あるけど欲しい」という欲しがりさんのレベルだろう?

安全に腹の中で育ち、病院で医師に囲まれて生まれ、学校に当たり前に「行きなさい」と言われ、友達を作るのも、インターネットで遊ぶのも、のらりくらりと「生きる」ことがまあまあ前提になってきてしまった。そういう時代になったんだ。もうそんな子たちは承認されることに飢えるくらいになっ
た。社会もだいぶ満たされてきたんだ。


さて、そんな君は、君だけの万華鏡を覗いていないだろうか。
「世界なんてこんなもの」って、決めつけていないだろうか?
もっといえば、ストローを覗いているような世界にいるかもしれない。


力強く羽ばたく鷹になってみよう。高い所から、君、君の持っているストロー、ストローを覗いて「世界なんて」とため息をつく君、そして君の隣に座る人、君の前を歩く人、君の半径100メートル以内の人。

こうやってちょっとづつ広げてみよう。

時代だって超えていいんだ。4,600,000,000年分ある。
それだけ時が経てば、戦争をしたり、災害に襲われて地球が火の海になったり、今君の持っているストローの果たして何個分の人生になるだろう。

君は「生きる」ことに飽きていないだろうか?君以外の人は、「生きる」ことをどんな風に見つめていたんだろう。



日本には「飽く」という言葉があるんだ。これは少し昔の言葉で、「どこまでも求め、満ち足りたら、要らなくなって、飽きる」という流れがカギになる。

今はもう生命維持としての「生きる」は「飽く」となり、とっくに満ち足りてしまったのかもしれない。


さて、次は別のストローで見てみよう。

戦争の頃はどうだったろう。当たり前にお米が食べられなかった。
本当に食べ物がなく、いつ殺されるか分からない。それを子供のころから目の当たりにしたんだ。

巣鴨や大塚に山盛りの死体が捨てられた。こんもりと人が死んでるんだ。みんな放り投げていく。君と同い年か、もっと幼い子が大人に言われて死体を運んだんだ。火を投げても、腹は臓器が詰まって全然燃えないし、油が滴るだけで、じわじわと死体のけむりが鼻の奥に入ってくる。

「僕が家を背負っていかなきゃいけない」や「ぼくが日本を背負わなきゃいけない」と命を落とすために、飛行機に乗りに行くんだ。

生きたら「申し訳ない」と思い、妻や子が生きていることを「お隣さんは死んだのに、罪を負ったようだ」と顔を伏せて生きていく。

「生きる」は罪悪感であり、誰もが「自分には叶えられない」と思った夢だったんだ。


人は失わないと気付けない。なんでも忘れるただの生き物だからだ。



君のストローで、まだ欲しいと思えるものはあるだろうか。
君なりの「生きる」は、まだ息をしているだろうか。

「認めて欲しい」が「生きる」価値だっていいじゃないか。
「もっと楽しく過ごしたい」なら、それが十分叶えられるように「生きる」でいいじゃないか。なんでも願えば得られる時代に生まれたんだ。「まだこれが欲しい」と思えたら、それで「生きる」でもいいじゃないか。


先生は君の「生きる」を受け止めよう。さて、君のストローからは今何が見えるかな?

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