不可逆あれこれ3 「若き日の父と母」
失ったもの、戻れない時、離れていった何か。
金曜の夜は未練たらしくそんなものを振り返っていきたいと思います。
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「若き日の父と母」
突然だが、谷村新司さんのサライという曲の歌詞をご存知だろうか。
何番かの歌詞に、「若き日の父と母に 包まれて過ぎた やわらかな日々の暮らしを なぞりながら生きる」というのがある。
これを中学の合唱で歌いこんでいくうちに、この歌詞が急にグッと染み込んできて、愕然としたのを覚えている。
反抗期真っ只中で、正直言って親には反発しかなかった。毎日毎日気に入らなくて、どちらとも交互に、ほとんどの時間ぶつかっていた。
そんな時に、強烈に気付いてしまった。
二人は、どんどん歳をとっている。
はっとして小さい時を思い出してみる。
おそらく登園する時。
二人は私を間に挟んで、繋いだ手で私を持ち上げてぶらぶら揺らして遊んでくれたっけ。
でも、気づけば今の父母の姿は、その時の父母の記憶と、全然違っていた。
きっともう、あんな風に軽々と持ち上げられないんじゃないか。
そのことに唐突に思い当たって、苦しくなった。
自分が歳をとっていくことが全く気にならない歳だったから、なおさら。
自分が大人になりたいと願い、叶う分だけ、両親は若さを失っていく。
まだまだ働き盛りだったけれど、確実に、歳をとっていく父母がただただ悲しいと思った。
嫌だ、と思った。
ただし、この時期というのは難しいもので、両親が自分より早く死ぬと知って泣く子供ほど幼くないし、かと言って親を慈しみ労わる方向にいくほどは大人でもない。(だからこれにより反抗期が終わるわけもなかった。)
このため、表面上は何も変わらなかった。
それでも、この時に感じた不可逆性への不合理というか理不尽さというか、憤りだけが、ただただずっと残っている。
そしていつしか、それが自分にも向かうことになった。
もう、戻らない。
その切なさを、噛み締めてみたりします。
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