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ステルラハイツQ

 大学は2年次から都心のキャンバスに移り、母が何度も探して、学校から自転車でおよそ20分の閑静な住宅街に1DKの部屋を借りてくれた。母は心配だと言ってはちょくちょく遊びに来た。さみしいことはなかった。

 たまこは初めての都会での一人暮らしを満喫した。学校の友達との飲み会に、バイトに、試験勉強にと、日々は何かと忙しく過ぎていき、そんな日々に飽きると、ひとりバスに乗り、ミーコおばさんの住む街へと出て行った。

 ネオンや街灯や人々の装いや、騒がしくきらびやかな都会に住んでいたにもかかわらず、夜の街へ出るときよりも、山と空ばかりの街へ出るときの方が、たまこは胸がドキドキワクワクした。

 大学を卒業して、学校からもほど近い関連病院に勤めるようになってからは特に、休みが取れると家を出てミーコおばさんのところへ駆けつけるようになった。そこにはいつも心を緩ます環境があり、待っていてくれる人が居て、時々現れる刺激的な人たちとの出会いがあった。


 彼とは、半分同棲のような暮らしをしながら、何年もかけてくっついたり離れたりを繰り返し、やっぱりこの人しかいないわと、4度目にして思った時に「もう終わりにしよう」と呆気なく振られた。ミーコおばさんからは「当然の報いね。思い知りなさい」と激励された。父は、彼の卒業を待って二人は結婚した後に地元へ戻ってくるものだと期待していただけに、明らかにがっかりしていた。母は「どうせなら婿を探してから戻ってらっしゃい」と冗談だか本気だかわからないことを言った。

 職場の病院には彼との共通の知り合いも多く、二人の破局はあることないことを取り込んですぐに噂になった。何を知っているつもりか、明らかに好奇の目でたまこを見たり、カワイソウにねーと面と向かって言ってくる医師もいた。たまこと仲の良かった看護師さんが彼を射止めようとしている、という聞きたくもない噂をわざわざ耳打ちしてくれる人もいた。ウザイなと思ったけれど、人の噂も75日、仕事には関係ないと高をくくっていた。

 そして75日もほどなく過ぎたある日、たまこの落ち込むでもない態度が気に入らなかったのか、意外と図太いね、と薬剤部の誰かが聞こえよがしに言った。注射用のアンプルを数えていた自分の手が、ワナワナと震えるのを見ていた。ななななな・・・・・、体の震えに合わせて、絞り出されるように、口から声が出るのがわかった。

 そして後はもうなし崩しに事が起こった。たまこは、目の前の物を手当たり次第リノリウムの床に叩き付け、なんなんだここはー、と叫びながら髪を振り乱していた。

 というのは後から人づてに聞いた話だが、とにかくカッとなるままに感情を爆発させて、気がついたらシーンと押し黙ったまま、冷ややかな目線を向ける同僚に囲まれて、足元には割れたガラスとこぼれた薬剤とが散乱する中に立っていた。母と同い年の女性の薬剤部長が静かに歩み出て、足元のゴミをひとつひとつ片付け始めた。たまこは言葉も出ず、身動きも取れずに、その場に立ちすくんでいた。

「気持ちは察するけど、職業人としてあるまじき行為ね。」

 立ちすくむたまこの肩をたたき、薬剤部長はそう言った。すべてを片付け終えてもまだその場に立ちすくむたまこを、薬剤部長は屋上へと連れ出した。そして、

「職業人としてはあるまじき行為だけど、気持ちは察するわ」

と言い直して、たまこの背中に手を添えた。涙が止めどなく溢れ出た。薬剤部長は何も言わずにずっと背中を優しく叩いてくれていた。たまこの涙がおさまるのを見ると、少し休みなさい、と言われた。復帰したければいつでも力になる、とも言ってくれた。その日は、促されるままにタクシーに乗り、自分の部屋へと帰った。

 帰ると、ダイニングの机の上には飲みかけのコーヒーとパン屑の散らばった皿が出たままになっていた。朝食をとる時間も惜しんで仕事へと駆け出していった自分に腹が立ち、ガチャガチャと音を立てて食器を下げると、コーヒーカップの取っ手がポキリと折れた。彼と一緒に選んだカップだった。

 もうそのまま何もする気がしなくなって、コートを着たままベッドに転がった。職場にはもう戻れない。なぐさめてくれる彼ももう居ない。また涙が溢れてきた。気がつけば、彼と別れてから泣いたのは今日が初めてだった。

 悔しかったのだ。彼は、そばに居てくれて当然だといつの間にか思っていた。可愛げのないわたし、振られるのは当然だ、だけどもやっぱり悔しい。そういう関係を作ってきてしまったのだ、そんな関係は壊れてよかったのだ、彼だってそう思っているに違いない。先に気づいて振り切っただけ賢い、後に残されたわたしはバカだ、なんて悲しい人間だ、もう生きている価値なんてない、いやそんなことはない、少なくとも何の関係もない人間からあれこれ言われる筋合いはない、上から目線で面白がりやがってバカヤロウ。

 たまこの中で、悔しさも、悲しさも、怒りも、一緒くたになって駆け巡り、大声で泣きわめくと、すべては空しさに変わって力が抜けた。顔も洗わずにそのまま眠った。

 夜中に目を覚まして、服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びた。髪を乾かし、鏡に向かって自分の顔を見る。目の下にはくっきりクマを作り、頬やアゴはかさついている。

「どんなことがあっても、自分を貶める考えに浸るのはよしなさい。」

 鏡の中から、ミーコおばさんが語りかける。たまこは少しだけ念入りに化粧水をパッティングする。会いたいと思う人がいると、生きる気力が沸いてくる。たとえその人に会えなくても、その気持ちが前を向かせる。

 それから数日経って、たまこはやっぱりミーコおばさんのところへ向かっていた。

 あの翌日、薬剤部長と話して病院を辞める意志を告げた。「別の職場も紹介できるわよ」と言ってくれたが、たまこが「あの日のことはきっかけで、気張りすぎていたようだから少し休もうと思う」と告げると、薬剤部長は安心したように笑った。「仕事に復帰したければいつでも力になれるから」と電話番号をもらい、たまこは不意に涙をこぼした。

「大丈夫?」

と言われて、

「これはうれし涙です」

と慌てて涙を拭った。

 終わってみないとわからないこともある。やるだけのことをやって、わかったことがあれば、それでいい。たまこは、薬剤部長に手を差出すと、それを握ろうとする彼女の手を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。今まで、白衣を着た者同士とで、こんなことをすることはなかった。

「ありがとうねー」

と言いながら、今度は彼女の方が泣いていた。

 こうしてたまこは、5年間勤めた職場を、清々しい気持ちで退職した。

 母には、仕事を辞めたと伝えて「実家に帰らないといけない?」と聞くと、しばらく黙って怒ったように

「そうしたいならそうしなさい、そうじゃないなら帰ってくるな!」

と冗談だか本気だかわからないことを言われた。

 夜になって、久しぶりに彼からの着信があったけれど、取らなかった。

 数日の間は、家の掃除や片付けをしたり本を読んだりして過ごしたが、仕事を辞めてみると、思いのほか退屈を持て余した。たまこが大学時代に親しかった友人はみんな結婚して子供を持つようになってしばらく縁遠くなっていたし、これといって没頭できる趣味もなかった。

 一緒に食べる人がいないと、ご飯を作るのも手を抜きがちになる。1DKのダイニングでひとり、パックのままの納豆をおかずに温め直した白米を食べながら、知らずとため息がこぼれ落ちた。ハッと気付くと居ても立っても居られなくなった。彼とのことで厳しい激励をいただいて以来、ミーコおばさんのところに行きづらいような気がしていたが、背に腹はかえられぬと勝手に思いを決めて、翌日には山へと向かうバスに飛び乗っていた。


 たまこがステルラハイツに着くと、ミーコおばさんはちょうど扉に鍵をかけて家を出ようとしているところだった。

「なんだ、来たの。」

 たまこに気付くとミーコおばさんはそう言って、一寸考えてから、まあいっかとつぶやくと

「あんたも一緒に行こう」

と家の前に停まった車を指差した。何も言わずに来たことを少しだけばつが悪く思ったたまこは一瞬躊躇したが、ミーコおばさんは後部座席のドアを開けると自分はさっさと助手席に乗り込んでしまったので、たまこも開いてるドアから乗り込んだ。

「よぉ。」

 車を運転するのは、これまでにステルラハイツで何度か会ったことのあるマサという名前の男の子だった。マサはたまこの3つ年上で、ウェブデザインやVJの仕事をしていると聞いたことがあるが、それがどんな仕事なのか、聞いただけではたまこにはわからなかった。さらに酔っぱらうとボディタッチが激しかったが、屈託のない性格で、歯に衣を着せぬ物言いをしながらも外さない優しさがあったから、ミーコおばさんにはかわいがられていたようだし、たまこも好感を持っていた。

 少し安心して「どこに行くの?」と聞くと、前の二人は口を揃えて、

「TOKYO!」

と言ったので、たまこは

「え~~~っ」

と長く轟く驚きの声を挙げた。

 まさか、今出て来たばかりのところへ帰ることになろうとは。それでも車はもう発進していたし、たまこも降りるつもりはなかった。ミーコおばさんは珍しく化粧もして、服もなんだかきまっていたし、これはもう楽しいことが起こる予感に身をまかせてみようと心は決まった。

 車の中でたまこは彼との話をしていた。自分では吹っ切ったつもりでいたのが、話しているうちに楽しかったことがあれこれと思い起こされて、悲しい気持ちになった。ミーコおばさんからはきっぱりと叱られた。

「あんた、そうやっていいところばかりかいつまんで思い出すのやめにしなさい。10年も引きずって、せっかく振ってくれたんだから、いいかげん気が付かないと、本物を逃すわよ。」

 しばらく黙って運転していたマサは、冷静にこう言った。

「女はすぐに特別とか本物とかって言うけど、そんなの単なる妄想だよ。男はただ行動するだけでそんなこと考えていないぜ」

 その言葉はたまこの心に痛く刺さった。

「あんたもまだまだ子供なのよ」

 ミーコおばさんはマサを横から小突いて、車がちょっとだけ揺れた。マサは軽く舌打ちをして、また黙って運転を続けた。たまこは何も言わずに、だんだん近付いてきた見覚えのあるはずの派手な街並みを、初めて観るかのように眺めていた。

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