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2021/ドラゴンサウンド/音・映像・文化・歴史

皆さんは、音というとどんな事を想像されるでしょうか?

音そのものは、空間に偏在する可聴帯域の空気振動の存在と言えます。その音という現象に対して、人類誕生以来無限の人々が空気の振動から何だかの感覚を受け取り、反応し、何がしかの定義付けを行なうというプロセスを積み重ねる事で、音という概念の集合意識的分類を構築した結果が、現代のような音の認識と概念に組み込まれていると言えるのではないでしょうか。

周囲に存在する音が、良いか悪いか、好きか嫌いか、或いは他の感想を思い浮かべると言うプロセスを文明開闢以来、無限に繰り返す事で、人類にとっての音そのものの存在の意味付けが進化し、情緒的そして文化的な発展を遂げて来ているようです。

進化論的に捉えると、凡ゆる反応や感覚による定義付けが無限に行われる中で、集合意識的に音と雑音が区別されるように成り、自然音、人工音、無意識的に作られる音、意識的に作り出される音、心地良いと感じる音、そうでない音、などなど人間の情緒と結びついた音が意識化され、その結果、現在の音楽と言う文化的な形態が進化発展を遂げたのでしょうか、、、、、、。

しかし別な視点から見れば、人間そのものが、既に音とスピリットの神秘的な、又は宇宙的な相関関係を古代から認識しており、其れを活用して生活や意識、コミュニティーや社会や文明をある程度操作するぐらいの事が行われてきたようにも見受けられます。文明創世記の、技術或いは認識が未発達の社会では、音の持つ神秘性や影響は相当な影響力があると共に、そうであると言う認識の集合意識的な力学的作用の効果によって、相当大きな権威や力の実行を表す印としても活用されていた可能性があります。

現代の状況

そして、今日の現代文明の発展と共に音が持つ深い影響力は、普遍化と共に徐々にその深さや重厚な意味付けを保持できなくなり、力や権威を表す力学的な表現物から、文明社会の中で最も普遍的、便利に多用される重さのない軽い存在へと偏移してきたという見方も出来ます。伝統的な音楽と、現代の量産型の音楽を感じてみてもその差は一目瞭然です。謂わば極から極へと偏移してしまった後の感があります。

現代の右から左へ、次から次へと流れて行く音と言う情報が人々に与える影響は、文字情報、画像情報、動画情報と共に、益々物量が増える一方、その存在の意義深さ、本物の手応えや、伝えている情報の厚さなどが多様化し、軽量な情報が増える一方で、本物の手応えを知る人々は無量大数的な情報の中から、自分にとっての本物を探し当てると言う仕事の難しさに直面せざるを得なくなってきています。

これはこの地球の現代文明上で人類が産み出した、ある意味、楽しみの一つとも言えるかもしれませんが、流石になかなかの手応えがある状況ではないかと思います。

歴史・進化/何かが起きた。

歴史という観点から音を見た場合、音を録音できるようになってから現代までの期間に、音楽そのものの在り方も相当な普遍的進化を遂げています。音楽の進歩も世代と共に2転3転と流行りのサイクルが巡り、更に限りのない発展を続けています。

物事の進化発展と言うのは、同じ事の繰り返しの中から派生する事もあるし、全く新しい概念を挿入する事で起きる化学反応の様なプロセスで起きる事もあります。

ドラゴンサウンドは、歴史を積み重ねた文化の在り様と、現代の最先端の文化の進化発展を共に同じ目線で観ています。そして其の中に、古くて新しい視点、古くもあり新しくもある人類共通の感性に真っ直ぐに届く要素を持ち併せた、新たな存在のクオリティーを加える事で「何か」が起こるのを見出しました。音楽・映像の中に言葉で説明すると色褪せてしまう「何か」を表現する要素を挿入する事で、音楽や映像の新たな存在性を開拓したという言い方も出来ます。

言葉に出来ない「何か」とは?

音楽や映像ひいては文化と言う現象そのものに、言葉を超えたとも言える新しい視座・要素を与え、本来の表現とも言い表せるかもしれない「表現の素」を引き出します。それにより、より詳細な説得力とよりリアルな存在感を湛えた表現という現象を創造し、提示する事が出来ています。

現在の表現の姿と、ここで提案している新たな表現の姿は、見た目は全く同じと言っても良い状態ですが、感受性が受け取るクオリティーが全くと言って良い程に、手応えが変化します。

ドラゴンサウンドは、この事を通して音楽や映像、或いは文化という現象そのものに最先端の新しいサイクルを弾き起こしていこうという試みを開始し、その試みそのものをアーティストやオーディエンスと共有し、体感し体験し味わうと言う事を開始しました。

私達はこの新たな試みを具現化し、新しい説得力を持つ体感と体験を共有しながら、地球的、ひいては宇宙的な視野から文化を捉え直し、現代の表現の在り方を新しく構築していきたいという、新たな挑戦を始めています。このような視点に基づき、名付けて「ドラゴンサウンド」と言うスタイルを打ち出しました。

感性や感受性の受け持つ役割りについて

現代文明でのアートとも言われる音楽や映像は、そもそも表現者としてのアーティストが、何かを伝えたり表現したい事をステージ或いは音や映像に託し、其れを受け取るオーディエンスとの間に発生する感性を通したコミュニケーションを以って共感性を創造し、一つの型が完成すると言う形の見えない「感受性の受け渡し」を一般的な目的としています。

真っ直ぐに表現すれば、「感性」或いは「感受性」の働きは、発信者と受信者の間に、共振・共鳴が起きた時、言葉を超えて伝わる「何か」を送受信する機能であるとも言えるでしょう。

その機能を充分に働かせてリアルな伝わり方をした時、感性に起きる現象とは具体的に何なのか?という問いが産まれます。そしてそこから、本当に伝わると言う現象が、現代の文化の中でそもそも存在し得るのか?と言う更なる問いにぶつかります。

「伝わる」の定義と本質

これは多くの議論が起こりそうなテーマですが、全くもって目前で演奏される音楽が「再生」と言う環境条件を介した場合にどの様な状況になっているのか、これは様々な視点から考察や検証が必要なテーマとも言えます。センシティブな面もあるので多くは語れませんが、この場合、通常は思考を使って考察し議論しがちな場面かもしれません。しかし音楽について「考える」事と「感じる」事はある意味で別の次元の話だと思います。考察からは推察は出来ますが、それだけでは何も感じる事は出来ません。実際はどうなのかと言う視点から体感や感性が導く答えを重視して状況を判断するのでない限り、人間の感性への影響をまともに判断する術はありません。

例えばどうぞと言われて、手の上に「旨そうかもしれない」おにぎりがあった時、あなたは其れを食べる前に評価したり、批評したり考察したりして満足できるでしょうか?食べて初めてその存在の意味と感想が派生するのであって、食べる前に体験や体感していないものをどうこう言っても、誰がそれで良かったと思うでしょうか?、、、と言うように、「食べていない人に食べていない人が説明する」と言う滑稽な情景から、「食べた人と食べた人が、顔を見合わせながらああだこうだと言う」、実体のある世界観を充実させて行くことがこれからの世界ではとても大切な事になると思います。

この様に、考察や議論を超えてリアルを通さなければ具体的な事が伝えられない、伝わらないと言う事柄は時々存在します。其れを体験・体感したからと言って、直ぐ言語化したりしようとすると、その言語外の事柄は表現出来ず、間違った印象になってしまう事もよくあります。
言語化の重要性と言外の事柄の重要性は共に存在しています。

音楽や映像の世界、ステージ上での世界に前代未聞の体感、体験をもたらす事で、文化と言う現象を横広がりと縦広がりに縦横に次元を拡げていく事。そして表現を伝えると言うことの深さのリアリティーを更に進化させて、楽しみ、体感、体験の、今正に起きている現象を深め、高める事。
ドラゴンサウンドは、この様な視座を提示して、新しい文化のサイクルを作り出して行く時代に既に入った事を感じています。若しくはその様な事が実現出来ると言う事は、今の世に入り、それが受け入れられる素地が整って来たのではないかと感じています。

最先端にいる方々の反応は私たちの想像を遥かに上回っています。

アーティストの方々と、オーディエンスの方々、多くの方々と新しい創造の世界を共有していきたいと思っております。

2022年の展開はどうなるのか?全く想像が付きませんが、事象の進化のエネルギーに乗って、クリエイティブなアーティストの方々とのコラボレーションを楽しんで行きたいと思っております。

今までドラゴンサウンドにお付き合い頂きました方々、ありがとうございます😊
そして、どうぞこれからも宜しくお願いします❗️

来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

判りにくい文章にお付き合い頂きありがとうございます😊


希少な文化的資源を維持して行く為にサポートを頂けましたらとても嬉しいです!!