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最前線、カンボジアで学ぶ「日本らしい医療輸出」の強み

林祥史 先生

役職

Sunrise Japan Hospital Phnom Penh(カンボジア・プノンペン)院長

脳神経外科医、総合診療科医

キャリア


1999年灘高校卒, 2005年に東京大学医学部医学科卒業。亀田総合病院の海外留学枠コースで初期研修を修了、同院脳神経外科後期研修課程に進む。2009年、医療法人社団KNI北原国際病院脳神経外科に移る。2013年に同院脳血管内治療部長となる。臨床業務と並行して、北原国際病院が主導する海外事業プロジェクトにも従事し、カンボジアプロジェクトではプロジェクトリーダーとして調査事業から参画。2016年にサンライズジャパン病院開院時より院長として現地赴任。

記事紹介


安倍政権が掲げる「日本再興戦略」。その成長戦略の一端を担う「健康・医療戦略」では「質の高いインフラの輸出」の一環として、日本式医療の海外展開が挙げられています。日本の医療輸出の形としては主にNPOなどによるボランティア、JICAによる保健医療事業、厚生労働省による医療インフラの輸出、経済産業省によるヘルスケア拠点の構築などを通して行われています。今回はそんな医療輸出の分野で経済産業省とタッグを組み、民間病院でアジアに打って出る北原国際病院、その最前線であるカンボジアで病院長を務める脳神経外科医林祥史先生に取材に行き、医療輸出や自身のキャリアについてなど様々なお話を聞いてきました。

海外への想いを抱いた学生時代

――医師を目指したきっかけは?

高校1年生の進路を決める時に当時見ていたドラマがきっかけでした。目に見えて人助けができる医師という職業に惹かれ、自分のしたい事はこれだと思い、医学部を志しました。

――東大での学生時代はどのような学生でしたか?

最初の4年間はテニスサークルに所属し、幹部としての役割がありましたので大学にはあまり行っていませんでした(笑)
医学部というのは往々にして特殊な環境ですが、テニスサークルでは医学部以外の学生も多く、イベントなどを通して色んな人と関わる事ができ、その中で多くの刺激を受けました。サークルでのイベントの企画や運営を通して、団体の中で仕切ったり、計画を練ったりすることの楽しさを実感しました。

――学生時代にUSMLEを取得されていますね。

はい。そもそも、せっかく医師になるなら国境関係なく世界を舞台に活躍したいと思っていました。大学4年生の時、5年生の始めにアメリカに3か月留学できる枠があることを知りました。そしてそれに申し込むには、USMLE step1を取得していることが条件でした。
それまで最低限でしか大学に行っていなかったのですが、これを機会にきちんと勉強したいと思い、USMLE受験のための勉強を始めました。僕の基礎医学の知識はほとんどこのUSMLEの勉強から積みあがってきたのだと思います(笑)

USMLE Step1を取得後、無事に海外留学に参加する事ができ、オハイオ大学に3か月間行かせてもらいました。一般外科と脳神経外科に所属させていただいたのですが、学生ながらに感じたのは、「手術などに関しては東大など日本の先生方の方がきめ細かく、丁寧な手術をしている」という事でした。海外留学の前にいくつか日本の病院も見学させてもらったうえで渡米したのですが、日本の先生方の手際の良さや慎重さは、海外で見させていただいた症例と比べると明らかに上手でした。手術に対する価値観や考え方が違うのかもしれません。その当時から、将来の進路として脳外科医を考えていたので、医師となってから留学という進路についても意識してきましたが、手術技術の研鑽のために敢えてアメリカなど先進国と言われているところに留学をする必要はないかもしれない、という想いが芽生えました。

――林先生が所属している北原国際病院グループの北原先生との出会いについて

東大医学部では3年生が文化祭運営を担当しますが、その中で東大卒の医師にインタビューをする企画を行いました。インタビューしに伺った16人の先生方のうちの1人が北原先生でした。名簿を見たら若くして脳外科で開業して成功している先生がいると聞き、私が直接お話を聞きにいったのが最初の出会いです。北原国際病院に行ってみると、ホテルのような病院で、カスタマーサービスも充実している等、今までの見てきたどの病院とも異なる雰囲気にとても驚きました。

今でこそそういった部分にも注力している病院は多いですが、当時としてはかなり珍しかったと思います。当時から目指していた海外展開の話など、医学部では学ばないような話をたくさん聞き、それがとても刺激になったと同時に、経営の面など当時から独自の考えを貫いて病院を運営していた北原先生に凄さを感じました。

――北原国際病院へ転職した理由は何でしょう?

亀田総合病院で初期研修終了後、そのまま同院で脳外科医として2年研鑽を積みました。脳外科専門医になるのは後2年の研修が必要な状況ですが、海外留学を含め、世界を舞台に活躍したい、という気持ちはありつつも、どうしたらよいのか、当時まだ具体的には思い描けていませんでした。海外への道も含めて次のステップについて考えていた際にもう一度北原先生に会いに行こうと思い、お会いしに行きました。

7年ぶりに北原先生にお会いしてみると、最初にお会いしたあの時と変わらない情熱をもって様々な事に挑戦し続けておられ、ちょうどカンボジアへの病院輸出プロジェクトが動き出すというお話をお聞きしました。また、脳外科病院としても都内で有数の症例数を誇る病院にまで発展していました。脳外科医として進んでいくキャリアと、医師を志した時から抱いていた海外への想いがリンクして北原国際病院への転職を決心しました。

――いつからカンボジアに来るようになったのでしょうか?

ちょうど私が赴任した年から、カンボジアにおける医療状況の調査という形で北原国際病院が国の予算を取得しましたので、その一環としてカンボジアに来させて頂きました。最初2年間はボランティアとして診察をしたり手術を行いながら、現地の医療状況を探りました。調査では、民間病院として海外展開する以上は継続的に事業を行えるのかという点も重要で、医療面以外の周辺状況も、チームで調査を行いました。

経済でも臨床でも医療の輸出は必要

――なぜ海外への医療進出が必要なのでしょうか?

いろんな側面があると思いますが、私は基本的には日本は国全体で積極的に海外へ出ていくべきだと思っています。日本の医療技術や医療機器はかなり先進的でハイレベルですが、現状としてほとんど海外にはでていません。一方でカンボジア、ミャンマー、ベトナムなど、既に世界中の各国が医療を半分ビジネスとして展開しています。例えばここカンボジアでも、タイやベトナム、フランス系の病院があり、もうすぐ韓国資本の病院も設立される予定です。外国資本の病院を必要としている国はまだ沢山あると思いますし、日系の病院が、日本人医療者と日系の医療機器を携えて医療を行えば、十分通用すると思っています。

――日本の人口が減少し、あらゆる市場も収縮していく中で医療を産業化できれば日本経済に与えるインパクトも大きいですね。医療費40兆円を国の負担にするのではなく一部を産業化する事で経済が潤えば、その意義は大きいのではないかと感じます。

そうですね。ビジネスの面ではそうかもしれませんし、またビジネス以外に臨床の面でも海外に出ていく意義は大きいです。
今後、日本ではさらに高齢化が進んでいきますし、出産数の減少、外傷の減少などで、これまで培ってきた医療とは異なった疾患分布になることが予想されます。高齢患者が多い診療科などは症例数が集まりますし、これまでの医療の質は維持されるでしょうが、一方で小児科や産婦人科、外傷外科などは、症例数が減少していきます。せっかく世界の最先端の技術、品質を誇っている分野でも、患者が減れば医療の質の維持も難しいかもしれません。キャリアの途中で医療者が海外に出る事で、日本だけではなかなか得がたいような症例数や臨床経験を積み、結果的に国内の医療の質の担保も可能になるという意味でも重要だと考えています。

ビジネスの側面では、海外展開は必然とも言えます。例えば、日本が誇る自動車産業にしても、もし日本で日本人向けにだけ自動車を製造していたら世界に誇る産業にはなっていないと思います。技術や競争力のある企業はどんどん海外に出て行き、発展していく事で、それが結果的に日本のメリットにもなるのです。医療は半分公的な分野なので見えにくい部分もありますが、日本の医療の発展のためにも、もっと積極的に海外に出ていく必要があると思っています。

反対意見として、「日本でも医師不足が叫ばれる昨今の状況の中で海外に出るのはとんでもない」と言われることもありますが、私は日本の医師不足は医師が海外に出ていくのが問題なのではなく、もっと別次元の問題かなと思っています。臨床を行わずに基礎研究をしている医師も沢山いますし、彼らも日本の医療には間接的に貢献しています。同じようなことだと思っています。

――数々ある国の中で最初の展開先はなぜカンボジアなのでしょうか?

カンボジアを選んだのは私ではなく、北原先生やそれまでのスタッフの方々でした。北原グループが世界への展開を考え、受け入れる側の国と双方のニーズが一致していると思われた国がカンボジアでした。

私たちがカンボジアを最初の展開先に考えた理由には大きく4つの要素があります。

第1の要素は医療と経済の解離です。その解離を説明するためには少しカンボジアの歴史を振り返る必要があります。カンボジアでは1970年代のポルポト派による内戦時代に国民の半数近くが虐殺されたという悲しい歴史があります。特に宣教師、医師、大学の先生などの知識層が市民革命の芽になり得ると政権の標的にされ、眼鏡をかけているだけで虐殺されたと言われるほど徹底されたそうです。そのような状況だったこともあり、内戦後に生き残った医師は41人しかいなかったというデータもあり、医療は文字通りの壊滅状態でした。それから約40年が経ち、経済は大幅に回復し、中間所得層も拡大し、富裕層も増えてきました。そんな経済成長の裏側で医療は内戦以来の爪痕をずっと引きずっているというのがカンボジアの現状です。教育体制まで崩壊した医療の復旧はなかなか一筋縄ではいかないようです。

――政治が安定すると経済は数年で大きく伸びる事がありますが、マンパワーにたよる医療はそういうわけにはいきません。そこに医療と経済の解離が生まれるわけですね。

そうですね。日本でも医学部から考えると15年くらいしてようやく一人前の医師が育ちますが、カンボジアでは教える立場の医師も殺されてしまったので本当に厳しい状況でした。医師国家試験制度ですら3年前に、看護師国家試験も2年前にやっと始まったところです。専門医コースはほとんど整備されておらず、脳神経外科は国による専門医が誕生してまだ2年です。そのような状況なので、カンボジア人はちょっとした風邪や腹痛などで車や飛行機にのってタイやベトナム、シンガポールへ行き大金を払って医療にアクセスします。国民が皆、自分の国の医療を信用していないのです。それがSunrise Japan Hospital開院前のカンボジアの状況でした。

第2の要素は親日国だという事です。内戦時代から一番の支援国は日本で、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)統治時代の事務総長特別代表も日本人の明石康さんでした。この国の道路や橋、水道などのインフラ整備もほとんど日本が行ってきた歴史がありますし、カンボジア人たちもそれを知っているので、他の東南アジアのどの国より日本という国に対する高い信頼がありました。「外国人医師に命を預ける」という事は通常、すごく不安に感じられると思いますが、カンボジアではむしろ日本人医師なら受け入れられる。薬も日本製をあえて希望されることも多いです。この親日国という要素は私たちにとって大きなメリットでした。

 第3の要素は価値観が近い事です。カンボジアは仏教の国で、西洋的な契約社会ではありません。病院での病状説明やインフォームドコンセントなどを含めた日常診療が日本と同じ肌間隔で行えます。約束を守ったりといった、まじめな気質も日本に近いように思います。

 第4の要素はASEANに属しているという事です。ASEANの一カ国であるカンボジアで実績を積む事は、これから先にアジア諸国への展開を考える上で重要なポイントになると思っています。他のASEAN諸国に病院を設立する際に、同じライセンスや同じ医療機器や医薬品の使用、患者や医師の行き来がしやすいのではないかと考えています。


日本政府公認のプロジェクトに

――カンボジアといえど展開に際して、様々な規制があったり、かなりの額の投資が必要だったりと、民間病院だけで医療輸出を行う事は難しいと感じます。病院輸出に必要なものとはいったい何でしょう?

カンボジアの場合は外国人が開院してはいけないというルールはありませんでした。許認可制となっていて、外国人であっても外国資本であっても病院を開設できるわけですが、とはいえ、途上国ではよくあるように、コネがあって信用してもらえないと、認可してもらえないという状況があります。実際に我々も許認可の申請で2年ほど足踏みしましたし、いかに信用してもらえるかというところが一番大変なところでもあります。

そういった時、日本政府が我々をバックアップしてくれました。調査事業の段階から経済産業省の予算を戴いていたこともあり、当時の野田首相や安倍首相がカンボジアに訪問された際に、「質の高い医療インフラの輸出」ということで首相から直接カンボジア政府に口添えしていただきましたし、我々が開催した医療セミナーに来て挨拶して戴いたりもしました。我々、民間企業単独でなく、政府のバックアップがある事で日本のプロジェクトとみて頂き、許認可申請の事務作業を進めることができました。

日本政府にとっても、我々の「日本式医療のショーケースとしての病院丸ごと輸出プロジェクト」という側面は、日本政府にとって後押しする理由になったのだと思います。

――カンボジアの病院で行っている独自の取り組みについて教えてください

日本は既に医療制度があってその中でどうするかという世界ですが、カンボジアは全く違う世界で、全てをゼロから作り上げていく必要がありました。

例えば、カンボジアでは医療費は決まっておらず、自分たちで値段を決める必要があります。ほとんどの患者さんは保険にはいっていないので、高すぎる値段だと患者さんは来てくれません。我々の病院に来る想定の主訴、疾患の患者さんたちに、どういった検査機器や医薬品が必要で、それを安く提供するにはどうしたらよいかということを一つずつみんなで決めていきました。めまいの患者の検査に、重心動揺計はなくてもいいよね?とかですね。

また、医薬品も含めて、卸業者が日本ほどはいないので、病院で在庫を持つ必要があります。日本から輸入してくるものもあるので、どの程度のストックが必要かといった事も、考え、仕組みを作る必要があります。他にも、急性期や回復期などの日本では一般的な病床機能分化も、カンボジアにはありません。例えば脳卒中の患者さんを診る上で、回復期のリハビリをなるべく家で、家族と一緒に行うにはどうしたらよいか、というように、「医療提供体制のデザイン」から始める必要がありました。この点は現在も運営しながら修正を繰り返している状態です。

また、患者さんと日本人医師のコミュニケーションは、英語が話せるカンボジア人看護師による通訳を介して行っていますが、全ての問診をそういった手順で行うと非常に時間がかかります。患者さん一人当たりのコストを下げるには、なるべく無駄な時間は削るといった効率化が重要です。我々の病院では2年かけて、医師が患者さんと会う前に看護師さんが行う「予診」を、質が高く行うためのシステム(「自動問診システム」)をNECと一緒に開発しました。

自動問診システムでは、年齢や主訴を元に問診内容が自動生成され、答える内容によって次の質問がアレンジされます。無駄がなく、ポイントを押さえて問診できるように設計されているので質の高い予診が取れるわけです。これらの質問が、タブレット端末にて現地の言葉であるクメール語で出てきます。それらを選択していくと予診が完成しますが、カルテ上には英語に自動変換されて反映されるようになっています。これによって、診察室で医師が質問することの半分ほどはすでに聞いてくれており、時間短縮ができています。

――カンボジアで苦労した事は何でしょうか?

今も毎日苦労していますが、一番大変なのは「教育」だと思います。「現地の人を育てて、自立してもらう」というのは、少ない日本人で病院を運営していくということにつながり、病院経営上とても重要だと認識しています。が、日本と同じようにはいきません。

カンボジアの医学部教育の水準は向上してはいるものの、まだ十分とは言えません。国家試験が終わった研修医でも日本だと医学部生向けのレベルの事から教えなければならないところが多々あります。そして、そのような段階で社会人になり、医師として働いていくと、皆、浅い知識で臨床に当たるようになってしまうようです。

 開院間もない頃は何人か、既卒の医師を雇っていましたが、皆「この病気のガイドラインを教えてくれ」「この検査が陽性ならこの疾患だろう」と言って来るのです。「Aという病気にはB」というような、とても浅い知識で対応することに慣れてしまっていると、病態生理をきちんと考えたり、複合的な問題を統合していくことができず、結局うまく指導していくことができませんでした。今は卒後3年目以内の若手に絞って雇用し、日本の初期研修医プログラムのように一から教えていく体制として長期視点で教育を行っています。

双方に利益のある輸出のカタチ

――カンボジアへの医療輸出は一方でカンボジアの富の流出に繋がるという見方はどうでしょうか?

これまで医療を求めてベトナムやタイに流出していた層が、カンボジアに納税する我々の病院に来るようになり、むしろ我々がカンボジアの富の流出を抑えていると思っています。人材雇用や院内外での教育活動も含め、そのような面がカンボジア政府からも歓迎されています。

我々の病院に来る最も多い患者層は、これまで国外で医療を受けていたカンボジア人の方々です。それは、高所得者ばかりではなく、中間層であったり、疾患によっては低所得者の方々も来て、治療を受けて頂いています。

我々の医療の質はお陰様でいい評判を得ておりますし、費用はタイに行くよりも安いようにしています。その結果、順調に患者さんの数が増えてきまして、開院2年で十分事業として成り立つレベルまでもってくることができました。

――カンボジア国内において外資の病院で黒字化するのは難しいのではないかと思います。成功のポイントはどのようなところにあるのでしょうか?

私達は開院まで8年ほど、調査など準備活動に時間をかけることができました。その中で、日本と同じ水準の医療を、カンボジアで、日本と同じぐらいの価格でできれば、患者さんはきっと来てくれるということに気づきました。

カンボジアにもお金持ち向けの病院は存在していて、当院の2倍近くの費用がかかるのですが、もちろん普通の人は受診できません。中には、我々の目からみると、無駄な検査や投薬が多かったり、質も十分とは言えないところもあります。私達の価格で、良い品質の医療ができる病院はカンボジアの人々のニーズに合っているのだと思います。またそれは、北原国際病院グループのフィロソフィーとして「お金持ちばかりを対象にした医療を展開したくない、なるべく貧しい人でもかかれるような病院を作りたい」という、私達のやりたいこととも合致しております。

――価格を安くすることが大事なんですね。安くするためには、どのような努力をされているのでしょうか?

 なるべく価格を抑えて質を保つためには色んな工夫が必要なのですが、一つは、赴任する日本人スタッフをなるべく少ない人数にする、いうことが挙げられます。そのため、開院時に赴任するスタッフは、なるべく多くの事ができるような人を募集いたしました。看護師であれば、手術の介助ができるし、病棟管理もできるような人、検査技師であれば、採血もエコーも脳波も全部できるような人です。元々北原国際病院は、地方の民間病院ですので「なんでもできる医療者」が多い病院でもありましたので、開院時に赴任したスタッフの半分は北原病院に以前から働いていた方でしたが、残り半分は開院までに募集して集まった方々で、足りない部分を北原病院で研修し、準備いたしました。
 
 医師も同じです。病院の規模を考えて、開院時の日本人医師は4人と決めておりました。私は脳神経外科の専門医なのですが、外来や救急ではなんでも診ることになると覚悟し、内科や精神科、循環器内科などの領域を日本にいる間に勉強して行きました。その他の3人の先生たちも、それぞれ得意分野を分担し、麻酔と救急をお願いする先生、一般外科や消化器全般をお願いする先生などでチームを組んで、開院に備えました。

 開院してみるとまさに、予想以上にどんな疾患でも患者さんは来ていただいています。私も今では内科診療が楽しくて、日本の病院総合診療医学会にも所属するようになりました。もちろん、自分の手におえない疾患は日本の各専門医の先生たちに相談しながら、日々診療を行っております。

 これら、マルチに働ける日本人スタッフを集めて開院できたという点は、人件費を下げるという意味ではとても大きいですが、先程お話したように、カンボジア人現地スタッフの教育も一生懸命行い、少しでも彼らが診れる患者さんが多くなるようにすることも重要です。事業の側面でも、教育は死活問題であり、教育熱心な先生たちに支えられて今の病院事業が成り立っているのだと思います。

――教育以外に、価格を安くする工夫は何がありますか?

 はい。やはり使う医療機器や薬剤の値段を抑えることも重要です。必要最低限のスペックの医療機器を選定し、同じ成果が得られるのであれば少しでも安いものを導入する方針に致しました。

例えば、当院のCTは64列、MRIは1.5Tです。最先端とは言えないスペックなのですが、最先端のものの半額で導入できるので必要十分と判断致しました。また、「日本の医療のショーケースにする」という旗印で、なるべく日系企業の医療機器を持ち込ませていただきました。

当院で使うことで、アジアを中心にした世界展開の足がかりにしてもらいたい、そのために、なるべく安い値段でいいものを入れてくれないか、という、大変厚かましいお願いですが、日本の企業の方々にお話させていただきました。結果、オリンパスやパラマウントベッドなど、良い品質の日本製機器を、価格を抑えて導入することができ、契約企業の約8割は日系企業となりました。
 

真の貢献はカンボジア医療全体の向上

――話を教育に戻します。林先生は日本とカンボジアの医療を繋ぐAPSARA学会を創設したり、日本の他病院と連携して教育的なカンファレンスを行っていますね。それらの活動の目的は何でしょう?

はい。さきほど、病院の事業にとって院内スタッフの教育が重要であることはお話した通りです。ただ、我々病院だけうまくいっても、カンボジアの多くの人達を救うことはできません。一つの病院で診れる患者さんの数も限られていますし、何より、貧困層の患者さんたちは当院を受診できず、国立病院を受診しています。

 「貧しい人をどう救っていくか」という、我々の命題は、これまではAKAHIGE基金という枠組みでの活動のみでした。募金や教育活動で得た資金で運営されるAKAHIGE基金は、支払い能力がない、かつSunrise Japan Hospitalでなければ治療できない患者さんの治療費を代わりに支払うという仕組みです。

 我々が敢えて、日本から出てカンボジアに来て医療をするのは、やはりカンボジアの人達全体を救いたいからなんです。お金が払える人だけを救うということは目的とはしていません。そこで、我々ができることとして、病院のスタッフ以外の、外部の医療者への教育というのにも力を入れていこうと思いました。カンボジアの医療全体が底上げされていくことが一番の社会貢献になるのではないかと考えています。

 ちょうど同じころ、日本にいる先生達で、途上国で医療教育をすることに関心がある同年代の先生達と出会いました。順天堂大学の高橋先生と、埼玉医科大学の山田先生です。彼らもそれぞれ、内科診療のエキスパートとしてこれまで培った知識、能力を、カンボジアなどアジアへの教育に活かしたいと考えておりました。そこで、「医師としての基礎となる知識・技術が学べる学会をカンボジアに作り、現地の医療者を集める」「日本の医師にとっては、英語で教育をする機会として活用してもらう」ということを実現するために、APSARA学会という学会を2018年に、彼らと当院スタッフとで立ち上げました。日本側は、日本病院総合診療学会も提携して頂いております。具体的には、月1回のウェブカンファランスと年2回の学術集会を行っていく予定です。(詳しくはwww.apsara-medicine.com 参照)

教える側も教わる側も、当院以外の医療者が関われる枠組みとして、今後盛り上げていきたいと考えています。

チャンスはカンボジア以外にも

――これからの展望についてお聞かせください。

北原国際病院の展望としては次のステップとして、ベトナムとラオスへの進出があります。リハビリテーションスタッフはすでに現地に駐在し、医療を提供しています。その他にも3、4ヶ所の国では現地調査が進行中です。一時的な調査や支援として各国に入りながら、Sunrise Japan Hospitalと同じような方式で輸出するのか、それとも別の方式で輸出するのかを探っている状態です。

――病院輸出プロジェクトを通して、途上国が日本の医療に求めているものとは何だと感じられますか?

医療を受ける患者さんの視点言えば、日本できちんとした診療を提供する能力がある人、ということが最低限必要です。当然ですが、「日本人」というだけで、中身が伴っていないようだと、患者さんにも簡単に見透かされてしまうと思います。そのうえで、日本人の勤勉さや、「医療を単なるお金儲けとしない精神」は他の国が行う医療輸出とは一風異なる、「日本らしい医療進出」の強みともなると思います。

ビジネス面としても、医療者が出ていく事は医療機器や医薬品の輸出とパラレルな関係です。前述の通り、我々はカンボジアで医療を行うに際し、できる限りMade in Japanにこだわっていますが、企業側で同意が得られず、使いたくても導入できなかった医薬品や医療機器も多くありました。病院輸出は日本の医療市場拡大にも大きく貢献しうるので、大きなチャンスと思っていろんな製薬会社や医療機器会社にも関わって欲しいと思います。

新しい医療を作るのは君だ

――全国の医学生へ一言お願いします。

私が現在まで行ってきた活動やその経験というのは日本に限らず世界中のどこでもなかなか得られるものではありません。カンボジアに、今のタイミングに来れたから、できているのだと思います。医療制度も整ってないし、医療も足りていないという特殊な状況のカンボジアにいるからこそ、今、「本当に患者さんにとって必要な医療とは何か」という事を既成概念抜きに考えて、日々実践しています。

一番の違いは、お金です。日本にいると医療におけるコスト意識は薄れがちですが、カンボジアで医療をしていると、いかに安く、それでいて良いアウトカムを出すかという事についてどうしても考えざるを得ません。

治療費がかさみ、高額になった場合でもカンボジア人はなんとかお金を工面してくる患者さんやその家族がいます。中には土地を売ってくる方もいます。そこまでしてでも、どうしても家族を助けたいからと。そのような中で、大金をかけて治っていく患者さんもいれば、残念ながらお金が尽きて、治療を断念せざるを得ない患者さんもいます。本当に必要な医療はなにか、無駄な治療で高額になっていないかなどを、私は日本にいた時以上に切実に考えるようになりました。

Sunrise Japan Hospitalが開院したのは私が医師11年目の時でした。このような新しい発想で取り組んでいくのは本来、日本の医療制度に慣れているベテランの医師より、若手の医師や、研修医、そして医学生の方が得意な事なのではないでしょうか。

世界には色んな国があり、医療支援を必要としている国はまだまだ沢山あります。そして日本の医療制度にしても、今後はどうなるかわかりません。日本以外の国で国際的に医療貢献をしてもいいし、日本の医療制度を改良していくのも良いと思います。なるべく固定概念にとらわれず、常に「新しい目」で物事を見て、これからの医療に反映してもらえたら、それは本当に素晴らしい事だと思います。


Sunrise Japan Hospital院長、林祥史先生

インタビュワーあとがき


 カンボジアはプノンペン、Sunrise Japan Hospitalに行ってきました!
 3月にも関わらず真夏のような暑さのカンボジアでしたが、それ以上にいまアツいのがカンボジアで始まっている「病院丸ごと輸出プロジェクト」です。その最前線のSunrise Japan Hospitalをやっと実際に見てみる事ができました。

2年生の頃、本屋で偶然手に取った北原先生の著書「病院がトヨタを超える日」。本書で語られていた北原先生が考える医療に触れ、日本の医療について当たり前だと思っていた事がひっくりかえされたような衝撃を受け、北原国際病院での2週間のインターンをさせて頂きました。

その頃は、ちょうどカンボジアでSunrise Japan Hospitalが建設され始めたころで、北原国際病院にもたくさんのカンボジア人研修生たちが来ており、何か面白い事が始まろうとしているような雰囲気を感じました。

その時、林先生はカンボジアに入っておられたので直接の面識はありませんでしたが、以前にインターンしたご縁で今回もSunrise Japan Hospitalに来させていただきました。

Sunrise Japan Hospitalでは林先生を始めとする日本人の医師やコメディカルの方々、エンジニアの方や経営関係の方がおられ、多くのカンボジア人スタッフと一緒にいい雰囲気で働かれていました。

インタビュー中にカンボジア人の医師の教育が課題だと仰っていましたが、とてもできるカンボジア人医師の先生方もおられ、日本人医師からカンボジア人医師への教育だけでなく、カンボジア人医師からカンボジア人医師への学びの共有も盛んに見る事ができました。もちろん今のような状態になるまでとても苦労されたと推察しますが。

日本の医療は輸入超過産業で、医薬品や医療機器もそうですが、世界的な流行病や災害時の医療支援の参画の遅れや医療ツーリズム後進国、診療ガイドラインの国際標準化参画の遅れ、臨床研究での論文数の遅れなど、医療の色んな面でグローバル化の遅れが指摘されています。

日本の医療を海外にショーウインドウとして見せる事ができるSunrise Japan Hospitalのような病院がそんな問題に対して一つの解決策となるのではないかと思いました。
また、海の向こうのカンボジアでつねに新しい医療の形を模索し、PDCAを回し、新たな成功モデルを作る事が、まわりまわって戦後長らく大きくは変わらない閉塞感のある日本の医療に、新しい道を提示する事に繋がるのではないかと感じられました。


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