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メモと気付き:ページ1

駐輪場の横を通り過ぎた時:誰も特に何か大きな力を持っていなくても、同じことをする人がたくさん集まれば、時に国や政府を動かすことができる。

今日慶応大学の先生の話を聞いた。久しぶりに大学の授業を受けているみたいでわくわくした。卒業してまだ半年の社会人一年目の半年しかたってないけど、もう社会に吞まれてたことにはっとした。考えるということを、しなくなっていたなと。お金を稼ぐためにどうしようと考えることに慣れた今、思考の形が「正解」「答え」「近道」を探すことばかりになっていた。なんとなくいつも頭で感じていたもやもやする感覚が、その小さい回路をぐるぐる堂々巡りしてることの悪循環を指していたんだな、と今言語化できた。

先進的なことばかり見ると、世界はとても変化しているように見える。これも気付かされたこと、はっとして、ギューンと主観から客観へ戻れる言葉だった。確かに、なんでもそう簡単に変わるものではない。変われるなら自分自身が一番変わりたいものだ。変わってる人や世界や環境は一部もちろんあるし絶えず進化しているものはあるだろう。でもそれが理想と希望になり過ぎると、今の状態(現実)から距離が空き過ぎて返って状況が悪くなったり綺麗ごとになってしまい課題解決から遠回りになるんだろうなー

現実世界を見るためには、どうしたらいいんやろう。現実って今ここにあると思ってた。し、これが現実やと思ってた。現実逃避をしてるつもりもないし、現実を隠してるわけでもないし、みんなもそんな意識して現実を隠してるわけでも無いやろうし。隠してることも現実ってことになるか。ていうことを踏まえても現実を知らなさすぎるってことを言われることもよくあったり、現実はそんな甘くない(つまりあなたはまだ現実を見てないよって意味なのでは)ってことだとしたら、どうやって現実を知れるんやろ。現実に生きてるはずやのになんでこんなに現実を知らんのやろうって不思議がばばばっと芽生えてきた。現実って、自分から知りに行かないと知れへんもんなんや、と。自分からアクション起して行動して現実は見えるもんなんちゃうか。経験する、同じことをやってみる、同じ状況に合ってみる。感じたことは、想像する、考えるだけでは絶対に理解しきれるなんてことはあり得ない。 

普通の生活の当たり前、が固定されることの不自由さ

食いつないでいくための仕事がない。労働のハードルが高すぎる。基準が高くなり制度が綺麗になり過ぎたことで働きづらくなってしまった。

自分らしくってなんなん。福祉の世界で使われる、自分らしい暮らしを応援しますって、10,000通りぐらいあるらしさをいちいち考えてくれるんかって。自分のタイミングに合わせて付き合ってくれることできるんか。その人の自分がしたいと思う普通の生活がそもそもできへん時点で、自分らしい?なのか。その人本人になってみないとしたい事をしたいタイミングで考えるのなんて無理に近いから、自分らしくを福祉から考えると無理に近いんじゃないかって思ったり。

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