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父(じいたん)からの最後の贈り物〜力強い握手とオーケーマーク〜

吉良です。

2024年5月10日17時に僕たち家族をはじめ、あらゆる人たちにこよなく愛され、やさしく接していただいた父(呼び名:じいたん)が96歳で旅立ちました。

父の最期は何度も呼吸が止まるなか、母、妻、長女、姉の必死の呼びかけの度に息を吹き返すという状態で、父の「最後まであきらめずに頑張る生きざま」を我々に見せてくれました。

ひ孫の幼稚園からの帰りを待っていたかのような静かな旅立ちでした。家族や知人たちの父を励ます応援と、無理をしてでも東戸塚に会いに来て顔を見せてくれたことが父に「生きる楽しみ、まさに生きがい」を与え続けていたことは間違いありません。感謝しかありません。

僕にとっても最後まで、おだやかで優しい父でした。重い病気もなく、ほとんど苦しむこともなく、たくさんの家族に見守られた、まさに人柄通りのおだやかな旅立ちでした。

93歳の母が最後の最後までしっかり連れ添い、父の理想である「家で一緒に食事を摂ること」を望み、貫いた、我々への「生き字引」となるまさに「良い夫婦」のお手本でした。

旅立ちの日、5月10日は両親の71回目の結婚記念日。父の日々だんだんと弱っていく過程でも、その日までは頑張るという強い意思を感じました。

結婚記念日を17時間しっかり生きて、結婚記念日を命日に変えました。それも二人が連れ添った自宅で。見事な生きざまに、死してなお、父の凄さを感じました。

その日の夜、母と集まった家族と共に父の実家、吉良酒造のお酒で父への献杯と両親の71回目の結婚記念日のお祝いをしました。

この後、5月15日にお通夜、16日葬儀告別式を執り行いました。
仕事、学業、家事、体調を最優先することを父はいつも望んでいたため僕も13・14日の大阪芸術大学、15日の日本女子大学の講義は休講することなく行いました。

20・21日の大阪芸術大学の往復の機内からは父の大好きな富士山と日本平がよく臨めました。

富士山
日本平と富士山

noteで追悼文を書くのはこれで4回目。最初は電通の先輩で起業の先輩でもある、岡康道氏。2回目が大阪芸術大学等でマンガを学問に変えた、川田潮氏。3回目が九段高校の同級生でサッカー部同期の松下三四郎氏

そして今回になります。大きな違いは今までの3つの追悼文はすべて日本の平均寿命からみても「早すぎる旅立ち」でした。

それに比べると父の旅立ちは「天寿を全うしたおだやかな旅立ち」だと、残された側としては思いますが、父本人はまだまだ「もっと生きて、母の料理を食べたり、みんなで食事会や旅行、とくに故郷大分や長く住んでいた日吉やそこの公園に咲くキラザクラや大好きだったハワイ島、富士山などに行ったり見たりしたかった」と思っていたとは感じます。

見送る側から「よく頑張った、良い人生だった」と言われることが天寿を全うしたと言われることなのだと父の旅立ちから最後に学ぶことができました。

日吉の公園に咲く キラザクラ

今までのnoteにも書きましたが、父からはたくさんのことを学びました。どちらかというと物静かで穏やかで、いつもニコニコ笑顔の絶えない父でしたが、時々話す言葉には力があり、説得力があるがゆえに「父の考えは吉良家の常識」であり僕にとっても大切な「人生の方向性の指針」でした。

父(じいたん)からの教え

●平和に対する考え方

父は戦争には行っていませんが、戦争を体験しました。父の「平和に対する強い想い」が父が常に言っていた「みんな仲良く」の原点だったと感じています。

「戦争からは何一つ得ることがない!だから平和が大切」

は父のモットーで、以前父に「僕や孫たちに、どういう時代を生きてほしいか、どう生きれば良いか」と質問した時、「とにかく戦争のない平和な時代を生きてほしい。戦争や争いにはとことん反対してほしい」と言われたことがあります。

そういう意味では父にとって、戦後の平和国家日本は理想的で、ウクライナ戦争などには心を痛めつつも、子や孫やひ孫が平和に育っていることにいつも安心して生きていたと察しています。僕もその意思を継いでしっかり平和教育を毎年6月、「沖縄の日」の前後におこなっています。

●「参加する努力」とコミュニケーション

父には友人が多く、母の努力もあってその関係性が旅立ちまで続いていました。友人たちが先に旅立っていくことに対しては口には出していませんでしたがとても寂しかったと思います。

天国でたくさんの旧友たちと語りあっている姿が思い浮かびます。何故こんなに友人が多いかといえば、家族ぐるみのお付き合いをクリエイトし、会があったら「参加する努力」をいつもして、その「予定を楽しむ」ことが晩年までの楽しみだったからです。

家族に対してもそれが大変なのは解りつつも、会に参加して家族がコミュニケーションする大切さを自分の経験から、つまり身をもって家族に教え続けていたと感じます。誕生会、新年会、家族旅行はまさにコミュニケーションの機会創出だったわけです。

この考えも僕の原点である僕の著書「1日2400時間吉良式発想法」に記しています。

●始めたことは諦めない、継続は力なり

父にはたくさんの趣味もありました。96歳で留学・駐在もせずに英語が話せるのは驚きでした!理系だったこともあり数学もすごかったです。

水泳部主将だったためあらゆる泳法が速く、僕は全く勝てませんでした。囲碁も日本棋院の5段でほとんど無敵でした。旅行や散歩など好きなことはとことん継続していました。

囲碁5段の取得は相当大変で、取れるまで通い詰めていたみたいです。きっと英語もそうだったのでしょう。老後の旅行、散歩、食事などは母と趣味を合わせて仲良しの秘訣を教えてもらってました。

僕が多趣味なのも「やめることを良しとしない」父の教えだと思っています。家族でするゴルフ、サッカー、演劇鑑賞などもこの教えからですね。まさに「継続は力なり」です。

●未来を読む

僕が就職活動をしている時、父の言葉が凄く響きました。父が就職する時期は戦後の混乱期でした。当時、日本の最先端企業だった化学、それも肥料系を選択したそうです。

どこにでも入れる学力を持ちながら、未来の日本の経済成長業種を読みきれなかったことをとても反省していました。

だからこそ僕に対して、「20年、30年先の未来を予測して企業を選びなさい。できたら、3交代などの労働時間システムもなく、できたら転勤も少ない方が良い。」と的確に示唆してくれたおかげで、最終的にこの内容に一番適合していた電通を選択した記憶があります。

よく父から「何やってる会社かよくわからないけど、時代にマッチしていて良かった。」と半分褒め言葉をもらっていました。基本的に父よりは良い選択と言うニュアンスでした。

マンガデザイナーズラボが「未来マップ」をたくさん描いていることの根源である「未来は撮れない、だから描くしかない」のコンセプトも父の教えから繋がっていることは間違いありません。

●若い時こそ収入が必要

就活時にもうひとつ父に言われて企業選択で意識したのが「初任給の高い会社を目指すように。若い時にこそ収入が必要。」でした。これはとても強い口調で言われた記憶があります。

その時、父は若い頃の給料が低く、生活も大変で母にかなり負担をかけたと言っていました。僕の記憶でも高校2年生までずっと社宅暮らしでした。

始めての日吉の自宅は僕にとってもとても嬉しかったので父にとっては天にも昇る気持ちだったと思います。

50年近く生活した日吉の自宅

その父の苦い就職経験を僕に繰り返させたくないと就職に臨む姿勢を示唆してくれました。この示唆をしっかり受けて、企業選択をしたのをよく覚えてます。

商社や広告業界など初任給の高い会社の中から電通に入社。今日の基礎を築く事ができました。

●自分を創る

僕の嫌いな3つのこと」は父の教えです。

僕の嫌いな3つのこと
・自分の名前の前に大学名をつけること
・自分の名前の前に会社名をつけること
・自分の名前の前に役職をつけなること

子どもの頃から「僕の父は○○」と親自慢をすることをものすごく嫌っていた父。「学歴、社歴、役職にとらわれない自分自身を創ることの大切さ」を自らの背中で示してくれました。

この教えは僕の教育方針「自分らしく自分のストロングポイントを伸ばす」に強い影響を残しています。

他にも父はたくさんのことを僕に教えてくれました。

このように父のことを書き綴りながら感じたのは、父の旅立ちへの悲しみはありますが、喪失感はほとんどなく、むしろ存在感が日々増している気がすることです。まさにこれが「見守られている感」なのでしょうか。

旅立つ前々日、父の意識のある最後に交わした力強い握手の感覚は僕の右手にまだしっかり残っています。その後見た父の最後のアクションは横たわるベッドから僕に向けた指で作った「オーケーマーク」。

“よくやってるよ俊彦!ありがとうな!吉良俊彦をしっかり創れよ!" と言われた気がしました。

いつも見守っていてください。ありがとうございました!

遺影になった95歳時の父の写真

マンガデザイナーズラボのマンガデザイナーたちが短い時間で父の似顔絵を描いてくれました。ご覧ください。

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吉良俊彦(マンガデザイナーズラボ代表)
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