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つぶやき

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#映画レビュー

『ミスター・ノーバディ』(2009)
最後、老人ニモが「アナ」とつぶやいたのがひっかかる。少年の想像の世界にいた可能性を秘めたままの何者でもない存在としてのニモが、少年がある人生を選び取ることを決断したことでその人生が現実化して「誰か」になれたことを表しているように見える。

『太陽がいっぱい』
落ち着いたトーンでフィリップに殺す目論みを伝えてそのまま実行したのが怖いくらい純粋だった。

フレディを殺した後、部屋の窓から子どもたちが遊んでいるのを見下ろすトム。どこかから流れてくるピアノの音。残酷なまでに穏やかな昼下りに独り佇むトムの姿が忘れられない。

『遊びの時間は終らない』
銃を撃つときでさえ「バン!」と恥ずかしげもなく叫ぶ平田。ある仮定された状況にどれだけノることができるか。メタな視点をあえて失うということ。

平田コールを聞くうちに若干キマってくるような表情がすごかった。

『シコふんじゃった。』
弱小チームが努力して強豪に勝つみたいなスポ根ドラマの路線に安易に走ってないのがよかった。どことなくあだち充作品と同じ雰囲気を感じる。終始ゆるい音楽が流れていて気持ちよかった。

「フレームの周囲には必ず死が潜んでいる」と監督がインタビューで答えていたように、本当にどこで死んでもおかしくないと思うシーンが多々あった。もしかしたら雨の中自転車で走ってる途中にトリが事故に遭うかもみたいな。その世界線と最後のシーンとが等価値のように思ってしまう。

副業で薬の売買をしてるシェフのちょっとした優しさ?(フォカッチャのサービス、好きな味のピザを持ってく等)や、ロキタがパニック障害で倒れたときに栽培業者がトリとの電話を許可するのも、善意から来るものというより管理コストを下げる意味で振り撒かれている感がある。

『トリとロキタ』
移民の仲介業者のようないわゆる典型的な搾取する側とは別に、麻薬の栽培業者がロキタを単なる利害関係者と見なしてる感じや、ビザ申請に関わる役人の私情を切り離して仕事に臨む態度に共通する他者に立ち入り過ぎないことで生まれる残酷さみたいなものを強く感じた。

『都会のアリス』

カメラのレンズから世界を覗いていたヴィンターが、アリスに自分の写真を撮ってもらったりアリスと写真を撮ったりする。

撮ることとは対照的に、自身がフレームの中に収まる/世界に内在するって感覚は自分を見失っていたヴィンターに効いたんじゃないかと思う。

『トゥー・ダスト』

妻の死をきっかけに遺体の腐敗していく過程を追うユダヤ教徒のシュムエル。

想像上でしか語り得ないこと、それはしばしば不安を想起させるけど、それに対して現実の観察という科学的な手法が時には人の悲しみを和らげるのかもしれない。

『ショーシャンクの空に』

アンディーではなくレッドが語り部であるのがいい。原作を読むと、これはレッドの物語なんだと実感する。アンディーこそ、レッドの心の奥底にあった、看守たちでさえ捕えることができなかった自由そのものだったんだと。

『トラストミー』ハル・ハートリー

歪んだ愛を持つ親の元で育った二人が、愛より尊いRespectやAdmirationを重んじる。でもそれはそれで危ないのかもしれない。

『ヘンリー・フール』に続けて『フェイ・グリム』。

サイモンの詩が店のカウンターやインターネットに貼られて、恐らくその詩が持つ「本当の」力以上に世間が勝手に騒いでいた前作と相似して、ある男の『告白』という文章があずかり知らない所で増殖に増殖を重ねて世界全体を揺るがしていく。

『フィッシュストーリー』

「音楽は世界を救う」と言う人たちとは違う仕方である歌が世界を救う。より実際的に。その歌の元になった本も、本来の意味と取り違えた和訳で…。
本来の意図とは異なる形で別の領域が生まれてる。その連続で今が作られているんだなって。

高良健吾がとても良かった。

『秋刀魚の味』小津安二郎

娘の結婚に際して、それぞれ様々な葛藤があったのかもしれないけど、あまり内面まで掘り下げずにいる。物語がドラマチックに移行していくわけじゃなく、「そういうもの」として流されていく。
画面に移されるモノや音楽が、人物の感情の隙間を埋めてくれているような。