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【315/1096】「傷つくならば、それは愛ではない」~Part2~ちゃぶ台返し?

315日目。ものすごく久しぶりに、麻辣の薬膳料理を食べたらば、ものすごい発汗しました。まさに滝汗。でもなんかめちゃめちゃスッキリした。たまに食べよう。



さて、何日か前に、「傷つくならば、それは愛ではない」という記事を書いた。

「愛だ」と言われて暴力を受け取らなければならない構造になっていたとしたらば、それは愛ではないと書いた。
そして、これはそのとおりだと思っている。

傷つくならば、それは愛ではない。
これは、一見すると相手側から「傷つけられ」て、「その相手の行為が愛ではない」と言っている。
それも一側面としてはある。

でも、実のところ、本当には相手は関係ない。
ちゃぶ台ひっくり返すようだが。

傷つくならば、それは、自分が愛していないのである。
自分で自分を傷つけて傷ついているのである。
誰かに傷つけられたのではなく。
だから、相手の行為を愛がないと責めるのは、本質的には違うと私は思う。
だから、愛だと言ってそれを押し付けていないか?自分がそれをしていないか?と自分自身を確認しておくのが大事だ。
これを書くのはなかなか難しい。
「被害に遭うのは自己責任」というのとはまったく別の話なのだが、なんだか書くとそのように受け取られるかもしれないと思うので。
でもやはり両面を書いておこうと思う。

本当に心底つらくてどうしようもないときは、自分で自分をケアすることもできなくなる。
そういうときは、それをケアできる人が引き受ける。
それが周囲の人かもしれないし、専門家であり、支援者であるかもしれない。
人間はひとりでは生きられないのだから、助け合うということは当たり前のことだ。

でも、ずっとそこに居続けているとしたら、ちょっと考えたほうがいいと思う。
なぜなら、誰にも傷つけられないように生きるのは、不可能なのだから。
もちろん、傷ついたら、「傷ついた」と思っていい。

でも、どんなときもいつでも、自分を傷つけてきた人に、なぜ傷つけるのか?そこに愛がないじゃん!と、責めるのは違うと思うのだ。
それは、自分が相手を傷つけているということに他ならない。私を傷つけないで!という暴力を相手に受け取らせようとしていることだ。
それは、愛ではない。

これをやり続けると、周りから人がいなくなる。
この人、どんなことで傷つくかわからないし、自分が傷ついたら責められる(傷つけたほうが絶対に悪く、自分は悪くない)から、距離とろう・・・ってなる。
これは、「この人がなんのきっかけで怒り出すかわからないし、怒り出したら手がつけられない」と同じ構造だ。
しかも、怒っている人よりたちが悪くなることがある。
なぜなら、「傷つけられたこと」は「私は悪くない」という免罪符がつくからだ。
私は悪くないのに、傷つけられた。だから傷つけた相手が悪い。

繰り返すけど、加害と被害の関係で、被害者になった場合、被害者が悪かったということを言いたいのではない。それは加害したほうに責任がある。

だけど、ずっとそこに居続けていないか?は確認しておく必要がある。
被害者ポジションは、そこにはまると居心地がいいのだ。
加害者が自分は被害者だと言うのと似ている。
この場所にいたら、永遠のループである。

そして、実際のところ、優しいこころをもつ人ほど、人を傷つけたと思うことで深く傷つく。傷つけた自分に落ち度があると思うから。
自分が余計なことを言って傷つけたと、次からもう何も言えなくなったりする。
何も言ってくれなくなってもいいような関係性を築きたいのか?ということをよくよく考える。

図星をさされる、つまり、現実をつきつけられると傷ついたと感じる人は多い。
私も図星をさされると、「がびーん!」となるし、くっそーと思うし、なんでそんなこと言うのだろう・・・と思うこともある。
最近はだいぶ、受け取れるようになってきたが、以前は、まっすぐボール投げられたら、避けるみたいなことをしていた。
傷つくと、そこから先に進めなくなる。
もしかしたら相手は違う意図で言ったかもしれないのに、それを確認することすらしないで、すれ違ってしまう。

現実を見る、事実を認識するというのは、ものすごい胆力がいる。
見たくないものを見ない、聞きたくないことを聞かないというのが人間なので。
だから、自分の現実を見ていなければ見ていないほど、ショックを受けるので、ストレスがかかる。
そのストレスを自分で処理できないというだけのことだったりする。

どれだけ自分を引き受けているか?というだけなのだ。
つまり、どれだけ自分を受容しているかということだけど。

現実以外には動くものはない。
現実を動かさないから、妄想の中で苦しむ。

自分が傷ついているのは、相手がどうであろうとも、
自分で傷ついている。
それをどのくらい引き受けられるかが、現実を変える。
傷つくならば、それは愛ではない。
そのとき、自分を傷つける方ではなく、それをどう受け止め、どう変えるかに舵を切れるか。

自分を完全に客観的に見るというのはほとんどの場合、できない。
だから、人と関わる中で自分を知っていく。
自分を知り、向き合う中で、変化し、成長し、可能性がひらいていく。
自分が傷つきたくない殻に閉じこもると、そこからもう先には進めない。

自分を開けば、ある意味、傷つくのは当たり前である。
今まで閉じていればよけいに。
ガーンとなってしまったからと言って、愛がないというわけではない。
傷つきたくないと縮こまるよりも、傷ついたとしても、自分を開いて人と関わっていくほうが、生きている実感がある。
私が私を生きている。

傷つくならば、それは愛ではない。
それは、相手ではなくて、常に自分自身に問う。
どんなときも、自分は自分の味方でいること。

ストレスを受け流せるようになるのは、身体で練習するのが一番です。
いつもそこに戻るけれども。
自分の身体感覚を磨くのは、自分を愛することと同じ。

では、またね。




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