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【430/1096】「誰が侮蔑と憎悪の”石”を投げるのか ―日本社会に漂う差別意識の正体-」に参加して

430日目。

12月5日の丸善ジュンク堂のイベント「誰が侮蔑と憎悪の”石”を投げるのか ――日本社会に漂う差別意識の正体-」に参加した。

「外国人差別の現場」という本を出版されたジャーナリストの安田菜津紀さんと安田浩一さんお二人のトークイベント。

ウィシュマさんの事件

入管収容施設について、ウィシュマさんの事件でニュースになるまでほとんど知らなかった。
そして、今もあまり詳しいわけではないが、このイベントでお話を聞くことができて、本当によかった。
問題点を明確に話してくださったため、構造がとてもわかりやすかった。

イベント当日は、安田菜津紀さんとウィシュマさんのお誕生日で、生きていればウィシュマさんは35歳だった。
カバーの写真は、ウィシュマさんの妹さんが、ウィシュマさんが好きだった赤のリボンを使った花を作ったものだそうだ。

ウィシュマさんの事件の概要は以下の通り。

名古屋出入国在留管理局(名古屋入管)でスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさん=当時(33)=が収容中に死亡した事件。
 ウィシュマさんは2020年8月に収容され、昨年1月から体調が悪化。2月に尿検査で「飢餓状態」を示す異常値が出たが、点滴などの治療を受けられないまま3月6日に死亡した。
 遺族は昨年11月、「保護する義務があったのに適切な医療を提供しなかった。死亡しても構わないという未必の故意があった」として、殺人容疑で当時の局長らを刑事告訴していたが、名古屋地検は2022年6月17日、殺人容疑で告訴されていた当時の名古屋入管職員13人を「嫌疑なし」として不起訴にした。

東京新聞ニュースより抜粋

2007年以降、入管収容施設で17人の外国人の方が亡くなっている。そのうち、5人は自殺をしている。
先月も、イタリア出身の方が自殺をしたそうだ。
菜津紀さんと浩一さんは、これ以上、ぜったいに犠牲者を増やさないという想いをもって活動されている。
これだけのいのちが奪われていながら、なぜ、繰り返されて変わらないのか?ということが問題である。

ウィシュマさんの事件での、入管の非人道的な対応は新聞やニュースで報じられているが、知らない人のために東京新聞のリンクを貼っておく。

入管収容施設は、法務省の管轄施設であるが、司法が介在することがなく、人を拘束できる場所、人の自由を奪うことのできる施設になっているそうだ。
え?治外法権?
法務省は、人権を守るためにあるんじゃないんだっけ??とかなり疑問符が浮かんだ。

入管収容施設で人が死ぬということ

入管収容施設で、人が死ぬということがどうことなのか?

刑務所は、司法が介在する(逮捕→拘置所→裁判→刑の執行)ことによって人が拘束される。
人の身体の自由を奪って、拘束することは非常に重いことであるにもかかわらず、入管収容施設はその司法の介在がいっさいなく、身体拘束できる。

『ここに問題がある』と社会が声をあげてきていない。
それが、差別、偏見があったからなのではないか?
亡くならなくてもよい命が失われてきているということを直視していない社会になっているのではないか?
いのちを軽視している場所では、さらなる差別や偏見に基づいた行動が容認されてしまうのではないか?
という問題提起がなされていた。

入管収容施設は、人道的に非常に問題が多いと言う。

入管の収容施設で人を収容するケースとして、
・コロナ禍の不景気で、仕事がなくなった
・学費が払えず、大学に通学できなくなった
・パートナーと離婚した
など、生活をしていれば誰にでも起きえる変化によって、日本在留資格を失うということが、外国籍の人にはある。
「国籍国に帰ってください」と通知があり、送還されるまでのその準備をするための期間、収容されるというのが建前となっている。

ところが、ウィシュマさんに関する入管庁の(菜津紀さんによると内輪の)報告書には、
「収容を続けることによって、立場をわからせるために仮放免を出しませんでした」と堂々と書いてあったそうだ。
ある種、拷問のように収容を続けてきたということである。
これが入管の体質だ、と言う。

人権と言う概念のない入管施設

今の入管収容施設の中に、「人権と言う概念はない」と浩一さんは言う。建前、スローガンとしてはあるかもしれないが、内実として存在しないと。外国人の安全を保障する施設などではないということ。

例えば、入管施設の元幹部がかつて書いた本の中に
「外国人は煮て食おうが焼いて食おうが自由」
と書いているそうだ。
こういう入管の感覚は、取材にいったときにも感じるという。
安易に怒鳴る、乱暴な言葉を使う、施設にいる外国人を格下にみている、犯罪者だからいいでしょという感覚。
それらがにじみ出ているというのだ。

これらはウィシュマさんの事件のニュースでうすうすは感じていたものの、実際に取材して見て聞いて感じている方たちの言葉で聞くと、だいぶショックを受けた。
国の機関、法務省の管轄である施設でのその対応、感覚は、この国がそれを容認しているということではないだろうか。

自己責任じゃないか?という批判

ウィシュマさんの問題で、「国に帰ればよかったじゃないか」「自己責任だ」という声は後を絶たないらしい。
しかし、ウィシュマさんは国に帰れない事情があった。
ウィシュマさんは、元パートナーの激しいDVがあり、収容されていた時期に脅しの手紙(殺すぞなどの文言がある)が送られてきており、帰国できなくなった。
DV被害者に対しては処置要領があり、保護されるはずなのであるが、その処置要領自体が施設で周知徹底されていなかった。

そもそも、入管は、「差別」している意識がない、概念がないという。治安機構だと思っており、外国人を追い出すために存在している、管理し監督し追い出すための機関として存在してしまっているというのである。
これは、戦前の特高警察の流れをくんでいるからだ、と。

現在、外国籍、外国ルーツで日本に在住している人は300万人を超える。大阪市の市民より多い。
その人たちと一緒に生きている国になっている、にもかかわらず、その人権を守らず、管理し監督し追い出すための機関が存在し、司法が介在しない状態で自由に拘束できる組織があるということに戦慄した。
安田浩一さんは、「入管は、一度解体するしかない」とおっしゃっていた。

法務当局の隠ぺい体質

ウィシュマさんは支援者から何度も仮放免してほしいと申し入れがあったのにもかかわらず出なかった。
入管が仮放免を出すのに条件がある。
そのなかに「犯罪を犯すかもしれない人」は仮放免できないと書いてあるそうだ。
犯罪を犯すかもしれない人とは、どんな人なのか?誰が決めるのか?は明確になっていない。
はっきり言って、誰もが犯罪を犯すかもしれない可能性はある。ゼロの人はこの世界にいないわけであり、それが条件になっているということはなんなのか?

特別在留資格が下りる基準も、ブラックボックスであるという。
運が良ければ申請が通り、運が悪ければ通らない。
入管で、運が良ければ生き残り、運が悪ければ命を落とす。
というのがまかり通っている。
日本に外国人政策はないと20年以上前に安田浩一さんは気づいたという。
「外国人を守るため、一緒に生きるため」の政策は存在していない。治安として、取り締まる、管理する、監視するための法律はあるが、守るために何をすべきか?の議論すら起きていない。

ウィシュマさんの事件で、法律に基づいて情報開示の請求をしてくださいと名古屋の入管に言われたので、法律に基づいて請求したら、ほぼ黒塗りの資料15,000枚が出された。16万円の手数料を請求され、支払って出てきた資料はほとんどが黒塗り。
入管庁が出していた報告書に書いてある部分すらも、黒塗りになっていたという。

この不透明さ、ブラックボックス政策は議論する、批評する材料すら与えられないということである。
ものすごい隠ぺい体質。

なにを隠したいのか?
何を見せたくないのか?
何を知らせたくないのか?

2014年、牛久の入管施設で、カメルーンの男性が亡くなったケース。
”痛い(I’m dying.)"とのたうち回って訴えている男性を7時間放置して亡くなった。
監視カメラにその様子が映し出されており、ニュースやSNSなどでも流れていた。
その様子を監視カメラで見ていた職員の書いた報告書には「異常なし」という記載。
しかし、このケースでも入管の責任は問われておらず、不問となっている。

法務当局が入管の職員が、きっちり処分されたことはなんと一度もないという。
身内の犯罪を、裁けていない。すべて握りつぶしている。誰にも見せたくない、隠す。
黒塗りの文書も同じである。
入管問題は、黒塗りが象徴的で、当局の体質なのだと言う。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/125024  「日本はひどいことやる、と印象変わった」とウィシュマさんの妹さんたち

ダイバーシティ?インクルージョン?

この入管の体質は、戦後からずっと変わっていない。
外国人だから差別し、外国人だから管理し、監視し、取り締まらなければならないというのが、法務当局の施設でまかり通っている状態で、
「日本は国際化に向けて」だとか、
「ダイバーシティ&インクルージョン」だとか、
そういった言葉はむなしく響く。
入管だけではなく、これは、日本のいまの社会の中で起きていることである。
外国籍、外国ルーツを持つ人にとって、日本は住みやすい国になっていないということを、今回の本でも裏テーマとして書いているそうだ。

ウィシュマさんのケースで、死ぬ前2週間の監視カメラの映像が残っている。それを開示してくれるようご遺族や支援者が求めているが、一部の人にのみ数時間分だけ開示されたという。
亡くなる3日前のウィシュマさんの様子を見た弁護士さんの話によると、ぐったりしてバケツを抱くようにして上半身を起こしているウィシュマさんに、
職員が「はい、食べてね」とスプーンで運んでいる。
それを口にしたウィシュマさんは吐いてしまっているが、口をゆすぐこともなく、職員が次から次へと「はい、食べてね」とスプーンを口に運んで食べさせるという映像を見たそうである。食べ物を飲み込めずに吐いて、そのあと、口にスプーンを運ばれる。

そのかなりの凄惨さに、言葉もでなかった。
人間のすることとして認知したくないので、抹消する防衛反応が出そうになる。
これが現実か、と。
この現実を日本でどれだけの人が受け入れているのであろうか。

この様子に書かれている報告書の表記は「食べた」の一言であったそうだ。
弁護士の児島浩一さんは、「この報告書は虚偽ではないが、真実ではない」と表現されている。
この状態では裁判をするしかない。
裁判をするには労力も負担も費用もかかる。
入管庁側が、オープンに開示されていたら裁判をする必要はないのである。

外国の入管施設は

ヨーロッパ、イギリスの入管収容施設は、もちろん不自由な面もあるが、人として暮らしやすい状態が整っている。
インターネットもできるし、携帯の使用も認められている。
美容室もあるし、ゲームをする部屋もある。
楽器を演奏して楽しむこともできる。
面会ルームも、カフェテリアのようなオープンな場所である。

収容されている人は犯罪者として扱われていない。

「この収容所は、この中でポジティブなカルチャーをつくりあげるための支援をするのが入管施設」とイギリスではなっている。

日本もそのように変わっていかなければならない。
せめて、黒塗りの書類が出てくるような組織体質を変えていかなければならない。

なぜなら、日本はもうすでに外国籍、外国ルーツの人たちと一緒に生きている国だからである。

声をあげる

政治は声をあげることから始まる。

入管法の改正が自民党によって行使されそうになったが、それを止めたのは、市民が声をあげたからだと言う。

そのとき声をあげた中には、若者(高校生、大学生)がたくさんいた。
なぜなら、自分のクラスに外国籍、外国ルーツの友だちがいる、隣人だから、彼らのために声をあげたのだと。

私たちは、間違っていることに文句を言うべきだ、とお二人は訴えている。
民主主義の国に生きていて、民主主義を行使するということ。
「私たちはいま、ここにいます。反対の声をあげています」という存在を見せつけることが本当に重要なのだと。

私たちが生きている社会、
私たちが呼吸している社会、
その社会を変える必要がある。

安田菜津紀さんが
「人権を守るとは、
あなたの意見には賛同できない。
あなたのカルチャーをすべて受け入れることはできない。
あなたのことは苦手である。
だけど、
あなたが不当な扱いをうけること、
あなたが何かしらの形でルーツや自分で変えられないものを攻撃されること、
それは違う

これを言えることだ、とおっしゃっていた。

私たちができることは小さいかもしれないが、
声を上げ、黙らないと言うことが大事なのだとここでも改めて思った。

自分が1人に伝えるだけで、何が変わるのか?と思うかもしれないが、隣にいる1人に訴えることで社会は変わってきた。
自分が「おかしい」と思っていることをおかしいと言える社会。

あらゆる差別は許されない。
その声を、諦めないということ。

お二人のお話は、たいへん学びが多く、具体的で、笑も交えてわかりやすく話をしてくださった。
重い内容ではあったが、素晴らしい時間になった。

菜津紀さんがご紹介していた朝鮮学校の維持のために行われているキムチの頒布会のキムチは本当に美味しかった。

我々は同じ地球上で生きている、同じ生態である。

では、またね。

P.S. 麻布中学の入試問題に、大人はどう答えるか?


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