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【392/1096】泣く子に途方に暮れた話

392日目。粗大ごみを出して、着ない服を寄付して、子ども服をおさがりでもらってくれる人に送った。夏の間、後回しにしていたことが片付いて嬉しい。


今日は自分の子どもの頃のことを思い出していたせいか、子どもを育てるのに感じた困難さについて思い出した。

子どもを産むと、子育てに困難を感じる親は、自分の子ども時代が想起されていると言われる。

赤ちゃんが泣くのは、泣く以外に不快を顕すことができないからで、唯一の表現が泣くということだ。
だから赤ちゃんが泣いたら、不快をとりのぞくのが養育者のつとめである。
ところが、思い当たることはすべてやった(授乳、おむつがえ、暑い寒い、眠いなど)のに、赤ちゃんが泣き止まないということは、めちゃめちゃある。
不快なことはないはず(大人の頭では)なのに、泣き止まない。

このとき、私は途方に暮れた。
そして、「泣き止まないのは、私を困らせている」と感じてしまい、さらに途方に暮れた。

泣き止まないので、ずっと抱っこしていたのだが、1ヶ月もしないうちに腱鞘炎になって、抱き上げることが激痛になってしまい、さらに途方に暮れた。

途方に暮れても、「赤ちゃんはそういうもの」とおおらかに構えるということができれば、たぶん違っただろう。

しかし、その頃の私は、どうにかして泣き止ませなければと思っていた。
泣かれると自分がものすごい不快感情に乗っ取られるからである。
穏やかに「ああ、泣いてるねー。何がいやなのかなー?」などと接することはなかなかできなかった。
誰か他人がいるときにはそれができるが、赤ちゃんと二人になると、表情がごっそり抜けてしまうことが多かった。
泣いていない時には、可愛くて、笑いかけたり、話しかけたりできるのであるが、授乳やおむつがえと言ったやれることがあって泣かれているのではなく、なんだかわからないが泣いているというときが、どうにもならなかった。

子どもをほしいと思って、もう妊娠は無理かもと思っていたのに授かって産んで、待望の赤ちゃんだったのに、どうしてこんなにイライラするのだろうと自分を本当に責めた。
どうしてほかのお母さんたちみたいに、うまくできないのかと。

夜泣きも本当にひどくて、毎日まとまって眠る時間が取れず、子どもの泣き声を聞くのがこわかった。
泣き止まなかったらどうしよう、泣かせないように、泣かせないようにと気を張って、毎日がくたくただった。

そういうのを相談すると、「子どもを預けて、お母さんがまず休みましょう」と言われる。
もちろん、それも大事である。
そして私も、使えるものは全部使って(区の一時預かりや、ベビーシッターなど)、自分が休んでリフレッシュするということをやった。
休める時間はとても大事だったし、リフレッシュもできた。

しかし、その頃の私にとっては、リフレッシュする時間は一時だし、そんな一瞬休んでも全然回復できてる感じはなくて、焼け石に水感がすごくあった。
(リフレッシュできることで、そのあと、子どもが可愛く感じるという人もたくさんいるので、あくまでも私の場合である。)
そのうえ、子どもを預けていることに罪悪感を全く感じないというのは無理だった。
そして、「私にはほかの人にできることができないんだ」という劣等感がわいてきていた。

その後、これは、私のアーリートラウマ(妊娠期から始まる早期トラウマのこと)によるものだったことがわかった。
私の子育ての困難さは、子どもを他者に預けるだけでは解決しないことだったのだ。

トラウマとは、未完了のまま封印されている記憶である。
子どもを産んでその時期の子どもと一緒に居ることで、自分のトラウマが想起されて、困難になるのだ。
これは、乳幼児期だけの話ではなくて、子どもの成長に合わせて、その頃に何らかのつらい経験をして封印したものを持っていると、それが想起されてしまう。
だから、それを適切に再処理すると、子どもとの関係性も変わる。

特に、わがままを言わない「良い子」をしてきた人は、何らかの封印が必ずある。
なぜなら、子どもはわがままを言うのが当たり前の存在なのである。それが「言わない」のは、自分の不快感情(負情動)を感じないようにして封印(解離)して、生きてきたということに他ならない。
自分の子どもの年齢に合わせて、その頃の自分の記憶と自我状態が引っ張り出されてくるのである。

生い立ちの中で、親の期待に応えて「良い子」でいるために、自分の気持ちを抑えて適応してきてしまうと、大人になってからもつらい出来事にあっても、つらい気持ちを抑える傾向が強くなり、自責の念を抱えやすくなると言われている。

私は、子どもが乳児のとき、「自分はひどい人間だ」と思っていた。
夫にも子どもにも優しくできなくて、本当にダメな人間だと。

でも、そうではなくて、自分の不快さを感じて抱えられる身体感覚を持っていなかっただけだった。
赤ちゃんの頃は、言語ではなく、身体感覚のみである。
身体欲求のままにいても安全なんだという体験を重ねることが発達に大事な時期に、身体欲求のままいてはいけないと適応した結果、私の封印された不快感情が赤ちゃんの泣き声によってでてきたということだった。

この国は赤ちゃんの泣き声に不寛容である。
電車で赤ちゃんが泣いていたら、無視してる人が一番多く、たまに舌打ちする人がいる。そしてたいていそこでお母さんは困っているみたいなシーンをよく見たし、自分もそうだった。
(そういうときに声をかけやすいように、シールを持ち歩くということをコロナ前はしていた。子どもにキラキラのシールをあげると泣き止んだりする。)

でも、赤ちゃんは所かまわず自由気ままに泣くのが自然で、赤ちゃんが泣きわめいているのを親がコントロールできる(「早く泣き止ませろ」と怒鳴る人いますよね・・・)とか、あんなに泣くのはわがままだとか思っていたら、そう思っている大人のほうが不自然なのである。

つまり、自分の身体感覚を切り離している大人がそういうことを言う。
そして、その人たちは、自分の身体感覚を切り離して適応しなければ生きてこられなかった人たちともいえる。

自分の身体にいる、というのは、生きる上でのベースである。
その身体感覚を持てないと、解離して適応するしかない。
(この場合の解離は症状として認識されるものというよりは、不快感情を抱える身体感覚が獲得できていないので、感情制御がうまくできず、感情をなかったものとして処理する(一次解離)ことで適応していること。さらに症状が進むと、二次解離(複雑性PTSD、ストレス障害、パーソナリティ障害など)、三次解離(DID:解離性同一性障害)になっていく。<ヴァン・デア・コーク氏が提唱したTSDPによるもの>)

「子どもが泣いたら、お母さんが呼吸をととのえればいいんだよ」
と言われて、それだけ?と思ったが、本当にそのとおりだった。
「呼吸をととのえる」とは、解離した身体感覚を育てることになる。


↓ 子どもが泣いて困っていた頃に読んでいた本たち。

うちの子どもはもう幼児期を過ぎたが、今は、自分のところに泣きに来たら、安心する。
ちゃんと子供の安全基地として自分が機能していることに。

では、またね。


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