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「弱いつながり」をつくる人になろう

「弱いつながり(ゆるいつながり)」「弱いきずな」とは、ちょっとした知り合い、を指す。なんとなく顔を知っている近所の人、いつも顔を合わせるコンビニの店員さん、バーや居酒屋でたまたま隣に座って話が弾んだ人、など。

彼らは、ほとんど自分のことを知らない。
知らないが故に、自分のバックグラウンドや事情関係なく、その時々でさまざまな話ができたり、いい意味で無責任なので思いもよらぬ提案をしてくれたり、偶然みつけた共通点で盛り上がったりすることができる。
そういう意味で、弱いつながりによって、自分の可能性は想定以上に広がることができる。
(実際に、私も、起業家カフェ、で偶然出会ったりんご農家さんと仲良くなり、次の約束で山形まで泊まりがけで会いに行き、それから定期的にやりとりをしたり遊びに行ったり、りんごを毎年購入させていただいたり、、、と、以前にはなかったつながりから、ものすごく生活が豊かになった^^こここのりんごは、できるだけ農薬などを使わずに作られていて、友人にプレゼントしても大好評で、それもまた嬉しい。)

また、よわい繋がりの場、では、「過去の自分」や「日常の自分」に縛られずに存在できる。一瞬前に、どんなに怒りが込み上げてくる事象が怒っていようとも、コンビニの店員さんと笑顔で挨拶できたことで、「なんだ、こっちの自分もいるじゃん」と、心が晴れやかにって、気持ちを切り替えることができたりした経験を、少なからず誰しも持っているのではないだろうか。
肩書にとらわれず、ただ「今日は暑いですね〜」とフラットに言い合えるというのも、心に平常心をもたらしてくれるように感じる。

そんな人、場であると感じている。

一方、反対語は「強いつながり」「強いきづな」
こちらは、家族、親しい友人、職場の人、など。
自分のことをよく知っている人のこと。
知っているが故に、的確なアドバイスをくれたり、自分の興味関心にそった提案をしてくれたりする。
インターネットの中はまさにそう。自分にカスタマイズされた広告や記事がピックアップされる。
今の自分を深めるには、強いつながりも、大切。

しかし、強いつながり、きづな、ばかりだと、「現在」や「環境」から抜け出すことは難しい。

弱いつながり、による、思いもよらぬ出会い、発見、ノイズ、が、自分の可能性を広げるために、ものすごく大切であるのだ。


人生の充実には、この「弱いつながり、きづな」と「強いつながり、きづな」の両方が必要であると、東浩紀さんは「弱いつながり」という著書の中でいう。ここまでの話も、東さんの本から一部引用させていただいる。

私は、ずっと言語化はできなかったけれども、
この「弱いつながり」が大好きだった。そこに可能性と安心感を見出していた。
社会人になってから、好きだったのは、馴染みの居酒屋やライブバーのカウンター。その日誰がくるかわからない。どきどきはありつつも、隣同士になった人と話すことがとても楽しく、自分が知らない世界を生きているその人の話を聞くことで、自分自身も世界が広がった気がしていた。
また、お互いの素性(本名や仕事など)にほとんど興味がないのも、心地よかった。ただただ、ライブを見る、話す、その場を楽しく過ごす、という目的で同じ時間を共有していることが、心地よかった。
私も、何者にならなくてもよかった。
今でも、本名がわからない、という人もちらほらいる。

と、前置きがながくなったが……
ずっと、自分はこの人生で、何をしたいのか、どうありたいのか、を模索する中で、今、たしからしいことが、
この「弱いつながり」をつくる人になりたい!ということ。

会社員から、ファシリテーター、コーチ、土鍋家、といったさまざまな仕事をしてきたが、自分が何に喜びを見出していたのか、ということが、
この「弱いつながり」に集約されていて、まさにそれをやってきたのだ!
ということを、この数ヶ月で確信し、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。

だから、「弱いつながりをつくる人」として、活動していきます。
きっと今すぐ何かが大きく変わるわけではないけれど、これまでやってきた仕事も、それを意識するだけで、細部が全く変わったものとなり、故に結果も全く異なってくると予感がある。
やります。やりたいですよ。

最終的な夢は、
NHKのプロジェクト72時間に出ていた、商店街の大判焼きやのおばちゃん。
あれこそ究極の弱い(かつ強い)つながり、を作っている場、人、ではないかと。
70歳にそこを目指し、今は40歳の私が、やるべきことを、ただ心が喜ぶことを、やっていくのみ。

応援していただけると嬉しいです。

2023.10.8 Mayu



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