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触れただけで溶けて消えてしまうもの

 部屋の鍵を探してかばんの中を手当り次第ぐちゃぐちゃにかき回していると、5月の真夏日を帽子なしで20分ほど歩いたせいなのかくらっと目眩がした。思わず手をついた打ちっぱなしのコンクリートの壁がひんやり冷たくて思わずそのまま寄りかかり、頬をくっつけてみた。鋭くない、まるい冷たさが気持ちいい。


 「手、冷たいね」「ごめん、緊張すると冷たくなっちゃうんだ」。出会ったばかりの頃、君の手に触ったらすごくあったかかったのを鮮明に覚えていたから、初めてキスしたときに握った手がすごく冷たくて驚いた。酔った君の瞳は真剣なのか虚ろなのか薄暗い部屋では判別がつかない、ただたしかな冷たさで君の温度を理解した。思い出すのはいつもこの散らかった薄暗い部屋──真夜中のせいだけじゃない──それだけ。それだけしかない私たちの記憶は君の手の冷たさのおかげで今日も覚えていられる。


 目眩がおさまってから冷たいコンクリートから名残惜しくも身体を引き離し、がちゃがちゃ鍵を開けて自分の部屋に戻る。冷房をつけるにはまだ早いけれど三方向の窓から差し込む初夏を思わせる日差しが部屋の中で熱になっている。暑くて思わずワンピースを雑に脱いで下着になった。なんとなく冷蔵庫を開けるクセは子どもの頃から治らない。氷を一粒舐めながら眺める。買いだめしてる牛乳や、まだ食べてないゴールドキウイ、飲みかけのノンアルのワインボトル、チーズのオイル漬け、ジャムと蜂蜜、昨日の残りのキャロットラペ。この奥に、一年前は君がくれたメゾンカカオの生チョコタルトがあった。少し恥ずかしそうに差し出したその紙袋もしばらく捨てられなかったっけ。

 生チョコタルトは一つずつアイボリー、スカイブルー、コバルトブルーの3種類の小さい四角い箱に入っていた、この美しい色の配列は忘れられない。しっかり冷やしたはずなのに部屋の空気に触れただけで溶けて溢れ出すかのような濃厚なチョコレートクリームが、タルトをかじったところからこぼれ落ちないか心配だった。誰も知るわけないのに、誰にも知られないように。秘密にしておきたくて冷蔵庫の奥に隠し、真夜中にこっそり食べた。秘密の君を少しずつ消費していた。


 結局冷蔵庫からは何も取り出さず、ただぼーっと冷気を浴びて身体を冷ました。口の中の味のしない氷はあっという間に溶けていた。そのまま床に横になる。これはひんやりまるい冷たさだ。棘のない、鋭くない、きんきん痛くない心地よい温度。冷たい君の手をずっと握っていればよかった。離さなければよかった。電気を消した部屋でテレビの光を背にした君の手と唇にもう一度触れたい。ダイアモンドの粉が舞った夜空のような瞳にもう一度見つめられたい。床に横になった目線の先の鏡にはブルーのレースの下着を身に着けて夏の犬のように横たわる自分が映っていた。もう一度君に触れてもらえればいいのに。



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