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ただ名前を呼んでくれさえしたら。

ばっちりメイクよりこのままが可愛いと君が言ったすっぴんの私が、鏡の前で不機嫌な顔をしている。その上寝起きで浮腫んでいる。とてもじゃないけど可愛くない。どうせ誰も見てないし、今日はどこにも行かないんだし、このまますっぴんでいいかともう一度鏡を見る。ううん、でも、私が見てる。そう思い直して棚の上のメイクボックスを取り出し、ごとりと置いた。誰も見てなくても、君がいくらすっぴんの方が好きだと言っても、私はそうは思えないしふと鏡や窓ガラスに映った自分を可愛いと思いたい。まつ毛をしっかりカールさせて、たくさんあるルージュの中から今日の気分にぴったりの色を選ぶんだ。

この街にきて1ヶ月半。まだ生活は整わない。新生活を始めるのってこんなに大変だったんだ。30を過ぎて初めての経験に、心が躍ったり面倒な手続きに病んだり君が恋しくなったり。私だけが心と体を忙しくしていて、街も会社も季節も当たり前に進んでいく。この前キックオフしたと思ったプロジェクトはすでに佳境に入っているし、パンプキンラテはもう飲めない。君も相変わらずの一人っ子特有のマイペースを保っていて、それが私を落ち着かせたり不安にさせたりする。

週末何してるの?時間あったら会おうよ。って気軽に言えればいいのに。名前のない関係性、もうこれで何度目?いっそ趣味なんじゃないかって笑えてくる。酔ったフリして電話するのも慣れたもの。君の仕事の愚痴をBGMに青梅街道を歩く。風の音が強くて、私の「一応聞いてる」と伝えるための小さい相槌がかき消されないか心配になるけど、君はお構いなしに、きっとそんなことにも気づかずに話し続ける、まるで相手が私じゃなくてもいいみたいに。アレクサに話しかける君の声を思い出す。アレクサ、電気消して。アレクサ、明日の杉並区の天気は?アレクサ……私がアレクサだったら、名前を呼ばれただけで君がしてほしいことなんでもしてあげるよ。今日みたいに仕事が大変だった日は、電話越しじゃなくタクシーに飛び乗って君の家まで行って、がんばったね、えらいねって抱きしめて、あったかいココアを作ってあげる。髪をドライヤーで丁寧に乾かして、その一度も染めたことのない綺麗な髪や、想像以上に柔らかい頬を君が眠ってしまうまで撫でててあげる。君がするのは、私の名前を呼ぶことだけ。それだけでいいんだよ。

口先だけの男だったらいいのに。耳心地のいい言葉だけ囁いて、そのまま何も行動に移さないでいて。自分の今の生活を立て直すのに必死な私はこれ以上心を揺さぶられたくなくて、君の嫌なところばかり探そうとしている。探せば探すほど君の些細な部分も思い出してしまう。短く切った爪、肩の古傷、私の脱いだ服を抱きしめて寝ていたこと、ああ幸せすぎる、と短く言ったあの声と瞬間を。私は今日も君が今何してるのか知らない。

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