マカロニえんぴつを好きでいながら働くことはウェルビーイングである

最近、仕事で「ウェルビーイング」について調べる機会があり、
カラーバス効果なのかいろんな場所で見聞きするようになった。

「ウェルビーイング」とは、1946年に世界保健憲章によって設立したWHOが定義した健康の概念である。

「健康とは、完全な 肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。到達しうる最高基準の健康を享有することは、人種、宗教、政治的信念又は経済的若しくは社会的条件の差別なしに万人の有する基本的権利の一つである」

世界保健憲章(WHO)より

「なんのことやら?」という声は聞こえて来る気もするが、
要は「気分がよい状態で、自分自身でいられる」ことだと私は解釈した。

健康かどうかを身体的な面だけでなく、心にも言及している点が、新しいように思う。(新しいといっても、70年以上も前に定義されてるけど・・・)

風邪引いた、とか怪我した、とか目に見えて体が故障しなければ、
平成の前半くらいまでは「健康」と称されていた。

私のようなうつ病患者は、今の時代でこそ「誰でもなりうる病気」として認識されるようになってきたが、昔は違った。

実家の近所に精神病院があった。誰から教わったわけでもなく、なぜか子供はみんな「あの病院は風邪引いた時にいく場所とは違う”トクベツ”な病院」と認識しており、「頭がおかしい人がいるから近づくな」と言う同級生もいたくらいだ。私はそれをなんとなく「おばけでもいるのかな」と受け取っていた。

そうした子どもの妄想に拍車をかけるように、立地もよくなかった。
人通りが少ない雑木林のなかにひっそりと建ち、建物は木々に隠されていた。強風が吹くと病院の看板が枝葉の間から顔をだす程度。

風水的にもお祓いが必要そうな雰囲気を醸し出している。友達の家から自宅へ向かう通り道で、夕方は必ず目をつぶって駆け抜けていた。

大人になって「あの病院は、精神病院だったのか」と理解できたが、「人ではない何かおそろしい存在」が居る場所と、地元の子どもはみんな思っていた。

そのくらい、メンタルの病気を患うことに対して知識もなければ、
偏見に満ちた未熟な時代だった。

今では、理解も進み、社会も成熟し「健康経営」が投資基準になったり、
企業経営に「ウェルビーイング」を実現しているかどうかを経営課題にする企業が登場するなど、時代が急速に整備され始めている。

影響し合っている話だが、健康を身体的な疾患の有無ではないというWHOのウェルビーイングが浸透するにあたり、「会社の条件」についても見直され始めているように思う。

これまでは、「給料がよくて、経営が安定している、労働時間も36協定範囲内」というのが、ホワイト企業であり、体でいう「病気してない」状態だった。

私の勤め先もまさにこれで、パワハラされる過酷な労働環境でもなく、長時間労働でもなく、給与がいい、「なのに!」心はまったく健康ではなかった。もう、嫌で嫌でたまらなかった。

だから、自分の感覚を疑ったし、猛烈な罪悪感すら抱いた。

「こんなに恵まれた環境にいるのに、私はエラそうに、つまらないと言っている。なぜ、こんなホワイト企業で満足できないのだろう」と、悩んだ。

悩んで悩んで悩み抜いて、うつ病になった。

でも、「ウェルビーイング」の軸を導入したら、この状況は解説できる。

「体(労働条件)は健康だけど、それだけじゃ健康とは言えない」ということだ。

つまり、「心」の面で何も充足できない職場環境だったのである(もちろん、私の感覚でだが、同じように思った人は他にもおり、けっこうみんな転職していった)。

「ウェルビーイング」の一側面である「精神的にも満たされること」を会社で求めようとすると「会社はお前のためにあるわけではない」と怒られる。
たしかに、そうだ。

でも、従業員の「ウェルビーイング実現」を支援しようとしない会社だ、と宣言しているようなもので、「今の時代にそぐわない経営をしている」ことは、自覚してほしいと思う。

その上で「我が社はウェルビーイングだなんて、ヌルいこと言ってる従業員の意向は無視し、身体が健康であれば問題なくガンガン働くべし」と決めるなら、それはそれでいいのだ。(私はそんな会社で働きたくないのでやめます、というだけなので)

やはり、仕事を通じて「ワクワクすること」を求めたり、
「成長している実感」を得られたり、
「自分を必要としている」と思えることは、
令和の時代における知的労働者の自然な欲求ではないだろうか。

過去に働いてきた職場は、給与は今より高くなく、労働時間は10倍ほどだったし、パワハラもあった。

でも、「ワクワク」する仕事だったし、「成長」も実感でき、
「必要とされている」とも思えたから、毎日眠くて眠くてたまらなかったのに、頑張れた。ワーキングプアでも、楽しかったのだ。

お金が高くて安定した会社の方が、幸せになれる。
ワーキングプア時代には、ずっと、そう思っていた。

実際にその場所に行ったら、真逆だった。
むしろ、地獄のような苦痛を勤務時間に味わい、入社して1年経たず、転職を視野に入れ始めた。

「3年は踏ん張った方がいい」という声もどこからともなく聞こえてきた。自分で選び続けてきたら、ワーキングプアになったし、人のいうことも聞いてみようと思って耐えてみた。

何も変わらず、時間だけ過ぎた。それ以前の私は3年もあれば成長し、次の会社に転職できる「武器」を一つ手に入れて、新しい職場で働いていきた。

でも、ここでの3年は、「無」だった。過去に私が身につけたことを、アウトプットして吐き出しただけで、何も得ていないし、成長もしていない。

もっというと、楽しさもないし、気持ちは下がることはあっても上がる気配はまったくない。推しもいない。婚活も失敗。もう、最悪だった。

どんどん、自信を失い、どんどん自分のことが嫌いになった。

自分から逃げたい!

そう思い続け、ある日、ぷつんと切れた。

そして今、私は自分の心の声を頼りに生きることに決めた。
「ワクワクするか、どうか」を軸に、人生を歩む。
それが、仕事かどうかは関係なく、お金がどうとかも関係なく(むしろ、使う方が多いが)、私がやりたいと思うという「そのこと自体」に目を向けることにした。

やっても、意味ないじゃん
やりたいと思っても、勘違いかもしれないし

と、否定しなくていいのだ。
思った、ことが正しくて、私にとっての正義なのだ。

ということで、28万円もする高級ギターをたいして弾けもしないのに購入してしまったり、

生きている実感を得るために通い続けるマカロニえんぴつのライブや、ボイトレへの出費は、
私にとってウェルビーイングを実現させるツールなのだと思う。

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