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このメンヘラは、つょい。~そしてお姑さんはもっとつよい~

※血液の描写があります。
※このエッセイはコメディです。
※このエッセイは約11,500文字の超大作です(当社比)。

序章

ため息をつきながら、3桁の番号を押した。
いち、いち、きゅう。
響きはかわいいのに(某きゅうりの漬物の鳴き声みたい)、なんだかパワーワード感漂う番号だ。

とか、そんなことを考える余裕はその時あるわけが無く、代わりに、「なんでこんなことになってるんだ……?」という台詞を、ため息の中へたっぷり詰め込む仕事をしていた。はぁ。はあぁ。なんでだ。
電話に向かう私の足元は、血だらけだった。


メンヘラ女

数時間前まで、私はうきうきと物件探しをしていた。
長らく夫の実家に同居していて、それなりに快適に過ごしていたのだけれども、ぼちぼち自立せねばなあ、と考え始めていたからだ。
それに、私の性格上の問題で、共感性がかなり高いため、同居人数が多いと神経を遣って疲れやすい、ということもある。なにせこの家は、私を含め7人も大人がいるので、ちょっと、人数多すぎ感がありすぎる。疲れるし、狭い。

ちなみに犬2匹猫2匹もいる。田舎なので夏はカエルの合唱だ。
帰宅すると犬がわんわん、猫がにゃおーん、夏の玄関では毎日「おかえり」とばかりに2,3匹のカエルが待ち構えている。とにかく生き物は多い。

人間他もろもろの生き物と私との仲は、基本的にとても良好である。
でも、もっと少なくていいと思う。私と夫、プラス1匹、程度で。

しかし、ここに住んでればごはんももらえるし(私は料理をしない)、戸建てだから音も気にしなくていいし(ダンスもおうたも自由)、家賃の心配もない(実家にお金を入れないアラサー息子夫婦、とは……)。
正直あんまり引っ越したくはないし、わりとぐずぐず迷っている。けど、このままじゃ色々よろしくない気がする。でもなー。うーん。ひっこしたくなーい……。

しかし、もうすぐ国から10万円の給付金が入る。
これは、引っ越す好機なのではないか。10万円あれば初期費用に充てられるじゃん。
じゃないと私たち、延々とパラサイト夫婦を続けることになるんではないか。
そんな気持ちに傾き始め、ちょっぴり物件探しが楽しくなってきた、という時期だった。でもまだ迷ってはいた。

引っ越すとしたら、物件の条件は、「日当たりのよい部屋」。
ペット可。家賃4万円以下。そして日当たりのよい部屋。めっちゃ日当たりのよい部屋。ちょうぜつ日当たりのよい部屋。
大切なことなので3回言ってみた。
もっかいくらい言ってもいいけど。日当たりのよい部屋。

なぜこんなに重視するかというと、私がメンヘラ女だからである。

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【メンヘラ】
2ちゃんのメンタルヘルス板(=メンヘル板)にいる人(=メンヘル+接尾辞「er」⇒メンヘラ)。転じて、精神を病んでいる人のこと。
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私のメンヘラには、先述の「高すぎる共感性」というのも大きく影響している。かつては気疲れしすぎて倒れ、感情のコントロールが効かなくなり、大泣きに泣いて翌日も泣き続け動けない、ということがしばしば発生していた。
それ以外にも、もーっと色々とやらかしているのだけれど(というかこの記事はその「やらかし」最新話だ)、このあたりはちょっと置いておく。

ともかく、私の「精神を病んでいるヒト」歴は長い。

今の主治医とは高校生からの付き合いだ。現在28歳に差し掛かろうとする私とは、かれこれ10年以上の関係になる。初診はたぶん、16くらいだったと思うから、12年、とか?そのくらい。
なので、通院歴も12年……と言いたいところだけれど、厳密にはもっと長い。なぜなら、小学校のうちから、ちょいちょい精神科に行っていたからだ。

そもそも母親が、精神疾患なんである。
小学校に入ってわりとすぐ、母は精神を病んでいるヒトデビューと相成った。通院を始め、謎の光製造機(光の力でホルモンを整える!みたいなの)を買ったり、アロマにはまったり(母の主治医がアロマ好きだったから)、「買い物依存なの!」と言いつつ箪笥内部をブランド物の山にしたり(中村うさぎに心酔してたから)、していた。

そして私は、小学校3年生から不登校になった。
もともと頻繁に、母の通院にはついて行っていたのだけれど、それを機に私も診察券を作り、通院することになった。ただ、予約もなかなか取れないし、私は学校行かない以外はそこまで問題なかったし、という感じであまり長くは通わなかったように思う。

学校は、中学校まで行ったり行かなかったりで半分くらい欠席したものの、高校からは一大決心をしてちゃんと通った。大学進学したかったので。
そしてなぜか、ちゃんと通学してたのにまた精神科に連れていかれた。たしかにやや、情緒不安定な子どもではあったけども。学校と病院とのかけもち通いだから、心身ともに忙しい高校生活だったと思う。

余談だが、母も学生時代は不登校だったらしい。
そして弟も不登校だった。ヤツに関しては小3~高校までほぼ学校に行ってないので、私なんかよりずっとプロみがある(不登校の)。
妹だけは謎の化学変化が起こり、「学校楽しい!」と言ってのけた。やばい。異星人だ。でも妹のことは大好き。

そんな感じだったので、私はメンヘラ2世であり、結果、歴も長くなった。不登校のプロにはなれなかったけど、メンヘラのプロには近い位置に……いるのかな。どうなんだろう。
そういえば私、精神障害者手帳3級で下っ端じゃん。下っ端なのに、プロを自認していいかは微妙だ。

卒業から障害者まで

なんだかメンヘラについての話が長くなっているけれど、もう少し。
私のメンヘラネタの定番として、「大学の卒論発表当日に入院した」というのがある。
卒論提出はしたの。頑張ったの。でも発表するまで持たなかったのこれが。

当日に、「先生~すみませんこれから入院になっちゃいました~」とおよよと電話し、「えっほんとに?うちのゼミでは2人目だよー!人生というものは色々あるけど彼の宗教学者だれそれはうんたらかんたら……」となんだか妙に楽しそうな先生の話を聞く横で(専攻は宗教学でした)、早く入院手続きをしてしまいたい看護師さんがそわそわしてて、色んな意味ですごい焦ったことはよく覚えている。
電話相手は先生だし、しかも卒業かかってるし、でも看護師さんも忙しそうだし。

先生の話は頑張って切り上げ、卒業発表は先生が調整してくださることになった。退院後、研究室で2対1の超こぢんまりとした発表を行い、無事卒業もできた。
卒業式は、式が始まる前に具合悪くして、泣きながら帰ってきちゃったけど。車で来たものだから、頓服飲めないし……飲んだら眠くなって運転危ないから……。

そんな状態だったので、バイト先にそのまま就職したものの、1か月ほどでダウン。
再就職するも、3か月でダウン。
もともと無かったお金も底をつき、「もう無理……」と障害者手帳を取得するに至った。至ってしまった。

障害者手帳

私が取得したのは「精神障害者福祉手帳」というもの。
これは1~3級までの等級が定められており、私は一番軽度の3級。等級の判定に際しては、「どれだけ日常に支障をきたしているか」というのが級の目安になる。

大雑把に記すと以下の通り。
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1級:日常生活がほぼできない。
2級:援助なしには日常生活が送れない。
3級:援助があれば自力で日常生活が送れる。
(※かなりざっくりしているので、詳しくは厚労省や市町村のHPを参考にしてください。)
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……といった感じ。
「日常生活」というのは、「食事、入浴、金銭管理、人間関係の構築」などを指す。

当時の私は、一人にしておくと丸一日食事をしない、道端で唐突に泣き出す、急に道路へ飛び出す(しかもその間の記憶がない)、電車の中でOD*をし駅で気絶する(しかもその間の記憶がない)、携帯電話を置いて失踪し隣県で見つかる(しかもその間の記憶がない)、etc,etc...色々とやらかしていた。
警察は2回呼ばれた。家族から。3回目は自分で呼んだ。「このままだと頭おかしくなっちゃうので、私を措置入院してください……」って大泣きで。いや、すでにその時点でおかしいんだけど。
その3回目はわりと大騒ぎになり、以来呼んでいない。懲りたのもあるけど、それ以降ひどい事件も起こさなかった、というのが理由。

今思うと、本来であれば2級相当だったという気がしてならないのだけれど、判定の際に元気だったせいか3級となってしまった。
だって、判定のため面接に行けるってことは、その時点で「は」、元気ってことなんだよ。ただし、その元気はごく一時的だという注意書き付きが付く。
そして具合悪いと、そもそも面接行けないもんね。泣いたり騒いだり引きこもったりするもんね。

それはそうとして、私は今でも精神障害者福祉手帳なるものを所持しており、つまりそれは、私が「お上も認定したメンヘラ」であることを指す。
公認メンヘラですよ。国に認められたメンヘラなのです。

ただし、最下級の3級であるがために、プロとは微妙に言い難いように感じるのである。うーむ。


(*OD……オーバードーズ。薬物を一気に大量摂取すること。)

メンヘラ向き物件

長々と語ってしまったけれど、私がメンヘラ女である所以は以上の通り。

で、メンタルヘルスの問題というのは、ほんっとうに色々様々な原因が複雑に絡み合っているものなのだけれど、ひとつとして「セロトニン」というものが関係している。
セロトニンは、精神を安定させるホルモンとして代表的なもののひとつ。太陽光で育つ。これほんと。(なので母は光製造機を買っていた。)

人それぞれの体質にも依ると思うのだけれど、私はかなり、このセロトニンというものの影響を受けやすい、という自認がある。
暗い事務所で仕事したり、曇天が続いたりすると、明らかに不調になる。気分が落ち込んで動けなくなったり、泣き出したり。
今でこそ回復してきて平気になっていたけど、丸一日自宅で過ごす、というだけでも、ものすごくしんどかった。

だから、私の生活には太陽光が欠かせない。
引っ越すのであれば、部屋が北向きなんてもってのほか、理想は南向き、時点で南西or南東、窓は多め、できるだけ大きくて高さは天井ギリギリくらい、角部屋で部屋の3面にあるとなお良い、風呂と台所にも小さい窓があれば最高!……という条件で探している。

あと、ペット可だと良い。夫の実家にいる犬めらも預かれるし。動物も拾えるし(大学時代は2回、カラスにつつかれてる猫めらを拾った)。
動物との触れ合いも、セロトニン増やしてくれるらしいし。どばーって。どばどばどばーって。もうセロトニンの洪水状態間違いなし!……言いすぎかもしんない。

精神的に不安定といったものの、今の私はかなり落ち着いている。ここ2年ほどは特に。

手帳取得し、結婚し、夫の実家にお世話になりつつ就労支援に通い、自助グループに参加し、障害者雇用で就労し……といった段階を経て、ここまで来た。

むしろ、私より不安定な健常者の方が多いんじゃないかと思うくらい。本当に、冗談ではなく。
病院に通って、必要な支援はしっかり受けて、失敗しながらもいっぱい色んな人の助けを得て生活できたら、たくさんの人が平和に生活できるようになるのになあ……と思う。難しい世の中だけれど。


救急車を呼んだ日

その日の日中も、変わらず落ち着いて過ごしていた。
自粛中なので家でwebマンガを読んだり、youtubeでヨガをしたりしつつ、日当たりのいい物件探しに精を出していた。
家族は福祉職だったり、IT職だったり、NPOで働いていたりするので、ふつーに出勤し、夕方ごろに帰って来た。

一方、義母は疲れていた。
冒頭に述べた通り、我が家は人口密度がやや高い。一軒の家に7人(夫、私、夫の両親、夫の弟×2、二世帯住宅の向こう側に祖母)が住んでいる。義父が超絶自由人なことと、ちょっと問題ありな祖母を除くと、家族の仲はすこぶる良い。
このコロナ騒ぎの中でも、夫と弟たちは毎日毎晩ゲームで盛り上がり(みんな30前後のおっさんである。ムサい。)、休日はみんなで農作業をし、上の弟はしばしば義母とケーキ作りに励み、私と義母はひっきりなしにおしゃべりしつつ、2人で布マスクづくりに精を出していた。

問題は主に義父である。
自由人である義父は、飲み会にも行けず、趣味のカラオケにも行けず、ストレスが溜まっていた。
そして義父は各方面より、「犬神家の一族」とか「八つ墓村」とかと言われている、なんだかドロドロした家の出身である。その中には、祖母も含まれる。
そのときも、持っている土地を買収して堤防工事がどーたらとかで、親族の中では、にわかに財産争いが沸き起こっていた。
そんな状況なのに、このコロナ禍のせいで、義父は出かけてストレス発散することもできない。

そんなわけで、家でも不機嫌な義父と、その他ごたごたとした親戚の対応とで、義母はとてつもなく疲弊していた。
感化されやすい系メンヘラの私は、自粛ひきこもラーとして家にいたがために、もろにそんな家の影響を受けてしまった。
しかも今回の騒動は、ピリピリと緊張感の高い家、感情の起伏が激しい親族、お金、といった、私の幼少期トラウマをえぐるような内容満載だった。
比較的元気だと思っていた私は、実はそんなでもなかったらしい。

夫くんは止血ができない

夜、私はひょんなことで、自助グループ運営について夫に相談していた。
ぼやーんとした夫は、なんだかそのとき、いつもより2割増しくらいでぼやーんとしていた。そのためあまり相談らしい相談にならず、義母に泣きついた。
そうすると、いつもは一緒に考えてくれる義母なのだけれど、相当に疲れていたためか、今回の返事は、「私は関係ないからなあ……。」というものだった。
私はショックを受け、義母になんか八つ当たりの一言をぶつけた。不貞腐れ、自己嫌悪し、頭の中でそれをぐるぐると繰り返し、落ち込みに落ち込みまくった私は、自室にひきこもった。ほんのり夫の加齢臭漂う、夫婦の寝室に。

少しすると、夫が追いかけてきた。
「まゆちゃん、大丈夫?」といつものように聞いてきてくれるのかと思いきや。
「まゆちゃん、アテちゃん(義母のこと)に謝りなよ。」
……夫はそう言ってのけた。自己嫌悪で落ち込んでいる私に。

なんだかそれでガーン夫ときてしまい、私はブチ切れ、そこから記憶がない。
気付くと、腕がぱっくり割れていた。
しかも、割れ目からなんか黄色いのが見えていた。うげえ。

頭はまだパニクっていて、とりあえず助けを呼んだ。
「すうさま(夫のこと)ーーーーーーー!!!!!」
「たすけてーーーーーーーーー!!!!!!」
夫は来た。いつも通り、ぼやーんとしていた。

「まゆちゃん、大丈夫?」
さっき求めていた言葉を口にした。だが今ではない。そんなに大丈夫でもない。
床は血だらけである。なんか、色々と大丈夫ではない。

「ほらほら~こっちおいで~」と両手を広げている。
それどころではない。
「いっしょに犬の散歩でも行こうよ。」
いや、それどころではない。

私が「あの、そうじゃなくて、血が……」といった感じのことを何回か言って、ようやく気付いたらしい。
だがしかし、「あー」といった感じで、相変わらずぼやんとしている。
事の深刻さがわかっていないのか、放心しているのか、なんなのか。

(これはやばいぞ。)と思った私は、一気に頭がはっきりしてきた。さーーーっ、と霧が晴れる感じ。
なんにせよ、これは助けの意味がない。とりあえず今の状況、こいつは助けてくれない。なんとかしなければ。

「とりあえずタオル持ってきて!止血するから!!」
夫は持ってきた。
濡れたタオルを。

私「な、なんで濡れてるの……!?」
夫「えっとね、きれいな水で絞ったの。」
……止血を知らないんだろうか。そして水は、きれいじゃなかったら怖すぎる。
私「それじゃなくて、乾いたの持ってきてくれる?」
『ケガしたらとりあえず、乾いたタオルで患部を圧迫し、止血する』って、私だけの常識だったのかな……保健体育の教科書で見た気がするけど……もしやあれは……夢………?

その間にも血はボタボタと床に落ちる。
人を殺したかのように手が血まみれなので(100%生絞り自分の血液である。アタリマエだけど)、スマホを手にすることもできない。

私「あ、アテちゃーーーん!」
夫「アテちゃんは……今はちょっと……。」
夫「事故っちゃうかもしんないから……。」
私「(……どういうこっちゃ。)た、タオルは?」
夫「あーえっと、はい。」

ここでようやくタオルが登場した。
圧迫止血。手も拭ける。

私「夜間診療調べてくれない?」
夫「えーっと、夜間診療……。」

ちなみに、夫がこんな感じなのは昔からなので、私はいつも緊急連絡先を提出するときには、アテちゃんこと義母の連絡先を記入している。
義母はてきぱきと、適切な対処をしてくれる人なので。

しかし、ここにはアテちゃんはいない。
この夫で、この調子で、夜間診療がわかるのは果たして、いつになるのだろうか。

非常に躊躇われたが、救命救急に電話することにした。

いざ、ひゃくじゅうきゅう

ここで、場面は文頭に戻る。
切ったのは私がやったことだ。だけど、なぜこんな大騒ぎになっているのか。
まじで、なんで、こんなことになっているのか。

考えてもしょうがない。発信ボタンを押した。
『救命救急です。火事ですか、救急ですか。』
「あの、腕を切ってしまって……救急かどうか、自分では判断しかねて、とりあえずお電話したんですけど。」
『けがですね。』
「はい、わりと深めで。」
『では救急呼びますので、住所教えてください。』
「でも、呼んじゃっていいんでしょうか。」
『呼びましょう。』

ということで、サクサクサクッと救急を呼ぶことになった。

そんな折に、夫がスマホを片手に歩いてきた。
夫「まゆちゃんあのね。」
夫「あたし、お酒飲んじゃってね。」
夜間診療まで運転できない、ということらしい。そういえば夕飯のとき飲んでた。
だが心配はない。あと6分で救急車が来るそうだ。

あれよあれよという間に救急車は到着し、救急隊員さんがしっかり止血をし、状況の聞き取りをし、私は救急車へと移送されていった。
自宅の駐車場には、テラテラと赤いテールランプの光が翻り、砂利を照らしていた。大きくて白い救急車。なぜか横にパトカー。

ひとり救急車に揺られ、私はどよんとした気持ちでいた。冷静になった頭で、鬱々とするわけではなく、ただ、どよんとしていた。
病院へ行く程度に切ってしまったのは、今回で2度目だったりする。いつものパターンだったら、「あーあまたかー」(……っていうのもどうかと思うが)といった感じで落ち込みながら、夜間診療で処置してもらって、「まあこの程度で良かったよね(苦笑)」とか、「また盛大に爆発したねー!(爆笑)」とか言ったり言われたりしながら帰宅する……というのがいつもだった。
切った時も、警察呼んだ時も、ODの時も、そうだった。
でも今回、運ばれているのは私ひとりだ。帰りはどうなるんだろう。
そういえば、警察は3回も呼んでるのに、救急を呼ぶのは初めてだ。

救急車の乗り心地は、そんなに良くなかった。わりと揺れた。
ただ、心電図とか、酸素吸入機とか、なんかほかにも色々と医療機器が搭載されており、「こんな軽傷なのに、私はほんとにお呼びしまってよかったのだろうか。」「だめだった気がする。」と、しみじみと思いが巡った。
しかもコロナ禍なのに。
救急車内では担架ではなく、横の椅子に座って運ばれた。ここ、ほんとは家族席だと思う。
救急隊員さんに、「あの、わりと落ち着いてますね……?」的なことを言われた。だいたい夫のせいだと思う。落ち着かなきゃ自力で救急車は呼べぬ。

病院に着き、救急車から降りると、看護師さんから「ご家族の方ですか?」「患者さんはどこですか??」と訊かれた。私です。なんか……ごめんなさい。

処置室では、看護士さんが傷口をお湯で洗ってくれた。ひんやりした水で洗うものと覚悟してたので、すごくほっとした。なんならちょっと、気持ち良かった。
お医者さんは、「鉗子~ガーゼ~消毒液~♪」とテンポよく看護士さんに指示し、ちくちくと縫ってくれた。
だいたい3針くらいかなあ、と思っていたのだけれど、何針か縫ってから「あと3針くらい縫ったらおわりですからね~」と言われ、「え……3針で終わりじゃ……ないの……?」とショックを受けた。
縫い終わった傷口を見ると、ぜんぶで8針だった。


入院

処置が終わり、待合室へ行くと、夫が待っていた。
看護士さんがやってきて、「このまま帰ってまた自殺企図ってなったら困るので、一泊経過入院してくださいね。」と言われた。
すごく嫌だ。あんまり慣れないところには泊まりたくない。明日もヨガとか物件探しとかやりたいし。
そう思い、「あの、自殺しようとしたわけじゃないんです……。」と返したところ、「自殺する気が無くてこんなことになってるなら、ますます危険じゃないですか。」とあっさり却下されてしまった。ごもっともです。
入院は不可避らしい。

「入院中、患者がなにかやらかさないように、見張っててくれる人が必要です。ですが、看護士がずっとついているというわけにもいかないので、ご家族の方も1名、付き添いで泊まってくれますか。」的なことを言われた。夫が泊まることになった。
既に落ち着いた私と反対に、夫はぐったりとしていた。
家族には、救急車で運ばれる際、入院するということが伝えられていたらしい。なので夫は、毛布、おにぎり、お菓子、といった入院グッズを抱えていた。

病室は個室だった。
着くと早々、夫はソファで横になり、持ってきた毛布にくるまって、ぐーぐーと眠りだした。
止血に水タオルを持ってくるくらいだ。相当、頭の中はパニックだったろうし、神経を遣って疲れたんだろう。
それから間もなく、看護士さんたちが入れ代わり立ち代わり、バイタルを取ったり書類を持ってきたり、入院中の手続きを説明したりしてくれた。
「旦那さま、よく寝てらっしゃいますね……。」と2,3回言われた。

持ってきてくれた書類の中には、入院同意書等のほか「看護計画書」とか「入院計画書」といったものが混ざっていた。

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こんなの。
『問題名:自殺を企てる可能性がある
……企てる、とな。
ぐぐったら例文に「陰謀を企てる」「謀反を企てる」って出てきたんだけど。物騒だな。あ、自殺も負けずに物騒か。
でもなんか、『企てる』って「うっしっし」って感じで悪だくみするようなイメージがある。自殺は「うっしっし」って言わない。たぶん。

それにしてもこの計画書、私が入院するって決まってから作ったんだよね。
そして、病室に入ってすぐに持ってきたってことは、元々テンプレみたいなのがあったってことだよね。
テンプレがあったってことは……この病院にはかつて、私以外の自殺企図者が運び込まれたことがあるって……こと……?

ううむ。おかげさまで手続きが早く済んだし、そのかつての先輩には感謝せねばなるまい。
でもなんか、複雑な気持ちだ。
先輩、今ごろ元気で過ごしてるといいな。

退院

翌朝、7時。

私が起きると、夫はいまだに寝ていた。
ソファの上ではなんだか寝づらそうなので、「こっちのベッドで寝る?私、もう起きたから。」というと、さすがに「いい……。」と断られた。
しかし、2回目に訊いたら「うん。」と言って、素直にもぞもぞ移動してきた。

朝食を届けに来た看護士さんは、ベッドで寝てるのが私ではなく夫なので、すごいびっくりしていた。
私はそれまで夫が寝ていた黄色くて硬いソファで、病院食を食べた。何が出てきたかは、ぜんっぜん覚えていない。
でも、窓の外から公園が見えて、ネモフィラが満開で、帰り道がてら見たいなあ、と思った。有名な海浜公園は閉園中だし、開園してても観光客でごった返してるんだから、こっちのほうがずっといい。

10時くらいになると、会計の人が来て、清算書を渡された。
夫を起こし、二人で明細を確認し、驚愕した。

検査費
処置日
入院費等
合計 約52,000円


たっっっっっっっっか!!!!!!!!!!


ちなみに保険適用でこの金額である。
適用しないと12万円くらいする。
高ッ!!!
え、これ、私ビンボーだったら入院できないじゃん。どうしろと。
いやまあそもそも私たち、福祉職とパートという、わりに低収入な夫婦で既にややビンボーだけど。実家暮らしだから何とかなってるけどさあ。

ショックを受けつつ、クレカで支払いを済ませ、めでたく退院することはできた。
しかしショックすぎて、帰り道ネモフィラ~とかは、すっかり忘れていた。
救急車に揺られているときの3,4倍は落ち込んでいた。高かった。ショックだった。しかし私は生きねばならぬ。そのために入院させられたんだし……。

もう引っ越すしかできない

帰宅すると早々に、家族会議が開かれた。
「まゆちゃん。物件の内覧に行こうか。付き合うよ。」
とアテちゃんに言われた。
「また家族が揉めたとき、逃げる場所があった方がいいでしょ。
夕飯とかは、いつでもうちに帰ってきて食べればいいし。」
……まあそれはそうかもしれないけど。でも、お金がー、と私がうだうだ言っていると、
「入院費と家賃と、コスパがいいのはどっち?」

入院一泊、5万円。
家賃一ヵ月、5万円。


……間違いなく後者だろう。食費光熱費を考慮しても。

「ただでさえ、いつも家族の影響受けて具合悪くなってるんだから、また揉めたらまた入院ってことにもなりかねないでしょ。
そしたら更に1か月分パーだよ。
家族からの影響も受けにくい、逃げ場所にもなる、自立の練習ができる、ってなったら引っ越す方が絶対良いでしょ。」
ごもっともです。ぐうの音も出ない。

というわけで、めでたく引っ越しが決定した。
私の給付金10万円は、引っ越しの初期費用として、あっという間に泡と消えたのであった。ぶくぶくぶく。
しかも入院しちゃったから赤字である。

ちなみに夫がおろおろと「アテちゃんは呼べない……」と言っていたそのとき、隣の部屋にいた夫の弟は、さっさとアテちゃんに電話をかけて呼び出していたらしい。出かけていたアテちゃんは、さっさと帰って来た。
微妙な空気の中、「気分転換に出かけてくる。」と言って出かけていたので、夫は「アテちゃんが追い詰められている……。」と思っていたらしい。
別にそんなわけではなく、単なる気分転換だったそうだ。

呼び戻されたアテちゃんが帰宅すると、駐車場には救急車が停まっており「こうした場合は基本、入院します。」と聞かされた。「お願いします。」と即答した。らしい。
一緒に来たパトカーは、自殺企図とのことで、念のため呼ばれたとのこと。すでにこれまで3回も呼んでいるので、警察官の方からは「どもー。おひさしぶりっすねー2回目のときお会いしましたよね^^」みたいな感じであいさつされたらしい。
前回、「いやあ生きててよかったですー。また会うかもしんないっすね!自分、ここらの管轄なので!」と言いつつ私を確保してくだすった、優しい警察官さんだった。らしい。

そうしてアテちゃんは、サクッと入院の用意をし、運転して、夫を病院へ送り届けてくれた、という顛末だった。
なんとも頼りない夫だ。それでも絶対に嫌いになれないのは、惚れた弱みというやつなのだろうか。
そしてアテちゃん、強すぎる義母である。いつもありがとう。

家族会議の終わりには、夫の弟が「まゆこさんが超自己完結にメンヘラしててびっくりした。自分でわめいて、切って、しかも処置して救急車呼んで、そのすべてが流れるように的確かつスムーズだった。強い。」とのお言葉をいただいた。
そうだろうそうだろう、おほめに預り光栄です。よきにはからえ。

そうこうして、先週の日曜日、新居の契約を済ませ、鍵を受け取った。
今週末には、洗濯機と冷蔵庫が届く予定だ。「引っ越し祝い」と称して、お義父さま(別名「トノちゃん」)に買っていただいた。
引っ越しに際してまで、絶賛パラサイトしている。いいのかこれ。
まあ、いっか。これから頑張れば。

いつもの感じだったら、もう救急車を呼ぶこともないはずだ。
警察だって、3回目に自分で呼んで以来、呼んでないんだから(今回は呼んでないのに来ちゃったけど)。
この日当たりのとてもよい部屋で、できるだけ穏やかな生活を送れたらいいな、と思う。

でも、急に『7人+4匹』⇒『2人』という急激な人口減少に耐えられる気がしないので、新居ではカメを飼うことにした。
予定しているカメは、大人になると70cmくらいになるらしいので、このカメが来てくれれば、そんなに寂しくないだろう。
カメは1日に1回、光合成が必要らしい。つまり、メンヘラである私の住む環境は、カメにも適しているということだ。
……カメも喜ぶ日当たりのとてもよい部屋で、カメ並みに穏やかな生活を送れたらいいな、と思う。カメ、意外に足、速いけど。


おはなしは、これまで。
めでたしめでたし。

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