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有名大学に進学したから、今でも絶望に苛まれている。

母が、いわゆる毒親という感じの人で、たぶん貧困家庭で育って、私は小学生から不登校だった。なんなら高校から精神科へ通っていた。

(ちなみに家には母の買ったブランドバッグがたくさんあったし、なぜか頻繁に旅行もしていたけど、反比例するように食べ物は無く、当然コメもなく、30円のチルドうどんを買いだめして冷凍していた。服も買えなかったし弟のPSは質に流れたし、しょっちゅう料金滞納で電話が止まっていた。)

逆境を脱したいという気持ちや、純粋な向学心から、わりに名の知れた国立大学を志望した。学歴志向の母親以外、大人は全員、どんなに私が行きたいと言っても「無理だ」と一蹴した。

食事もろくにとらず、必死に勉強して(結果拒食症が決定的になった)、綿密なスケジュールを組んで気が狂いそうになりながら日々を過ごした。

あまり学力のない高校だったのもあってか、学校には大好きな小説家を共有できる人もいなくて、興味のある宗教学や美術芸術を理解してくれる人もいなかった。
アルバイトは禁止されていたから、家にお金が無くても我慢するしかなかった。中学生でピアノは辞めさせられたし、ダンスも習わせてもらえなかった。
美術は夜のクラスしか無かったから、家事のある私は通えなかった。
そして不登校だったから、「私はできない奴」だとずっと思いつめていた。

大学に行けば話の合う人がいて楽しいよ、好きな学問の話や趣味の話もできるし、バイトすれば自由なお金が手に入るよ。
周囲からはそう言われた。
「良い大学」に合格できれば、もう学校に行けなかったコンプレックスからも解放されると思った。
胸には希望しかなかった。だから、苦しくても全然、平気だった。

合格の報告に、高校へ行った。ただただ驚かれた。
「無理」と強く言っていた教員は、とても気まずそうにしていた。
元担任に、宗教学がやりたいんだ、とうきうきは話したら、「頭のいい人が考えることはよく分からないわ。」と返された。
そのときに喜んでくれる人がいた記憶は残っていない。



待っていたはずの希望は、程無くしぼんで行った。
入学式、みんなピカピカのスーツを着ていたけど、私は母の古いヨレたジャケットと、あわててユニクロで買ったスカートを身に着けていた。
不登校だったから、人との距離感が分からなくて、結局同級生とうまく打ち解けられなかった。一瞬仲良くなっても続かなかった。

学生宿舎の入居日、みんな家族が引っ越しの手伝いに来ていて、色んな人がわちゃわちゃと宿舎に出入りしていた。
私はたった一人で、スーツケースいっこだけを持ってやって来た。
楽しそうにお昼ごはんの話をする家族を眺めたのは覚えているけど、私は何を食べたか覚えていない。たぶん、買い出しついでに菓子パンと野菜ジュースでも買って食べたんだと思う。受験時代は毎日そうだったから。

ずっとやりたかったダンスサークルに入った。
やっぱり輪に入れなくて、空気の読めない私はひとりだけ取り残された。
みんなお金がない、ダンスの靴や合宿の費用を工面しなきゃ、と言っていたけど、夜はサークルのメンバーと外食するし、帰り道はコンビニに寄っていた。
そんな贅沢はできない。どちらも私には信じられないことだった。

好きな授業をたくさん取った。
でも、すでに知っている内容ばかりで、大人数の講義は退屈だった。
外国語のテキストは古本で買った。古い版だったからページがずれていて、言われた箇所が私ひとりだけわからず、恥ずかしかった。

早々にアルバイトを始めた。授業が終わったらバイトに向かい、バイトの無い日はサークルへゆき、その合間をつぶすかのように授業の課題をこなしていった。
自由な時間は無かった。
節約して余ったお金は、課外実習や合宿、免許講習のために貯めていた。

周りを見ると、そんな余裕無く必死な人はいなかった。
サークルに熱中して授業の単位を落としたー、なんて笑って話していたり、忙しいからバイトやめちゃった!とこともなげに言っていたり、必須の授業が重いからサークルも抜けようかな、という声も聞こえた。

私にはどれもできなかった。
必死に必死に努力してここまで来たから、ようやく手に入れたすべてを手放すことなんてできなかった。



よくよく眺めているとどうやら、友達づくりもコミュ力だけではないようだった。
空き時間に同級生と話し、サークル終わりにメンバーと外食し、休みの日には集まって飲んだり、ショッピングモールへ買い物に行ったり、映画やイベントに出かけたりしているようだった。
私はお金も無かったし、そんな時間の余裕もない。

あるとき、お金がないという話をしたら、「みんな無いんだよ。」と言われた。
時間がない、という話を私がしたら、「時間は作るものだよ!」と言われた。
これ以上どうすればいいんだろう、と思ったけど、融通すれば何とかなるような気もした。でも同時に、これ以上はもう嫌だ、無理だ!という小さな悲鳴も、かすかに自分の中から聞こえた、ような気がした。



毎日、朝は食べず、昼は100円の冷性スープを口にした。夜は見切り品の野菜を煮込んだり蒸したりして食べた。作る気力の無いときは何も食べずに寝た。
さすがにめまいや手足の震えといった危なげな様子が出てきたため、パンケーキを焼いたことがあった。
身体が、慣れない油としっかりした固形物にびっくりしたのか、しばしひどい胃痛に襲われた。

あまり食べないまま、サークルでは汗だくになってダンスをして、通学は自転車、となると体重の減少に拍車がかかる一方だった。
それでも、食費にお金をかけるのは無駄遣いに思えて、強い抵抗があった。体重が増えると怠慢な生活をしているように感じて、ひどい自責に襲われた。

体重計に乗る度、数字が減る達成感を得ることができた。でも、その倍くらいの不安ものしかかって来た。このままじゃいけない。
その瞬間に伴う感情の波に疲れたので、体重計に乗るのは辞めた。でも、だからといって生活を変えたわけではないので、身体は薄ーくなっていくのを、不安と諦めをもって眺めていた。
部屋に洗面鏡しか無かったからよかった。全身鏡があったらもっと大変なことになっていたと思う。

脂肪がないため、水を掬うことができなくなった。骨だらけの指はザルのようで、液体を抱えることができない。
椅子に座ることが難しくなった。骨がゴリゴリと当たるので、時間が経つほどに痛みが増した。部屋では寝て作業することが増えた。

誰かに助けてほしい、と思ったけど、母に会うと「どうやったらダイエット成功するの?」と嬉しそうに聞かれた。精神科では、薬の処方以外で特に何をしてくれるわけでもない。
心配して声をかけてくれる人はいたものの、「ちゃんと食べなよ」という以上にできることのある人はいなかった。



長い夏休み。
遠方の実家に帰る!海外旅行へ行くんだ!夏休み前に飲み会しよう!学内ではそんな話が飛び交っていた。
私には何も予定がなかった。
実家に帰ってみたら、家事や母の相手でとても疲れた。すぐに帰って来た。
海外旅行なんて無理だし、飲み会のお金も無い。

ただ、とてもひさしぶりに、時間がたくさん余った。
図書館に通うことにした。こんなに余裕を持って勉強できることは無かったし、勉強はしないとしない分だけこぼれていってしまう。
でも、それ以外にすることが何も無かった。
毎日毎日勉強をして、夜はバイトに行って、家に帰って、という暮らしをしていた。

ある日、どうしようもない感情がとめどなくあふれて、ほんとうにどうしようもない量でどうにもできず、よくわからないけどこのままじゃ死にそう、と本能的に感じた。
学内のカウンセリングセンターに泣きながら走って、「助けてください。」と言った。
そして、別室で休ませてもらえることになった。

ひとりじゃない、人の気配のする場所にいると少し落ち着いた。
でも、こんなところでずーっとぼーっとしているわけにはいかないし、と思って、それなりの頃合いで帰宅した。

焦燥感に埋もれながら、ぼんやりと、でも心から、「いつまで頑張んなきゃいけないんだろうな。」と考えた。
「せめてこんなつらい感情に振り回されるのは嫌だ。もうこりごりだ。」と強く思った。

その日から、私の感情は消えていった。


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