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家族の誰かが他の言語を話すとは

つい先日、面白い感情を抱いた事があった。

すぐに、本題に入りたいのだが、前置きがないとちょっと説明がしにくいので、少し環境の説明をしたい。

前置き

私は今、パートナー、彼の弟と父親、の四人で暮らしている。四人の共通語は英語。だが、それぞれちょっとややこしい相関図もある。

パートナーは日本語を少し話す。二人っきり、ゆっくり話すと、日常会話は日本語でもまぁ大丈夫。ただ、私が日本語で友達と話し始めたりすると、その速さに、もうお手上げ。

パートナーと、父親は90%中国語(マンダリン)でコミュニケーションを取っている。ちょこちょこ英語の単語が混ざるので、「ああ、○○の話をしているんだな」と私はこっそり理解する。

彼の弟は、英語しか話さない。生まれてから、「この子には英語で接しよう」と家族間で決まったらしい。少し前には、中国語の練習もしていたが、あまり乗り気でなかったので止めている。

私は日本語ネイティブ。英語は話せるが、論文等のアカデミックな文章はまだ読めない。中国語のスキルはゼロ。昔、弟に「Mayは中国語しゃべれるの?」と聞かれ、「挨拶と1から10までなら数えられるよ」と数えてみたら、3で既に間違えていたというレベル。(はい、喋れません確定)

知らない言葉がストレスになる時

私のパートナーはゲーマーで、よくオンライン上で友達と話しながら遊んでいる。親友は同じ台湾出身。会話はほぼ中国語だ。私もよく知っている相手なので、「あ~またアイツね」みたいな感覚である。

しかし、ある日。彼がzoomミーティングをする事になった。相手は中国語話者のカナダ人。私は同じ部屋で、イヤホンを付けて勉強をしていた。

zoom相手が初対面な事もあり、ミーティングはとても真剣な様子。いつものワイワイ度はなく、冷静に話し合っている雰囲気であった。

しばらくしてふと気付いた。私、その会話が、なんとなく気になる。いや、何となくなんて、可愛いもんじゃない。会話が気になってしょうがないのだ。これまで、ゲーマーのワイワイはなんとも思わなかったのに、その日の感覚は何というか、一言で表すと「ストレス」であった。

私はその感覚がとても興味深かったので、ツイートしてみた。

この思いは、初めての事だったので、これに対する返信も加えて以下考察。

生活音からノイズに

この私の呟きに、コメントをくれたのはトロントに住み、パートナー移民家族と暮らす女性。彼女の場合はロシア語がそれ。

「疎外感とか、意味は分からなくてもその言語が別言語と区別できるようになって、その言語が雑音になる感覚があって私は結構イライラする。」

彼女は少しロシア語を理解するらしいので、私の状況とはまた、少し違うのだが、この生活音からノイズに変化する、という感覚が、「わ〜か~る~」の一言。

そもそも、私はその時、パートナーという、世界一の理解者である人が知らない言葉を喋っている!という事実を実感したのであります。いや、何を今更、とも思うのですが。

さらに、トロントに住む、他の方からもこんな意見が

TTCのバスに乗って、○○人のおばちゃんが乗ってから降りるまで延々と電話で○○語で大声で喋ってるのを聞かされるのと同じストレスですね、わかります

(TTCはトロントの東京メトロのようなイメージ)

これも、ありますね。ただ単に音量が大きい&いつ終わるか分からない苦しみ。これに関しては、同じ室内にいたから、というのが要因とも言えます。

そして、この後、パートナー本人に直接胸の内を打ち明けた所、「相手が女性だったから、気張ってただけじゃね?」みたいに笑われた。はい、嫉妬というやつですね。それも大いにある。(あるのか~い)

国際恋愛&結婚のあるあるを思う

という中で(どういう中?)ふと、思ったのが、「国際結婚をしてお相手の国にお引越しされた方が言語で苦しむ感覚が、今なら分かる」という事だ。

パートナーとの意思疎通は、2人の愛があれば多少は何とかなるとして、言葉の通じないその国で生活する、となるとその苦労は尽きない事だろう。

私はたまに、日本に住む友達らに「国際結婚って大変でしょ」と心配されることもあるが、言語については英語が共通語なので心配はない。(まあ、無いことはない。あるっちゃある。私の英語力。ハッハッハ)

国際恋愛、結婚ってなんだ

私としては、カナダで暮らしてるうちに出会ったパートナーが、たまたま中国語も話す人だった、という感覚である。

恐らく向こうもそう思っているであろう。私は「カナダにやって来た日本語を話す人」だ。

カナダ、トロントで暮していると国際恋愛、結婚という概念自体がなんだかな?という疑問を持つ事もある。

様々なバックグラウンドを持つ人が多く暮らすこの都市で、2カ国語以上を話すことや、2カ国以上のパスポートを持つことはよくある事なのだ。

更に言うと、「国際結婚」という言葉をあまり耳にする事がない。(異なる人種間というinterracial という言葉は時折、耳にするが、何度も言うがトロントではそうしたカップルはごまんと居る。

例えばパートナーの弟の親友のうちの1人は、アフリカン系とスペイン系+フレンチカナディアンを両親に持つ、長い編み込みヘアがイケてる男の子である。)

第3の国に住むこと

最近は、お互いの母国ではない、第3の国に住むということは結構ラッキーなのでは?とも思うようになった。

変にパートナーに気を遣う必要がない。よく聞かれる、「こっちは全て捨てて、ここに来たのに」「こっちは超不便な生活を強いられているのに、向こうは地元の友達や義両親と毎日楽しそう」みたいなギスギスが生まれづらい。

この方々はトロントに引っ越して来たカップル。

彼女はサードカルチャーキッズとしての動画も上げていて、そちらも興味深いので是非。

マルチリンガル子育て

ところが、子どもの子育てとなると、話は変わってくる。

子どもが生まれたら、言語はどうしたい?というのは私たちもよく話し合うトピックの一つ。

日本の父母が孫とコミュニケーションを取るために日本語を話せたらいいな、と思う。それは、中国語も同じ。

よく議論される、土曜日の日本語学校や中国語学校に通わせたいか、というとそれはノー。(ちなみにトロントには日本語で保育する保育園もある)

この「何となく日本語、中国語を理解出来たらいいな」をゴールにしておくと、色んな言語がルー大柴さん風になりがちと聞くが、私はそれで良いと思う。伝わればいいのだ、と今は思う。

物心ついた頃に、どちらかの言語を真剣に学びたい、と言って来たら力になってあげたい。

と、お気楽な私をよそにパートナーは「日本語一本で行こう。日本語はFワードがないし、何より響きが美しい」と日本ファンらしく熱くなっている。

そもそも、私達の未来の子どもと同じような環境で、2カ国語、またはそれ以上の言葉を自在に操る方々を本気で尊敬している。すごい。本当にすごい。

そうした方のスキルは、大抵ご本人の並ならぬ努力とご家族のサポート等の上に成り立っている。「帰国子女はズルい」となんか聞いた日には、ズルいって何さ。凄まじい努力してんじゃ!って部外者ながら怒ってしまう。

そもそも、もし英語圏に住んでいたとしたら街中で見かける看板や広告は全て英語。日本に住みながら多言語を勉強するのが難しいように、英語圏に住みながら日本語を身につける事って本当に難しいと思う。言葉のシャワーならぬ、無意識:知らぬ間のシャワーが圧倒的に少ない。

例えば、私の知るトロントで暮らす日系のご家族は、お家の中では日本語だけを話すことが決められている。毎週土曜日に朝から夕方まで日本語の補修校と呼ばれる学校に通い、平日現地校の宿題をこなしながら、山のような日本語の宿題も行なっている(何しろ、授業が一日だけなので、それを網羅する宿題、という仕組み。これはその学校を卒業する事によってどういった証明が与えられるかによって、異なってくるという。学校によって違いがあるらしい。)YouTuberのバイリンガールチカさんも、その様な幼少期を送ったそう。

(3:37からメロディさんとチカさんがアメリカに住みながら、日本語を習得したお話)

それでもまだ、「ズルい」と言えるのか。彼らは努力の人、だと私は思います。

とにもかくにもバイリンガル、もしくはトリリンガル子育ては、気になっているものの、まだまだ未知の世界。(まあ、子どもいないので、これらは私の夢の話)

保育園で子どもを迎えに来る親御さんらは、「ハーイ!今日も一日ありがとう」と英語で保育士と挨拶をし、「今日も一日楽しかった?」などと、子どもとは英語以外の言葉でやり取りをする。これはトロントの保育園で、よく見られる光景である。

それを見て、素敵だな、と思う。

異なる文化の祝福。

私の理想としては、家族みんなの食卓では英語を話し、誰一人取り残されることのない、優しい時間であって欲しい。通訳役が入ったりすると、会話の流れが止まりがちだし、置いてきぼりにされる人がいると悲しい。重大な話で「言った」「聞いてない」みたいなやり取りも怖い。

家族が他の言語を話す時、それがネガティブな事ではなく、喜ばしい、可能性に満ちた事として捉えたいものである。

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この方がnoteに記す言語に関する考えが私は好きです、是非。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。こんなお話も書いています。お時間がありましたらご覧ください。







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