線香にまつわる不思議な話(カルマティックあげるよ ♯127)
まだしんしんと雪が降る大学2年の1月はじめのことだった。
私は日常生活のなかで、ある違和感を覚えていた。
部屋の中はもちろん、外の廊下でも、つまりはアパートの敷地内で四六時中、線香の臭いがしていることに気が付いたのである。
それは古着屋などで焚かれているお洒落な香りとは程遠く、まぎれもなく仏壇仏具のソレであった。
そうまるで、お寺にいるみたいな。
最初は正月休みで、周辺のどこかの民家では親戚が集い、仏間で線香をあげていることもあるだろうし、それが風などで流れてきてるのだろうと勝手に思っていたが、どうもそうではないらしい。
1月の後半に入っても毎日続いたからだ。
知らない地域特有の風習があるのかもしれないとも考えたが、昨年はこんなことは無かったように思う。
このアパートで生活する他の住人は気にならないのだろうか?
いや、そもそも線香の臭いなど本当はしていないのかもしれない。
気のせいということも充分に有り得る。隣人に確かめてみようか?
でも隣はヤンキーのたまり場だし、真下に住んでるのは大学1年生らしいけど面識はない、一階端に住むおじさんはいろいろヤバい人だし…。
私は思い切って彼女に問いかけてみることにした。
「俺のアパートさぁ。ちょっと前からなんだけどさ、なんか線香くさくない?」
「はてな。確かにそういわれれば、ちょっと前から、かすかにしてる気がしてた。おまえがお香焚いてたんじゃないの?」
「いや、お香持ってないし。でもそうってことは、やっぱ線香臭してるってことか」
「おめぇのアパート、テレビも映らねーくらいぼろいから、そんなこともあるでしょ」
「そっか、それならよかったわ。俺の嗅覚がおかしくなったのかと思った。でもそうなると発生源はどこなんだろう?」
「まぁ、そんなことどうでもいいじゃん」
彼女との会話ではっきりした。
いやはっきりしたのかな?
でも、かすかに臭いがしてるって言ってるし。
やはり気になるところではある。
この臭いを意識し始めたのは1月に入ってからだ。
例えば誰かが正月から突然習慣的に線香を焚き始めたとして、その臭いが建物全体を覆うことなんてあるのだろうか?
そもそも、線香なのだろうか?
ひょっとして老朽化した建築材とかが線香臭を放つことでもあるのだろうか?
一体どこから発生しているのだろう?全く原因の見当がつかない。
まぁ、生活に支障が出ているわけでもないし、あまり気にしても仕方がないのかもしれない。
彼女のいうとおり、まぁいい。そのうち慣れるか、消えるさ。
そうこうしているうちに、2月も後半になった。
相変わらず、線香の臭いはしていて、しかもそれは日に日に強くなり、慣れるということはなく、不快感が徐々に増していくだけだった。
線香臭も限界になりつつあったそんなある日。
すっかり暮れた夜道を帰るとアパート前の駐車場がなにやら騒がしくなっているのがわかった。
見慣れない車も数台駐車されていて、薄暗い街灯が照らすなかで、人だかりができていた。
黒いスーツを着たガタイのいい男たちが群がっていたのだ。
アパートの階段を見上げると、隣人のヤンキーが二階の廊下の手すりに寄りかかって、その様子をじろじろと眺めているのが見えた。
ヤンキーとヤクザの争いごとでもあったのかとも一瞬思ったが、どうもそうではないらしい。
とりあえず階段下の駐輪場に自転車を止めるべく、その正体不明の群集をそそくさとすり抜けて移動した。
すると駐輪スペースの前で中年の男女、おそらく夫婦が支え合って涙を流していた。
大規模な取り立てでもあったのだろうか?そもそも、こんな夫婦いたっけ?と疑問に感じながら一礼をして、その奥に自転車を静かに駐輪した。
状況がよくかわからないけれど、なにかただならぬ空気だったので、その場に長居するのがなにかいたたまれない。
そのため即刻にこの場を立ち去りたかった。
急いで二階にかけあがって、部屋に戻りたいと思ったその時だった。
一階の少し奥から扉が開閉する音が聞こえ、複数の足音が私のいる駐輪場の方へと迫ってきた。
間もなく廊下の暗がりから、棺桶を担ぐスーツ姿の男たちがぬっと現われ、目の前を横切っていく。
その瞬間、中年の夫婦は膝を倒して、泣き崩れてしまった。
同時に何が起こったのかを察した。
気がつけば駐車場に葬列ができていて、白桐の棺桶が黒塗りのワゴンカーへと運ばれいく。
私は階段をあがりながら、その一連を目で追っていた。
2階の廊下では隣人のヤンキーがタバコをふかしらがら、その様子を見続けていた。
「こんばんは。何があったんですか?」と問いかけると、ヤンキーは「さぁ?」とだけ冷たく答えた。
ヤンキーに並列して、その様子をじろじろ眺めるのも不謹慎なので、その場を後にし部屋へと直行した。
私は畳の上で横になってみた。
そして畳に片耳をあててみた。
いつも聞こえていたはず足音や洗濯機の回る音、水まわりの音など、真下の階に住む学生の生活音をやはり確認することができなかった。
真下の部屋の学生が、なにかしらの理由で亡くなったのだ。
その日以降、それまでアパート全体に漂っていた線香の臭いが、嘘のように消え去った。
いくら冬とはいえ、普通のアパートの一室で遺体を二ヶ月も安置しているはずもないよな。
あの臭いは死の予兆だったのかもしれない、そもそも線香の臭いとは、その死を連想させる臭いを打ち消すために作られたのかもしれないな。
いや線香は悪霊退治にも使われると聞くし、それはないか。
と勝手にスピリチュアルな推測をしてみたが、考えるだけ不毛で、何故線香の臭いが二ヶ月間漂っていたのか、何故出棺した翌日からその臭いが消えたのか、それらに因果関係があったのかは、結局わからなかった。
駐輪場にはその学生が使っていたと思われる自転車が寂しく残っていた。
文・挿絵:ETSU