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この社会に忠誠を誓って

『とにかく早め早めの行動が大事です』

『23卒は厳しい傾向になりそうですね』

『今から動かないと就活本番で困りますよ』

やかましい。煽るんじゃねえ。
彼らの商売に易々と飲み込まれないよう、スマホをいじりながら話半分に聞く。別に聞いていたっていなくたってカメラオフなんだから悪印象を与えることはない。オンラインのメリットはこれくらいか。

とはいえ、その話全てが胡散臭い、無駄だと切り捨てられるほど私は尖っていなくて。なんだかんだ言いながらも、今から動かないとだめなのか、と言われるがままに企業を選んでいくことしかできない。

今はまだいい。話を聞くだけ聞いて、言われた通りに適当な企業のインターンシップにエントリーさえすればいいのだから。
道を外れず逆らわずに生きてきた私は、逆に言えば言われたことしかできないようなやつだ。そんな人間が社会では無能と判断されるだなんて、学校では教わってこなかった。

その先のことを考えると、嫌だという感情より先に思考が働かなくなる。自己PRの書き方、エントリーシートの書き方、面接の受け方。いくら教えてもらったところで、やろうという気がないのだからできるわけがない。それでもやれと言われるならやるのかもしれない、私は。


このnoteは別に自己分析やら就活やらに活かすために書いているわけじゃない。これは単に私が私のことを知りたいから書いているだけだ、と前置きしておく。

目の前に出されたものをとりあえず素直に受け入れる。これは私の長所であり短所でもある。ただ、どうやらそれが長所として見られるのは高校生までで、大人になってからはむしろ、あらゆることに疑念を抱いてかからなければならないらしい。

質問はありますか?と求められる。質問ってなんだ、あなたがいいならそれでいいじゃないか。それが正しいとされているのなら、それが正解なんじゃないのか。私はあなたよりも明らかに無知の領域が広いのだから、私なんかがそれをとやかく言えるような立場にはなれないのではないか。

大学に来て感じた。周りは思っていたよりも、目の前の物事に対して懐疑的だ。そして彼らの抱く疑問を聞いてもなお、私はなるほど確かにそういう考えもありだなとしか思えない。

先生や親の言うことが全て正しいと思い込んできた私がおかしかったのか。周りと違う意見だとみんなの前で発表させられるのが嫌だからと、多数派に合わせてきた私が間違っていたのか。

今までは、教わったことをそのまま頭に入れてさえいればなんだって乗り越えてこれた。ところが今になって急に求められるようになったのは、自主性、積極性、独創性。義務教育はそういうことも教えたつもりなんだろうけれど、足りるわけがない。大人に黙って従いさえすれば認めてもらえる空間で、そんな力が身につくはずがない。

と、学校のせいにしてはいけない。社会に必要な力をきちんと身につけている人がいる以上これは紛れもなく私の落ち度だし、それで社会に向かないのも私のせいだ。そして私自身を受け入れてくれるわけがない社会で生きる気がないことだって、妥当だと思う。


誰もが前向きに社会に出ようとしていることを前提として話を進められる。みんなが当然のように働くつもりでいる。それが気持ち悪い。

生活が労働に侵食される日々。周りの大人たちは難なくこなせているだろうけれど、私にとってはどうにも耐えがたい。
バイトも職業体験も、学生が本分だからこそできるのであって。その拘束がさらに一日の大半どころか、人生のほとんどを占めるようになるという事実を受け入れたくない。

光なんてない社会の歯車として、この先何十年も回っていかなければならないだなんて。嘘でもいいから、この世界は希望に満ち溢れていてほしかった。

何を甘えたことを、と思われても仕方がない。当然私は甘えたことしか考えていないし、考えられない。何不自由なく生きていくためにはこの生き方しかないということもわかっている。かといって修羅の道を歩んでいけるほどの度量もないということも。

自分の輝かしい将来を1ミリも疑わずに、前へ前へと進んでいく人たち。そういう人間の動向を、もう見ることができない。もちろんいつまでも燻っている私のほうが子供で、甘ったれで、目に余る。それでも同じように燻っている人たちを見ることでしか、安心できない。

ここで言ってしまうといろんな人の怒りを買ってしまうような過激な思いも、たくさん胸の内に秘めている。それでも私は、虚構を纏った薄暗く明るい笑顔で、働きたいですと口にするようになるのかもしれない。この社会に忠誠を誓って。



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