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才能の無駄遣い。

才能あるクリエイターの話を聞いていると、もったいない、と思ってしまう瞬間がある。

創りたいものがあるはずなのに、そこに適切にエネルギーを使えていないのだ。創造行為ではなく、不安解消にエネルギーを使ってしまっている。感覚的には、3:7で不安解消に比重が置かれがちな気がする。

どういうことかというと、まず人間は、進化の過程で「ないものを見る力」を養ってきた。想像力、妄想力など、なんとよんでもいいが、そこにないものを見る力だ。チンパンジー研究で、人間の輪郭だけが書かれた絵を渡すと、チンパンジーは輪郭をなぞるが、2〜3才の子供はそこに「お目々」を書くという実験もあるそうだ。このように、人間は「ないもの」を見ている。

これはサバンナで、草がざわざわっと動いたら、「敵がいる!」とか、「トラだ!」と事前に予測し、対策することで、身体的に劣る人間が生き残ってきた歴史と重なる。つまり、ないものをみる力とは、基本的にそこにありえるかもしれない、生存リスクを想定し、事前に行動する力でもある。

人間は身体的に長らく変わっていないから、この力を引き継いでいる。このないものを見る力が、未来への妄想を育むことに繋がり、新しい現実が創造されてきたのが、人間の文明発展の歴史とも言えるだろう。

問題は、時代は大きく変わっているのに考えなくてもいい不安に振り回されたり、コントロールできないことを受け入れられずに、その解消をなくせないかと悩み続けてしまうことだ。原理的に、生存リスクはゼロにならない。それらすべてを対策することも出来ない。結果、不安は肥大化するしかなくなってしまう。

ないものが見えるからこそ、ないものにふりまわされてしまうのが人間なのだろう。

これは無意識的に起こってしまうことだけれど、この特性を適切にマネジメントできないと、はじめに書いた「才能の無駄遣い」につながってしまう。クリエイターは創り出したい現実があるのだから、そこにエネルギーを投下すればいいはずなのに、起きるはずもない不安に振り回されてしまう。

悲しいことに、クリエイターの才能であるはずの、繊細さと想像力が、ときに自分への刃となってしまうのだ。

人間は有限な存在だから、自分のエネルギーを何に投下するかは、その人の人生そのものを映し出す。なのに、それを不安解消に使ってしまうのは本当にもったいない。創りたい現実を創ることに使えたらいいのに、と思う。

感覚的には、創造行為と不安解消の3:7のエネルギー配分が逆転し、7:3〜8:2位になると良いのだと思う。なぜなら、昔生きられなかったことが、生きられるようになった、いい時代に僕たちは生きているからだ。

個性を出しすぎると村八分になって孤独になるとか(個性を出しても、インターネットで世界の誰かと繋がれる)、やりたいことをやると稼げなくなるとか(副業やポートフォリオでカバーできるし、作家性ある仕事がより一層求められている)、稼げなくなったら食べられなくなるとか(生活費抑えたり、お金かけなくても生きれる方法も増えてる)。

また同時に、コントロールできないことは世界に委ねるスタンスも大事なのだと思う。例えば、誰しもこの瞬間、地震などの自然災害でいのちを落とす可能性がある。確率は減らせるけれど、ゼロには出来ない。すべてをコントロールできると思うと、そもそも無理なことなので、無駄なエネルギーがそこに浪費されてしまう。

クリエイターの才能は、創造することに使うべきだ。創造したいものを想像できるように。でないと、才能の無駄遣いになってしまう。まさに、大河のようなものかもしれない。森を豊かにし、水源から水が豊かに湧き出るようにし、無駄遣いをなくし、たくさんの支流が集まり、ひとつの大きな大河になっていく。

一言でいうと、「クリエイターよ、大河であれ。」なのかもしれない。僕は、クリエイターの才能が世界により発揮されやすくなることで、この世界はより生きやすく、より美しくなると思っているので、才能が使われるべき場所に使われるようになったら本当に嬉しい。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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