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【短編】シェイクハンズ

 保科リアンが宇宙人であることを知っていたのは、全校生徒約五百名を抱えるこの学校で、僕だけだった。
 気づいたのはまったくの偶然だ。
 その日の美術の授業中、下書きを終えたばかりの版画版へ、恐ろしく不器用な手つきで彫刻刀を突き立てていたリアンが、誤って左手に刃先を滑らせた。ちょうど教師が席を外し、美術室が猿山のように騒がしくなっていたときのことだ。昼休みのあとの五限目であり、そんな時間帯に美術の授業に集中できる高校生なんているはずがない。真剣に版画に取り掛かっているのは、リアンだけだった。
 彼女の左斜め後ろの席ではらはらしながら見守っていた僕は、危うく声を上げそうになった。いまに大怪我するぞ、という予感が的中したせいではない。リアンの傷口から、赤い血の代わりに緑色の液体が滴ったからである。
 その瞬間、脳裏に閃光が走った。
 ひと月前に町の上空で観測された謎の火球、夜中にたびたび目撃されるようになった不可解な発光現象、原因不明の電波障害、そして、半月前に転校してきた保科リアンの浮世離れした言動……、それらが頭のなかで数珠繋ぎとなり、たったいま目撃した光景に明確な意味と説得力を与えたのだった。
 やばい。
 こいつ、マジで宇宙人っぽい。
 リアンは一拍遅れて左手の切創に気づき(痛覚がないのか?)、慌てて作業台の下に隠したが、僕の位置からは丸見えだった。傷口をかばう右手の指の隙間から、血のような体液が滲んでいる。やはり、何度見ても緑色。翡翠色に近い、淡く透き通ったグリーンだった。
 リアンはきょろきょろと辺りを窺ったが、いわゆる『イタい女』である彼女を気にかけている者は、僕以外にはいないようだった。男子も女子もお喋りに夢中で、静かにしているのは、僕のように作業台に突っ伏して居眠りの体勢を取っている者たちだけである。
 リアンが振り向く気配がしたので、僕は咄嗟に腕に顔を埋め、寝たふりを続けた。
「コースケさん」と彼女が呼ぶ。
「なんだよ」僕は眩しげに顔を上げ、わざと不機嫌な声で応えた。
「寝ていましたか」
「見りゃわかんだろ。なんだよ」
「いえ」彼女はホッとしたように微笑む。「なんでもありません」
「なんもねぇのに起こすなっての」
 大袈裟に目をごしごしやりながら、素早くリアンの左手を観察する。
 親指の付け根のあたりを深く抉ったはずなのに、そこにもう傷口はなかった。ただ、作業台に数滴だけ、夢の名残のように緑色の雫が残されているばかりだった。

 ◇

 保科リアンの転入は、僕たちの度肝を抜くのに充分すぎるほどの衝撃であり、同時に人間の狭量さを浮き彫りにする結果にもなった。
 担任に連れられて教壇に立った彼女は、へたくそな字で黒板に名前を書くと、大きな瞳に希望の小宇宙を渦巻かせて言い放った。
「みなさん、こんにちは。ワタシの名前は保科リアンです。人間のみなさんとお会いできてとても嬉しいです。人間は、宇宙の知的生命体のなかで、特に素晴らしい種族だとワタシは思います。ワタシはそんな人間であるみなさんと仲良くなりたくて、この学校にやってきました」
 あいたたた、と思わず顔をしかめてしまった。
 ダメだ、それは転校生が一番やっちゃいけないこと。というか、人としてやっちゃいけないことだ。他人から認められる個性とは、常識や協調性という土台を認められて初めて咲く花なのだ。漫画じゃあるまいし、しょっぱなから不思議ちゃんキャラを演じて、受け入れられるはずがないだろ。
 僕の無言のアドバイスはもちろん届かず、リアンは滔々とファンシーな言説を続けた。最初の口上でやめておけば、まだ失笑を買う程度で済んだかもしれない。しかし、彼女が人類の文明の加速度的な発展について称賛を始めると、教室には不穏な空気が漂いだした。それに気づいていないのは得体の知れない転校生本人だけで、仮にこれがギャグだとしても、最悪のセンスだと言わざるを得なかった。
「みんな、仲良くするようにな」リアンを遮るように、担任が無茶なことを言った。それから僕へ目を向ける。「じゃあ、席は康介の隣だな。転校生の先輩としていろいろ教えてやるんだぞ、康介」
 血の気が引いた。どんだけ教師に向いてないんだよ、お前は。
 僕が唖然としていると、離れた席の美咲が「先生」と手を挙げた。
「保科さんに質問していいですか」
「あとにしろ」
 担任は迷惑そうに言ったが、美咲は構わなかった。
「保科さんって、外国人なんですか?」
 彼女の質問は、まるで酸素を注入したような効果を教室に与えた。
 皆が一斉にざわめきだし、教壇に立つ転校生を見る。なるほど、言葉遣いがどことなく片言であるし、顔つきは完全に日本人であるものの、『リアン』という名にも外国人の趣がある。先ほどまでの意味不明な話だって、地球の裏側で流行っているジョークなのだと説明されれば、まぁ、頷けないこともない。仲良くできるかどうかはさておき、理解の余地はある……、そんなふうに皆が考えたに違いない。
 リアンは首をかしげて担任を見た。困った表情をしていた。
「どこから来たんですかって」担任がめんどくさそうに通訳する。
 あぁ、と彼女の顔が晴れ、にこにこと美咲を見る。それから、人差し指を天井に向けた。
「遠くの惑星からやってきました」
 それが決定打だった。
 誰も笑わない、それこそ宇宙空間のような沈黙のなかで、「そうですか」と美咲が言った。僕は静かに溜息をついた。航路の先に積乱雲を見つけた船乗りの気分だった。これから荒れるだろうな、と思った。
 ところが、事態はこれだけでは済まなかったのである。
「これからよろしくお願いします、コースケさん」
 隣席に着くなり、リアンが僕に右手を差し出したのだ。
 その習慣に馴染みがなさ過ぎて、握手を求められていることにすぐ気づけなかった。いや、気が回らなかったというべきか。まだクラスメイトたちの視線が集まっている最中のことで、無論、美咲もまだこちらを睨んでいたのだ。
「あぁ、うん……、よろしく」
 無視するわけにいかず、僕も慎重に右手を差し出した。彼女が嬉しそうに握って、ぶんぶんと縦に振る。彼女の手のひらは、ほとんど体温を感じさせない、つるりとした不思議な感触だった。
 リアンの笑顔から視線を逸らすと、怒った目つきの美咲が視界に入った。僕はまた苦い溜息を止められなかった。船はすでに、大時化に突入しているようだった。

 ◇

 案の定、リアンは転校初日から敬遠されるはめになった。
 普通、転校生といえば、休み時間に質問攻めに遭ったり、教室内の各派閥から接触を受けたりするものだが、彼女にそんな機会はなかった。『イタい女』という噂だけが瞬く間に広まり、それから半月が経ったいまでも、リアンは学年全員から無視されている。特に、女子たちからは毛虫のように嫌われているようだ。チャットのグループは毎晩リアンの悪口で盛り上がっているらしい。
「エイリアン、今日も康介に話しかけてたよね」
 放課後、駅までの道すがら、いつものように美咲が切り出した。エイリアンとはリアンのことである。蔭でそう呼ばれているのだ。
「俺以外に話せる相手がいないんだろ」
 僕はそう言って笑い流す。毎度のことだが、美咲からリアンの話題を投げられると、背中がひやりとしてしまう。
「あたしらみたいに無視すればいいじゃん。康介、お人好しすぎるんだよ。あんなヤバイの、相手にしなくたっていいのに」
「だって、世話しろって言われてんだもん。無視してチクられたりしたら面倒じゃん」
「そんなんだからチョーシこくんだよ」
「ほっときゃいいって。害はねぇんだからさ」
「美術のときもなんか話しかけられてたじゃん。寝てたのに、マジで無神経だよね、あいつ」
 見られていたのか。
 ぎくりとしたものの、美咲は例の、リアンの怪我については目撃していないようだった。席が離れていたから、手許までは見えなかったのだろう。
「ねぇ、あいつとなに喋ってたの?」
「なんでもねぇって。くだらねぇことだよ」僕は肩を竦めてみせてから、あえて美咲の首筋に顔を寄せた。「なに、ヤキモチやいてんの?」
「キモイっつの」彼女が僕の額を押し返す。しかし、まんざらでもないのが手の力でわかった。「もしかしてさぁ、転校生同士だから気にかけてるわけ?」
 意外なところを突かれて、僕は口ごもってしまった。
 僕自身、去年に転校してきたばかりの新参者なのだ。銀行員である親の都合で、小学生の頃から何度も転校を経験している。だから、転校生のルールに関しては誰よりも熟知しているし、リアンがどれほどの悪手を打っているのかについても、教室の誰よりわかっているつもりだった。
 気にかけている、という指摘は当たっている。見ていられない、というほうが正確な気がしたが、とにかくリアンを気にかけているのは事実だ。半月経ったいまでも、彼女がなぜあんな馬鹿げたキャラクターを貫き通していられるのか、同じ転校生として純粋に疑問なのである。どんなに変人であっても、自分の置かれた立場によって多少は身の振り方を変えるものだ。ところが、彼女は一向にアクセルを緩める気配がない。ひやひやするな、というほうが無理な話だ。
 しかし、今日でその疑問も氷解した。
 あの緑色の体液……、本物の宇宙人だというなら、リアンの常軌を逸した言動にもすべて納得がいく。
 黙りこくった僕の態度を、美咲はなにか勘違いしたらしい。とりなすような笑みで身を寄せてきた。
「康介はもう、うちらの仲間だよ。誰も康介が転校生とか気にしてないし」
「いや……」僕も曖昧に笑みを返した。「悪い。気ぃ遣わせて」
「いいって。あいつがきたせいで、どうしても意識しちゃうよね」彼女は僕の胸に頭を押しつけて甘えた。「クールなとこもいいけど、優しくてお人好しなのも、康介のいいとこだよ」
 僕は皮肉の酸味を舌に感じた。
 じつのところ、僕は学校の連中と打ち解けているつもりはまったくない。ただ風向きに従っているだけだ。それくらいの立ち回りはとうに心得ている。こうして阿呆面をさげて、教室内の有力者である美咲と交際しているのも、転校生の処世術の一つに過ぎない。迂闊な言動でハブられてしまっては目もあてられないし、いちいち深入りしていては身がもたない。それだけの話だ。つまりは保身……、優しさとは光年規模でかけ離れているものなのだ。
 僕のこのスタンスを美咲たちが見抜けないのは、彼女たちがこの町の学校しか知らないからにほかならない。都会の、もっとシビアな環境なら、きっと通用しないだろう。その通り、もしもそんな場所へ移ることになれば、僕はまた風向きを見極め、現在とは違うキャラクターを演じることになる。これまでもずっとその繰り返しだった。
 だからこそ、リアンの存在は僕にはいっそう衝撃的だったわけだが、真相がわかってしまえば、どうということはない。宇宙人なら、しかたない。こんなちっぽけな惑星の、ちっぽけな国の、ちっぽけな学校のルールに合わせろ、というほうが無茶な話だろう。
 いや……、なんか、ズレてるな……。
 そもそも、宇宙人ってなんだよ。
 なに馬鹿真面目に考えてんだ、俺。
 緑色の血とか、見間違いで片づけるとこだろうが、ふつー。
「でも、あいつ、マジでなんとかしないとね。康介の迷惑にもなるし」
 美咲がまた言って、僕は我に返る。
「あぁ、まぁ……、いいから、ほっとけよ。馬鹿がうつるぞ」
「康介はうちらとすんなり馴染んだのにね」
「良いやつばっかりのクラスだからな」
「わざとらしー」
 そう笑って、彼女が僕の右手を握る。
 僕はリアンの左手を思い出し、それからなぜか、虚しさの破片のようなものを感じた。少しだけ、宇宙人の実在を信じてみたい気分だった。

 ◇

「コースケさん」
 リアンに呼ばれ、僕はうんざりしながら振り返る。昼休み、購買部へ行こうとしていたところだった。
「化学室は、どこですか?」彼女は胸にノートを抱えていた。「シュクダイを先生に提出するのですが、場所がわかりません」
「いや、何回か授業で行ってるだろ」
「ごめんなさい、忘れてしまいました。校舎が複雑で」そう言って、しょんぼりと肩を落とす。「ほかの人に訊いても教えてくれません。コースケさんに訊けって」
 離れたところでニヤついている男子たちを睨みつけてから、僕はしかたなく頷いた。友人たちと弁当を広げていた美咲が、じっとこちらを見つめていた。
 最初こそ誰彼構わず話しかけていたリアンだったが、この頃では、さすがにそれもおとなしくなった。教室の雰囲気が自分に好意的でないことを、うっすらと察したらしい。僕に話しかけることで美咲の不興を買っていることにも早く気づいてほしいものだ。
 実習棟へ渡る途中、僕はリアンの傷一つない左手を盗み見た。
 美術室で見た光景が、夢のように思えた。宇宙人だ、と独りで興奮していた自分がいまでは恥ずかしい。あの後、ずっとリアンのことが頭から離れなかったが、一週間も経てば、自分でも驚くほど興味が失せ、なんとも馬鹿馬鹿しい気分になってしまった。
 緑色の体液や、すぐに治った傷など、たしかに不思議な現象ではあった。単なる見間違いだという説が自分の中では有力だが、映像ははっきりと記憶に焼きついている。あれはたしかに、実際に起こったことだ。しかし、それで宇宙人だと決めつけるのは、やはり飛躍しすぎている気がした。
 百兆歩譲って、彼女が本物の宇宙人だとしても、「だからどうした」という感が否めない。なぜ人間に化けてこんな田舎の学校に潜り込んでいるのか知らないが、正直、彼女が地球を征服しようが観光しようが、僕にはどうでもよかった。東京や大阪にいた頃だって、得体の知れない人間をたくさん見た。自分さえ巻き込まれなければ、そのうちの誰がテロを企てていようと知ったことではない。それが、僕の嘘偽りない本音だった。
「コースケさん。今日は、ワタシといっしょにお昼ごはんを食べませんか」
 化学室の前まで来たとき、リアンが唐突に言い出した。
「は?」僕は固まる。「なんで?」
「みなさん、お友達といっしょにお昼ごはん食べているようですから」
「俺も友達と食う予定なんだけど」
「ワタシは、お友達ではありませんか?」
 不安げに訊ねられ、僕は盛大にまごついた。まったく、ルールもなにもあったものではない。
「まぁ……、同じクラスだから、友達みたいなもんだろうけど」
「よかった」とリアンがにっこりする。「コースケさんとお友達になれて嬉しいです」
「あのさ、なんで俺のこと、コースケって呼ぶの?」
「お友達同士はファースト・ネームで呼び合うものだと学びました。ジョン、キャシー、トムなど」
 せめて日本のお友達文化について勉強してきてほしかったが、なにも言う気になれなかった。彼女とのこの会話のリズムが、なにもかもをどうでもよくさせるのだ。
「保科ってさ、マジで違う惑星からきたの?」
 僕は、自分でも驚くほどあっさりと核心を訊ねた。
「はい、そうです」
 リアンもあっさりと答えた。手応えがないのにもほどがある。
「どんくらい遠いの? 太陽系の外?」
「ものすごく遠いです。まだ人間には発見されていない惑星です」
「じゃあ、ここまで来るの、けっこう大変だったろ」
「ワタシの星ではワープ技術が発達しているので」
「すげーな。地球じゃワープなんてフィクション扱いなのに」
「理論をご説明いたしましょうか?」
「いや……、それよりさ、なんで地球にきたの?」
「みなさんと、お友達になりたかったからです」
 イラッときて、思わず舌打ちしてしまった。
「気づいてるだろうけど、お前、みんなから嫌われてるよ。酷いことにならないうちに、よそに行ったほうがいいと思うんだけど」
 相手がリアンでなければ、こんな物言いはしなかったに違いない。わざわざ忠告してやるなんて、僕の性分ではないのだ。
 リアンはかすかに傷ついた表情になったが、次の瞬間には瞳に例の小宇宙を渦巻かせ、僕の鼻先にまで迫っていた。
「コースケさんは、ゴールデンレコードを知っていますか?」
「な、なんだって?」僕は仰け反って聞き返す。
「人間が宇宙に打ち上げた、地球の情報を納めた記録媒体です。そこには地球上の色々なことが記されていました。それぞれの国の文化や歴史、動物のことも記録されているんです。ひとつの星にたくさんの生物が共存して、お互いを認め、理解し合って暮らしている……、これって、とても素晴らしいことです。解析したとき、ワタシはとても感動しました。人間は自分たちと違う生物と仲良くなれる生物だと知りました。だから、ワタシもみなさんと仲良くできるはずなんです」
 リアンは肩を弾ませて語っていたが、途中から僕はうわの空だった。
 同じクラスの女子二人が、背後の廊下からこちらを監視していることに気づいたからだ。美咲の差金に間違いなかった。
 どこから聞かれていたのだろう?
 僕が美咲たちに心から気を許していないように、美咲もまた、僕を心からは信用していないということか。馬鹿な田舎者だと侮っていた分、彼女の抜け目なさが、ことのほか僕を動揺させた。
「とにかく」僕は早口に、廊下の先まで聞こえる声で遮った。「転校生なら転校生らしく、もっと上手くやれ。俺は助けねぇからな」
 きょとんとしているリアンを残し、僕は踵を返した。
 廊下の先の角を曲がると、やはり美咲の取り巻き二人がそこにいた。
「あ、康介くん」片方がへたくそな愛想笑いをする。
「あれ、どうしたの?」僕の笑顔もこわばっていたに違いない。
「えっと、美咲がね、今日はうちらといっしょにごはん食べようって。あたしら、たまたまこっちに用があったから、ついでに呼びにきたの」
「あ、そうなんだ。わざわざごめんね」
「いいよ。友達なんだから」
 なんて微笑ましい会話。
 仲良く暮らしている、だって?
 ゴールデンレコードがどんなものなのかは知らないが、どこの国の人間だって、外交の場では自分たちの素晴らしい部分のみを語るものだ。たとえ惑星と惑星の間でも、それは関係ない。嘘っぱちだ。その証拠に、こんなちっぽけな学校の、ちっぽけな教室ですら、この体たらくじゃないか。
 廊下を戻りながら、僕はまた舌打ちした。
 リアンに対していたたまれないものを感じた。人類の嘘っぱちを鵜呑みにし、はるばる地球までやってきた彼女が、少し哀れだった。他人にそんな感情を抱くのは、本当に久しぶりのことだった。

 ◇

 いまどきの、人並みに頭が回る高校生なら、いじめという遊びがダサくてハイリスクであることを理屈で知っているものだが、保科リアンという奇抜な個性は、平凡な高校生が許容できる範囲を遥かに超えていた。
 事態悪化の引金は、やはりリアンが僕を昼食に誘ったことにあったようだ。
 その後に起こったリアンへのいじめについては、胸が悪くなるのであまり思い返したくない。無視や陰口だけに留まらず、もっと直接的な暴力へとそれはエスカレートした。とにかく見るに忍びない状況だった。美咲の指揮によるものだったのは言うまでもない。僕の目の前で(つまり、公然と)、リアンの椅子に接着ボンドが仕掛けられたことさえあった。
 転校生活を長く続けてきた僕だが、いじめを通して教室が団結していく様には毎度、畏怖の念すら抱かせられる。いじめる相手が異質であればあるほど、彼ら彼女らの絆はいっそう強く、露骨に結ばれていくらしい。そういえば、子供の頃に観たSF映画もそうだった。宇宙人が襲来したとき、人類は国境も人種も超えて共闘していたではないか。
 リアンがずぶ濡れになって現れても、裂けたスカートを穿いて現れても、僕は一切干渉しなかった。「コースケさん」と縋るように話しかけられても、視線を逸らして黙殺し続けた。それは、予想していたよりずっと後味の悪いことだった。
 僕に対する風当たりに変化はなかったけれど、毎日、嫌な気分にさせられた。当たり前だ。いじめの光景を見せられて、良い気分になれるはずがない。でも、だからといって、僕にどうしろというのだろう? リアンをかばったところで、教室の悪意の標的が二つに増えるだけのこと。残念ながら僕は白馬の王子様ではない。首を竦めてやり過ごすしかないじゃないか。
 リアンもやがて、僕に話しかけることをやめてしまった。希望の小宇宙で輝いていたはずの瞳は、もうすっかり曇っていた。ゴールデンレコードが嘘っぱちだったことを、彼女もようやく悟ったのかもしれない。

 ◇

「ワタシ、明日からいなくなります」
 一か月ほど経ったある日の放課後、無惨な散切り頭を晒したリアンがそう告げた。忘れ物を取りに教室へ戻ったとき、独り窓際で佇んでいる彼女と鉢合わせたのだ。幸いにもほかに誰もいなかった。
「それがいいよ」
 僕は久々に返事をした。なぜだか途方もない疲労感があった。いなくなる、の意味を尋ねる気力も湧かなかった。
「コースケさんの言う通り、上手くやれたらよかったのに」彼女は悲しげに微笑んだ。「ワタシ、なにがいけなかったんでしょうか?」
 言葉に詰まってしまう。そんな質問に答えられるはずがなかった。
「お前さ、元いたところに帰れよ」たっぷりと時間を消費してから、僕は言ってやった。「ここはお前には合わないところだったんだよ」
 リアンは僕を見つめ、小さく首を振った。
「この学校にはもう来られませんが、ほかの学校でまたチャレンジしてみます」
「で、またトイレで水ぶっかけられたり、髪を切られたりするのか? ゴールデンレコードなんか嘘だったって、どうして考えねぇんだよ」僕は舌打ちする。「どこ行ったって、ここにいるような連中しかいねぇんだぞ。俺、ガキの頃から転校ばかりだったからわかるんだ。お前が想像しているようなもんじゃねぇんだよ、人間は」
 饐えた記憶の匂いを嗅いだ気がして、たまらず頭を振った。
「俺、小学生のときさ、転校した学校でめちゃくちゃいじめられたんだ。物隠されるわ、無視されるわで、大変だった。だから、もういじめられねぇようにって、これまで必死に立ち回ってきたんだ。いじめる側に回ったこともあった。お前にしたように……」
「でも、ワタシ、コースケさんからはなにもされていません」
「無視しただろ、お前のこと。それも立派ないじめだ」
 この一か月、ずっと胸に押し込んできた感情が喉元に溢れてくるのを感じた。それをリアンにぶつけたく思っている自分に気づき、反吐が出そうになる。まったく、なんという虫のよさだろう。一か月も無視してきた相手を前にして、いまさら自分だけ、綺麗な人間として終わろうとしている。本来ならこうして話す資格さえないはずなのに、無様に身の上話まで披露して、勝手に救われようとしているのだ。
 ところが、リアンは真剣な顔で首を振った。
「ワタシはコースケさんのこと、優しい人だと思います。コースケさんはワタシに助言してくれましたし、それにいま、ワタシのことを考えて話してくれていますから」
 俺が優しい?
 思わず苦笑した。
 それは違う。
 絶対に違う。
 しかし、言葉にして否定するほどの勇気が、これ以上リアンを失望させる勇気が、僕にはなかった。
「ここでの経験は辛いものでしたが、コースケさんとお会いできたのはよかったです」彼女は瞳に夕暮れの光を映して言った。「やっぱり、人間は素晴らしい生物だと思います。自分のことだけじゃなくて、他人のことも考えることができる生物だから。それは、とても稀有な知性なのだとワタシは思います。人間は、自分の住む惑星が宇宙の中心ではないと気づけるくらいに、賢い生物ですから」
 そう語るリアンを、僕はまた哀れに感じる。
 違うんだよ……。
 そんなものは、言葉だけの知性なんだ。
 天動説は鼻で笑うくせに、自分は世界の中心だと信じ込んでいる馬鹿が、この星にはあまりに多すぎる。だから、お前はこんな目に遭ったんじゃないか。だから、俺はお前を助けなかったんじゃないか。
「ワタシ、もう行きます」リアンが背筋を伸ばして言った。「コースケさんのことは忘れません。本当にお世話になりました。また、どこかで会えるといいですね」
 僕は力なく見つめ返し、ふと彼女の左手に視線を落とした。
 傷一つない、緑色の液体が流れている手。
 無意識に、自分の左手を差し出していた。
 彼女がぽかんと僕の左手を見る。
「握手」と僕が言うと、彼女も気づいて「握手」と微笑んだ。
「でも、握手は右手でするものではありませんか?」
「いいんだよ」僕は言った。「友達は、左手で握手するもんだ」
 リアンは「そうなのですか」と僕の嘘っぱちを信じた。そして、あの綺麗な左手で力強く握り返した。ほとんど体温を感じさせない、つるりとした不思議な感触。誰かの手を離したくないと感じたのは、それが初めてのことだった。

 ◇

 リアンが出て行ったあと、僕はしばらく教室に残り、沈んでいく夕陽を取り留めない気分で眺めた。街灯がぽつぽつと連なり、遠い空では金星が光っていた。室内は暗闇を濃くしていて、そこに突っ立っていると、まるで夢の中のように自分の存在が心許なかった。
 どれくらいそうしていただろう。美咲から着信が入ったとき、自分がいまどこにいるのか、咄嗟にわからなかったほどだった。
「エイリアン、転校するんだって」電話の向こうで、彼女が心底嬉しそうに言った。取り巻きたちと一緒なのだろう、がやがやと騒がしい雰囲気だ。「キモイのがいなくなって清々するね。これからお祝いに打ち上げするんだけど、康介も来るでしょ?」
「キモイのは……」
 お前らだろ、と言い切ることが、どうしてもできなかった。
 それを言える資格が、僕にはなかった。
 僕もまた、僕が嫌悪する人間の仲間なのだから。
「え、なに?」美咲が声を張り上げて聞き返す。「周りがうるさくて、よく聞こえなかった」
 喉の下には依然として熱い塊がある。しかし、それを言葉として吐き出すには、僕の口はこれまであまりにも上手く立ち回りすぎてきた。この惑星でしか生きていけない、愚かしく呪われた生物の口だった。
「行くよ」陽の沈んだ地平を見据えて僕は答えた。「店決まったら送って」
 美咲は満足そうに「うん」と返した。
 通話を切り、リアンと握手した左手を見つめる。心のどこかで羨望の芽が息吹いていた。転校を繰り返してきた僕には、置き去りにされる寂しさへの耐性があまり備わっていないようだった。
 夜の町のどこかで、ぴかっとなにかが光る。
 はっと目を上げると、町の上空を横切っていく小さな火球が見えた。
 それは瞬く間に遠ざかり、あとには青白い残像となって、網膜にいつまでも残るばかりだった。



<了>



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※2021年執筆。(改稿)
 見出し画像:みんなのフォトギャラリー(Tome館長様)

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