【掌編】トモビキ
吹き抜け式の待合ロビーには秋の陽射しが満ちていた。縁起でもないことに、俺にはそれが天国の入口みたいに思えた。それくらい幸福そうなムードだったのだ。
頻繁に病院を訪れていると、そのうち誰が患者で誰が見舞い客か見分けられるようになる。まぁ、服装で判別はつくのだけど、それ以前に表情や仕草ではっきりしている。おおまかに言えば、リラックスしている奴が患者で緊張している奴が見舞い客だ。この差はたぶん、どの国のどの文化にも共通する法則だと思う。
俺などは言うまでもなく、あの月子さんですら、ここへ来ると調子が狂うようだ。本人は平気そうに振る舞っているけれど、実の妹が死にかけているのだから、もっと取り乱していても全然不思議じゃない。
「テルちゃん」俺を見つけると、月子さんは立ち上がった。「お見舞いにきてくれたの?」
「うす」と俺は首を竦める。昔の呼び方をされると少しこそばゆい。
「学校は?」
「今日は午前中まで。月子さん、独りっすか? おばさんは?」
「ママ、一旦家に帰ったの。すぐ戻ってくるよ。あたしはちょっと、ここで一息ついてたとこ」
俺は頷いた。十息ついたって足りないはずだ。
月子さんと一緒にエレベーターに乗り、佳奈のいる病室へ向かった。途中の廊下でも窓から陽がいっぱいに射していて、頬に光の粒子を感じられるほどだった。
佳奈はいつもと同じ姿でベッドに横たわっていた。包帯でぐるぐる巻きにされた顔からは、呼吸器を突っ込まれた口と閉じた左目だけが覗いている。
「佳奈、テルちゃんがきたよぉ」月子さんが彼女へ話しかけた。「愛されてんねぇ。この幸せ者め」
当然ながら佳奈は反応しない。幸せの欠片もそこには窺えない。可哀想に、せめてちゃんと死ねていればもう少し幸せだったろうに。
佳奈は二ヶ月前、通っていた学校の校舎から飛び降りた。詳しい状況は聞いていないが、彼女が自殺を図ったのは間違いないらしい。理由は不明。いじめられていたわけでもないそうだ。「数学のテスト死んだわー」と友人たちにぼやいたその日の夜に、佳奈は人生との訣別に踏み切ったのだ。
家族ぐるみの付き合いとはいえ(幼馴染という言葉は使いたくない。反吐が出そうになる)、俺と彼女は中学から疎遠になっていたし、高校も別々の学校へ進学していた。それぞれ勝手に友達も恋人も作っている。佳奈が抱えていたものの正体を、いまさら俺が見極められるはずもない。しかし、子供の頃から知っている人間が自殺を決行したという事実が、無性に俺を浮き足立たせ、ふらふらと病室へ誘い続けるのだ。
「勉強は捗ってる?」月子さんが椅子に座って話しかけてくる。
「まぁ、ぼちぼちと」
「東京の大学目指してるんだって? 国立?」
「俺の頭じゃ行けても私大でしょうね。志望もこの前決めたばっかりだし」
「まだ一年あるじゃん。ぜんぜん戦う余地あるっしょ」
佳奈を挟む位置で、俺たちはいつものように取るに足らない会話を始める。意識のない者へいつまでも話しかけていられるほど、人間の精神は強靭じゃないということだ。たとえ、それが月子さんであっても、である。
月子さんは三歳年上の、少し変わり者の女性だ。名古屋の大学に通っていたが、なにか気に食わないことがあったらしく、中退して地元に戻ってきたのだった。
とにかく豪放というのか、あけっぴろげというのか、月子さんの人格に圧倒されることが、昔から何度もあった。佳奈の家へ遊びにいって、風呂上がりの一糸纏わぬ姿でうろついている場面に遭遇してしまったこともある。固まった俺に気づくと、月子さんは恥じらうどころか高笑いして自室へ消えていったものだ。つまり、そういう人なのである。
「お姉ちゃん、テルがくること知っててわざとやってるんだよ」佳奈はいつもぷりぷりしていた。「テルをからかって楽しんでるんだよ」
小学生の俺はどう言っていいかわからず、居心地悪く黙っていた。
懐かしい思い出。
たかだか五、六年前のことが、なぜこんなに遠く感じられるのだろう。あのときは鼻からマグマを噴きそうなほど赤面したのに、いまは苦笑ひとつで振り返られる。人間には生まれつき、そういう便利なフィルターが備えられているように思えてならない。今回の件が濾されて純化し、冷静に振り返られるようになるには、あとどれくらいの時間が必要なのだろう。
陽がやや傾いて、窓からの直射がリノリウムの床をいっそう眩しくした頃、おばさんが病室に戻ってきた。ますますやつれている気がして、俺はつい視線を逸らしてしまった。
ここにいても俺にできることはない。
とうにわかりきっていたことだが、その無力感がまた襲い掛かってきた。俺はたまらず立ち上がり、やってきたばかりのおばさんへお暇を告げた。おばさんは残念そうに眉をひそめてから、「またきてね」と微笑んでくれた。
エレベーターで降り、天国のように明るいロビーへ戻ると、中央のベンチで家族連れが賑やかに話していた。入院しているのは車椅子に乗ったおばあさんのようで、その膝元に小さな女の子が座って笑っている。夏休みにやっているアニメ映画みたいに幸せな光景だった。
ここに爆弾を落としたい、とふと思った。
昔、テレビで観た、ピカッと光って世界を焦土に変えてしまう、あの恐ろしい核兵器をここに落としてやりたい。人々は自分が死んだことにも気づかぬまま、永遠の影となって瓦礫に刻み込まれる。そして、炎が消えたあとにも、黒い雨がゆっくりと大地を殺し続けるのだ。
馬鹿げた妄想だ。
でも、願望なんてもともと、みんな馬鹿げているものだ。
「テルちゃん」
外へ出て、冷たい風に襟を立てたとき、月子さんが追いついてきた。セーターの上にコートを着ている。
「どうしたんすか?」
「あたしも一回帰ろうかなって。途中まで一緒に行こうよ」
「あぁ……」
「だめ?」
「いや、べつに、いいっすけど」
月子さんは隣に並びながら、「んー」と唸って伸びをした。
「病院ってさぁ、いるだけで疲れてこない?」
「そっすね」
「あたしはフリーターだから気楽だけど、テルちゃんなんか大変でしょ? 勉強しなくちゃいけないし、学校も行かなきゃいけないし」
よほど窮屈だったらしく、外の空気に触れた途端、月子さんはお湯をかけたインスタントラーメンみたいに調子を取り戻してきた。
「そんな大変でもないっすよ」
「だけど、国公立目指してるんなら、いまから勉強しなきゃじゃない?」
「月子さんに心配してもらうようなことじゃないっすから」
彼女がふと俺を見つめた。ちょっとたじろいでしまうくらいの眼差しだった。
「なんすか?」
「前から聞こうと思ってたんだけど、どうしてそんな口調なの?」
「え?」
「昔みたいな話し方でいいのに。ツキちゃんって呼んで」
俺は困って「だって、年上だし」ともごもご答える。「昔から年上だよ」と彼女は吹き出した。
「なんか距離みたいなの感じちゃってさ、寂しいよ、あたしゃ」
俺はこっそり溜息をついた。
自惚れだと言われそうだけど、これでも俺はいままで二人の女子と付き合っている。だからというわけでもないが、月子さんの言葉や仕草の節々に、そういうマーガリンみたいにねっとりした思惑が含まれていることにうっすら気づいていた。いや、もしかしたら、そうやって俺が勘違いするのを見越して、からかわれているだけなのかもしれないけれど……。
黙っている俺に彼女は口を尖らせた。
「このあと、暇?」
「予定はないっすけど」
「カラオケいかない?」
俺はあっけにとられてしまった。つくづく計り知れない人だ。
「こう、思いきり歌いたい気分なんだよね」
あっけらかんと笑う月子さんに、俺はなにも言えなかった。
◇
それから三十分かけて連れてこられたのは、駅前通りにあるカラオケ店だった。月子さんはさっさと部屋を取って入室してしまう。平日にも関わらず店は繁盛しているようで、隣室からへたくそな歌声が聞こえていた。
「今日は盛り上がろうぜ!」
月子さんはマイクを片手に頭を振り始める。流れてきたのは、耳から汁が出そうなヘヴィメタルだった。
俺は苦笑して、絶叫する月子さんを眺める。泣かれるよりは、馬鹿げた金切り声を聴かされるほうがマシかもしれない。俺も月子さんも、泣くのが好きなわけではないし、不謹慎なものに免疫がないわけでもない。テレビタレントとは違う人種だ。
しかし、なんという状況だろう。
知り合いが、妹が、死にかけているのに、男女の鞘当てみたいな真似をして、呑気にカラオケに興じている。誰かが自殺を試みたところで、空は雲ひとつなく澄み渡り、日々はつつがなく続いていく。世界は自分のためだけにあるものじゃないということ。それを不条理に感じてしまうのは、やはり俺がまだ子供だからだろうか。
皆も不幸になればいいのに。
もしも俺が佳奈の立場だったら、絶対にそう思うだろう。核兵器を発射するボタンがあれば、迷いなくそれを押すはずだった。
曲が間奏に入ったとき、月子さんがマイク越しに訊いた。
「東京の大学ってさ、佳奈のことがあったから決めたんでしょ?」
俺は顔を上げて彼女を見る。
彼女もこちらを見ていた。
「佳奈が迷惑かけてごめんね」
俺はなにか言おうとしたけれど、ギターソロの狂騒に邪魔されてしまった。月子さんはまた画面を睨んで叫び始める。
逃げ場なんてないのかもしれない。
この先、どこに行ったって、俺はあの病院に満ちる透明な光に囚われ続けるだろう。包帯でぐるぐる巻きにされた佳奈と対峙させられるに違いない。
皆も不幸になればいいのに。
彼女がそう囁いた気がした。
でも、本当は、誰もがわかっているのだ。皆を不幸にするよりも、自分が皆と同じように幸せになればいいだけの話なのだと……、そのほうがずっと、手っ取り早く済むはずなのだと、心の奥底ではわかっているはずなのだ。
そんな簡単なことが、なぜできないのか。
幸せになる方法がわからないから?
幸せになる勇気がないから?
それとも……、幸せになれない誰かのことを、考えてしまうから?
いったい、いつから俺は、そんな優しく臆病な人間になったのだろう?
「テルちゃんもなにか歌いなよ」
いつの間にか曲が終わって、月子さんがマイクを差し出していた。汗の滲んだ目許がきらきらと光を放っている。もしかしたら、優しさという代物も、そんなふうに濡れて煌めいているものなのかもしれない。
俺は再び溜息をついてから、無言でマイクを受け取った。
<了>
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※2020年執筆。
見出し画像:みんなのフォトギャラリー(Tome館長様)
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