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ミュージシャンにとって最悪の褒め言葉「〇〇みたいでいいね」

世の中には無神経な人って、います。
無神経とまでいかなくとも、物事をあまり深く考えない人の「考えなしの善意」というのは、時として明らかな悪意よりも厄介だったりします。

サノスのように目的から見た目まではっきりと「悪者」であればこそ、アベンジャーズも戦いようがあります。
しかし、もしサノスの「やり口」が割と善意に基づいた穏便なもの、例えば「地球環境のために人間の人口を減らしていきましょう。まずは後期高齢者から安楽死希望者を募ります」みたいな【一理なくはないけど、ちょっと待ってそんなのおかしくない?】みたいなものだったら、明らかに間違っていてもアベンジャーズみたいなわかりやすい「正義」は振りかざす場所がありませんw

で、世間の「陰謀論者」の方は信じないと思いますが、現実の世界ではそんなわかりやすい「悪」なんて意外と少ないわけで、大抵の悪意は善意のふりをして近づいてきます。
それどころか本当の「善意」が人を傷つけることすらも往々にしてあるわけです。

謎に話がでかくなりましたが、芸術や芸事、スポーツ等の「評価されるのが前提」の世界において「考えなしの善意」は、しょっちゅう発生します。

芸術や芸事というのは「人に鑑賞されなければ存在意義がない」という宿命を背負っているため、アーティストやミュージシャンたちは常に「誰かの感想」を聞かされますし、鑑賞者側は(言うか言わないかは別として、少なくとも心のなかで)必ず何らかの評価を下し、感想を持ちます。
(「ふーん」という無感想も含めて、ですが)

この「誰かが誰かに評価や感想を伝える」という行為が常につきまとう芸術や表現・創作の世界では、鑑賞者が素人さんである場合には「考えなしの善意」が大量発生するわけです。

それがタイトルの例に象徴されるようなあるある発言、すなわち

わかりもしないのに自分の(狭い)了見でなんとか評価をし、(善意で)褒めようとした結果、トンチンカンで全然嬉しくない、むしろ失礼なことを言ってしまう

というやつです。

プロにとってそれは褒め言葉じゃないよ

アスリートやアーティスト、あるいは優れた技術者、ひいては「それでメシを食っている」いわゆる「プロ」の方に「上手ですね」なんて言うのは失礼だ、というのは、誰にでもなんとなくわかる感覚かと思います。

プロフェッショナルというのはその技術を磨き抜いた人であって、とんでもない量の訓練を重ねてきているわけで、「上手」なのは当たり前というか、「プロとしてやっていくための前提条件」です。

その人物がプロとして活躍できているのは、その「上手な技術」を当たり前に駆使した上で、自分にしかできないことをやっているからです。

そんなプロに対して適当に「上手ですね」なんて言っちゃうのはつまり「私はあなたを善意で褒めはするけど、別にあなたが努力して培ってきた【独自性の部分】に興味はないし、どうすごいのか評価する気もハナからありません」と宣言しているようなものです。

 

というわけで前置きが長くなりましたが、やっとタイトルの話に入ります。

先日こんなことがありました。
失礼なんですが、上記の「上手ですね」ほどはっきりと失礼じゃないのが厄介。

「〇〇みたい」

先日、僕の音楽仲間のA君がローカル局のラジオ番組に出演し、その場で1曲、ギターで生弾き語りをしました。

どうやらその番組のパーソナリティの方(たぶん局アナさん?)は、音楽について全く知識や理解がないようで(別にそれ自体は全然問題ないんですよ)、曲の生演奏が終わった後もまともな感想が出て来ず「すごく声が高いですね」とか、しまいには「〇〇さん(有名なミュージシャン)みたいでかっこいいですね」と言ってしまいました。

A君はとても思慮深い男なので、ただ「ありがとうございます」と笑っていましたが、本心はモヤモヤしていたはずです。

いやこれ、めっちゃ失礼ですよね。褒めてるつもりなんでしょうけど、絶対言っちゃダメでしょう。
ってかよくアナウンサーになれたなその思慮浅さでw

厄介なことにそのパーソナリティーさんはおそらく「『すごーい』とかの適当な言葉じゃなく、ちゃんと自分の言葉で感想を伝え、褒めた」と思っています。これが落とし穴なんです。

そんなことを言われてもミュージシャンは1mmも喜びません。喜んでるとしたらそれはミュージシャンではなく「ものまね芸人」さんです。

なんのために作ってると思ってんだタコ

とはいえ、まぁしょうがないかな、とは思います。

「〇〇みたいでかっこいいですね」が失礼な発言だと感じる、その感覚は、芸術や創作・表現活動に必死で取り組んだ経験がなければ理解するのは少しむずかしいのかもしれません。

音楽でも絵画でも彫刻でもなんでも、芸術であれば皆同じ、単純にして究極の目的があります。それは

唯一無二の作品をつくり、唯一無二の自分自身を表現することです。

見切り発車で書いてるので、自分でもびっくりしていますが、なんという大きな話にたどりついてしまったのか・・・!

アーティストの誰一人として「〇〇みたいだね」と言われたくてやってません。

そう言われたくてやってるのはモノマネ芸人か、コピーバンドや薄い本作家を含めた2次創作作家か、単純にまだアーティストではない練習中の人です。

そもそも「芸術」という概念がなんのためにあるかというと

人と人が、説明できない抽象的な感情の動きを共有するため

です。これを「共感」と言います。

例えば、ある日見た夕焼けがあまりに綺麗だった、その時の感動はいくら説明しても相手に正確に伝えることはできません。不可能です。

それを、説明言葉ではなく比喩や言い回しを巧みに操って共有しようとすることを「文学」といいます。絵に描いたり写真に写し取ったりすることを美術といったり、その時の感情をメロディーに載せて表現しようとすることを音楽といったりします。

言ってみれば芸術とは「いくら説明されてもわからない他者の感情」を共有するために、脳と脳を直接つなげるインターフェースみたいなものです。他のフォーマットに変換せずに、感覚と感覚をケーブルでブチュっとつなぐようなものです。

したがってそもそもが、オリジナルな、個別の、特殊解でなければ、「芸術」という概念としてそぐわない、と私は考えます。

コピーは絶対に「芸術」にはなりえません。

※例えば、ものすごく精密な模造品や、完璧な数式、緻密な手作業の工業製品、イチローのしなやかな身のこなし、生き物がつくる模様などが「芸術的」である、と表現することは多くあります。
しかしそれは「芸術」であって「芸術」という概念そのものとはちがいます。「本来芸術じゃないのにまるで芸術として作られたかのように素晴らしい」という意味で「芸術的だね」と人は言うわけです。
「もはや芸術だね」も同じです。

しかしながら、これが難しいところですが「独自性」「オリジナリティ」「新規性」を目的化してしまうと、本末転倒です。

「人とかぶらない」ことが目的あるいは作品を作る上での重要なコンセプトになってしまったりすると、その作品は突然、存在意義を失います。

個性的な服装をしたがる美大生ほどつまらない作品を作りがちなのと同じです。
そのへんのことについては改めて書きたいと思います。

傷ついてはいけない

ここまで書いておいてこんなことを言い出すとお前イカれてんのかと言われそうですが、変な褒め方をしちゃう人もまぁ「善意」なんで、ありがたくその言葉を受けっとってあげたいですよね。
ただただ「考えなし」なだけですから。
ニヤニヤしながら感謝してあげようかな、と僕は思っています。

それに「人を正しく評価する」「適切に褒めたり指摘したりする」というのは、M1グランプリの審査員の大御所芸人さんたちが毎年出演を渋るのを見て分かる通り、むちゃくちゃ難しいことです。

それは誠実な人であればあるほど、非常に難しい。
何をどう傷つけてしまうかわからないし、下手なことを言って相手を変な方向に導いてしまうかもしれないから。

したがって僕は、僕の作品を「あまり褒めてくれない」友人やオトナを信用するようにしています。誠実な人ほど、簡単に褒めたりしないはずだから・・・たぶん・・・。

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