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コロナ禍転じて福となす社会へPart2・ステイホームはこれから始まる時代に必要な準備だった

【成果6】ステイホームで「ワークライフバランス」と自己判断力が改善

 コロナ以前の社会は、私たちをとにかく家の外へ「出かけさせる」仕掛けで満ちていた。
 大人たちは通勤に加えて、多種多様な刺激をもらえるイベントやサークルの会合と、SNS映えする素材を提供してくれる観光地や飲食店に出向くことで経済を回していた。
 子供たちでさえも学校だけでなく、塾や部活の出席ノルマで忙しい日々。
 これでは家族が顔を合わせる時間はどんどん削られ、中には夫婦や親子が毎日「すれ違い状態」という話も珍しくなかった。

 ひと言でいうと、活動的な人ほど「ホームがおろそか」な暮らしに傾いていたと感じる。
 例えば、「家の中を片づけられない」と悩む女性にも、「子供が欲しいのにセックスレス」と悩む夫婦にも、そうなる背景には「家でゆっくり過ごせる時間が少な過ぎる」という実態が横たわっていた。

 それが、強制的に「ステイホーム=家にいなさい」と社会の態度が反転したのは、自然のバランス調整作用のようなものだと私は感じている。そのお蔭で、これまで外へ出かけることで気が紛らわされ、まともに向き合わずに済んでいた「家族との関係」「自分自身の内面」と、否応なく向き合うチャンスがもたらされたのだから。
 実はこのプロセスは、今始まりつつある新しい時代に適応するために「必要なトレーニング」の一環とも言えるのだ。

 これは、【成果2】でお伝えした「集団の都合より個人の事情を優先できる社会」に変わったということに関係している。
 これまで「集団の都合が優先する社会」が成り立っていたのは、実はそれが個人にとって都合がいい面もあったからだ。つまり、「上の言う通り・みんながする通りにしていれば、あれこれ考えなくて済んでラク」だったということ。
 しかしこれからは、個人が自分の判断で、あらゆる身の振り方をカスタマイズできる余地が大きくなるはず。すると、そうした判断をなるべく間違いなくできるための条件として、自分自身の土台である「ホーム」がしっかり築かれていることが必要になってくる。

 「ホーム」とは、物理的な「家」「家庭」という意味だけでなく、大きくは「帰れる場所・安心できるよりどころ」を意味している。だから、家庭を持たない独り住まいや旅暮らしの人であっても、自分自身の内面と真っすぐ向き合えていれば、そこが「ホーム」だと言える。
 要は、これから始まる「個人の主体性・自発性」が求められる社会に備えて、自分の足元を固めるチャンスが与えられているのである。つまり「自分はどうしたいのか?どうありたいのか?」を自分で考えることに慣れておく、ということなのだ。

 ステイホームによって、これまで仕事の方へ偏っていた、日本人全体の「ワークライフバランス」(仕事と私生活のバランス)は劇的に改善したことだろう。
 医療や介護、保育、物流の現場で働き続けた「キーワーカー」の人たちは別格として、テレワークや自宅待機に切り替わった人たちは、通勤をはじめ外出に伴う移動時間が激減した分、これまで不足しがちだった睡眠や家事、家族との触れ合いなどに回せる時間が増えたはずだ。実際、ステイホームによって現代人の睡眠時間が増加したという、各国の調査結果もある。

【夫婦の場合】会話やスキンシップのチャンスが増えたことで、セックスレス解消や妊活にプラスに働いた夫婦も少なくないのではないか? 果たして次の冬に「ステイホーム・ベビー」の誕生ラッシュがあるのかどうかは、まだわからないけれど。
 私の知る実例を挙げると、子育てを終えたある50代夫婦の場合、夫が居酒屋で飲んで帰るのが大好きだったのが、自粛で妻と自宅飲みするようになったところ、これが「居酒屋○○ちゃん(妻の名前)」と呼ぶほど楽しくなり、再び夫婦仲が深まる良いキッカケになったそうな。
 また、夫たちが家事や育児に参加する機会が、以前より増えたという話もよく聞く。事実、子育て世帯の3分の1強が、コロナ禍以前より夫婦間の家事の役割分担を工夫するようになったという。(今年5月25日~6月5日内閣府の調査より)

【親子の場合】子供が家庭生活や「親の背中」から学べるものは、実は大きい。
 テレワークが始まったもう一つのメリットは、会社に行ったきりでは見せることができなかった「親の働く姿」を、子に見せられるようになったこと。それまで親のオフの姿しか知らなかった子供にとっては、親を尊敬できる機会が増えたことになる。

 大体20世紀の高度経済成長期の頃から、子供は勉強や部活など「学校の事さえちゃんとやっていればいい」という扱いを受けるようになり、家事に関わらない子供が多くなっていた。そのせいで、大人になってから苦労した人は多いだろう。そもそも家事全般は、生活者としての感性を鍛える「脳トレ」にもなるもの。子供のうちから家事に慣れておくと、自立心が強く、身の始末のいい大人になりやすいと言える。
 ステイホームによって、子供が学校や塾へ行ったきりでなく、家事や仕事に立ち働く親の姿を見たり、それを手伝ったりできる時間が増えたことは、学校の勉強だけでは取りこぼされていた部分の教育効果があったことと思う。

 さらに全国一斉の休校措置によって、多くの学校や進学塾で「オンライン授業」の導入が始まり、一部の学校では、登校再開後もオンライン授業を継続する方針だという。このお蔭で、元々学校に通わず家にいた不登校の子供たちにとっても、勉強できる手段が増えたことは大きな進歩だと思う。
「みんなが学校に行かなくなった」ことで、不登校の子供たちは「気がラクになった」という声を何度も聞いた。その期間は、学校へ通わないことへの劣等感や後ろめたさを感じなくてよくなったから。
 おそらく不登校を選んだ子供たちは、集団というものが持つ「思考や行動をコントロールしてくる強制的な力」に敏感な性質なのだと感じる。この点については、【成果8】でもっと詳しくお伝えしたい。

 もちろん現実には夫婦でも親子でも、一緒にいる時間が増えることには一長一短がある。
 相手に助けてもらえて感謝できたり、愛情が深まることもあれば、時には相手の存在をストレスに感じたり、イヤな面が見えたりするかもしれない。その場合も、感情的なケンカもしくは理性的な話し合いを通じて、「お互いの葛藤を乗り越えていく」ことの繰り返しが、身近な他者との関係性を育てるトレーニングになる。それが、家の外の世界で人間関係を作る時にも役立つ土台になるのだ。
 だから、ステイホームによって、暴力的ではない親たちと、濃い時間を過ごせた子供たちは、きっと今の大人世代よりも、内面の安定度が高い大人へと成長できるのではないかと予想する。

 逆に、親が在宅せず目が届かなかった中高生からは、「望まぬ妊娠」に関わる公的機関への相談件数が過去最高を記録する結果ともなった。しかし、ここでも救いを感じるのは、これが10年前なら、当事者が誰にも相談できないまま、悲劇的な結末へ至るケースが多く聞かれたのに、今の10代には、相談できる大人を積極的に求める傾向が強いという変化がうかがえるのだ。

 同じように、ステイホームが始まった時、夫婦間のDVや児童虐待など、家庭が決して「ホーム」にならない人たちへのシェルター整備などの救済を求める声が、早い段階からメディアを通じて取り上げられていたことも良かったと思う。そうした情報が一般的に広まったことで、これまで自分が「暴力の被害者」という自覚がなかった人たちへの気づきも促されたようだ。

 今回のステイホームによって、たとえこれまでに色々な行き違いがあっても「努力すればうまくいく家庭」と、反対にDVや児童虐待がある場合はもちろんのこと、そうした暴力を伴わなくても「機能不全の家庭」との判別がハッキリしやすくなったのではないかと思う。決して「ホーム」になり得ない、解散した方が救いになる家庭なら、「コロナ離婚」という選択も一つの〝成果〟だと言えそうだ。

【成果7】「助け合いの仕組み」が次々生まれた

 全国で一斉休校や営業自粛が始まった3月頃から、様々な業者や家庭がこうむる「経済的打撃」が叫ばれ始めた。事あるごとに〝政府は何をやってるんだ、ひどいじゃないか〟と救済措置の遅れに対する批判のツイートがSNS上を飛び交う日々。
 確かに自営業者である私自身も少なからぬ経済的影響を受けた1人ではあるものの、実は社会全体としては「これは、なかなか悪くない。世の中、捨てたもんじゃない」と希望が湧くようになったと言ったら驚くだろうか。
 なぜなら、例えば母子家庭、DV被害者、ネットカフェ難民、ホームレス、休校で仕事が消えた業者などなど、「困っている人は誰か?」があぶり出される度に、民間も役所も含めて、誰かが支援の手を挙げることが繰り返されるようになったからだ。

 例えば、病災害遺児への奨学金で有名な「あしなが育英会」では、早くも4月半ばには全奨学生に15万円の生活支援給付を決定。
 また、一斉休校で大量に余った給食用食材を生活困窮者などへ回すために、全国のフードバンク団体への国からの支援が拡大された。
 休校の余波の例では、都立高校の購買部で営業が成り立っていたパン屋が、仕事がなくなって苦境に立っているところへ、かつてお世話になった卒業生たちが声をかけ合い、買いに訪れているという話もあった。
 面白いところでは、テレワークを命じられた妻子持ちのパパたちが、子供にジャマされずに仕事できる部屋がないと嘆く声が上がったのを受けて、休止中の子育てママ支援サロンが〝パパを預かる〟仕事スペースのレンタルサービスを始めた例もある。(※参照:トップ画像「子育てママ応援塾ほっこり~の」パパ預かりサービスで使用される部屋の例・赤羽経済新聞掲載)

 この調子で、休校と自粛が始まって以降、新聞紙面では「誰かがこんなアイデアで誰かを助けた」という〝グッドニュース〟が、かつてないほど掲載される頻度が増えた。
 不思議なもので、コロナ禍によって「みんなが前に進めず立ち止まらねばならない状況」になって初めて、社会の中で「より助けが必要な人」の姿が明らかとなり、助け合いの仕組みが次々生まれたのだ。

 そのキーワードは、「今、自分にできること」
 仕事や通学がお休みとなり、時間と体力が余っている人は、その余力を「何か自分が役に立つことに使いたい」という欲求が高まるもの

 経済的に影響を受けない、もしくは余裕がある立場の人は、ボランティアという形で。
 そこでは子供たちの活躍もあり、例えば休校中の小学生が、クリアファイルから医療用フェイスシールドを作る方法を発信すると、たちまち多くの親子が手作りフェイスシールドの寄付を始めた。
 各企業も工夫をこらして、JALでは飛行機が飛ばずに休業中の客室乗務員たちが、ミシンに向かって医療用防護服の制作ボランティアに当たっていた。

 一方、多くの事業者が、今までの仕事を別の形に転換することで活路を開くアイデアをひねり出した。例えば、休店中の有名フレンチレストランが、料理のテイクアウト販売を始めたり、一流料亭が折詰を全国へ通販で提供したりと、これまで一般庶民には敷居が高かった高級店の料理が、より安価に多くの人に届けられ、そのことがお互いにとって感謝できる結果となった。

 また、お客を呼べなくなった飲食店が、同じくお客を取れなくなったタクシー業者に頼んで、料理を宅配してもらうという、ワザありの〝コラボ〟が生まれたりもした。
 コラボと言えば、人手が余っている業者と、人手が足りない業者との「従業員シェア」のマッチングも次々動き始めた。例えば、自粛中の飲食店やホテルの従業員が、人手不足のスーパーや農家へ派遣されるという助け合いである。

 要は、今まであった仕事が無くなったことだけを見れば「経済的打撃」だけれど、そこに投じるはずだった時間と技術・体力を「新しい別のこと」に回せると考えれば、それは過去の限界を飛び越える「チャンス」となるのだ。

 確かにコロナ禍によって、経済的に安泰と言える人の割合は減っただろう。にもかかわらず、私は世の中全体が以前よりひどく生きづらくなったようには感じられないのだ。
 それを何より雄弁に裏付けるのは、緊急事態宣言で自粛のまっただ中にあった4月・5月の自殺者数が、昨年同月の2割近くも減ったという事実。コロナ禍以前の社会では、経済的苦境を原因とする自殺が最も多かったはずなのに、社会全体が経済苦と言われる今回は、逆の結果となったことの意味は大きい。
 人は「自分だけが苦しいわけではない」と思えると、追い詰められずに済むところがある。加えて、社会人の多くが、ホームで過ごす時間が増えたことで、所属する組織の犠牲になる機会が減ったことも影響しているはずだ。
さらにここで紹介したような、「困っている人がいれば助けよう」とする利他的な態度が、社会全体の「新しい常識」として根付き始めているからではないか。それを証拠に、様々な事情で経済的苦境に陥った人たちを支援するクラウドファンディングや、余った在庫の救済セールも大盛況だった。

(※しかし残念なことに、6月に緊急事態宣言が解除され、世間の経済活動が徐々に活発化してきた7月以降は、それとは裏腹に経済的苦境が長引いて力尽きた人々が増え始め、逆に自殺者数は昨年比1割以上に増える結果となった。この貧困問題については、民間の支援団体は活発に活動中で、全国の困窮者に合計4千万円もの給付をしたそうだが、いわゆる「公助」の手が行き届いていないことを物語っている。:2021年1月2日追記)

 さて、「助け合いの仕組み」と言えば、これまでの時代は「地域ごとの住民同士のつながり」が中心的な役割を果たしていたと思う。けれども、その住民同士のつながりの持ち方も、変化すべき時に来ているようだ。
 というのは、コロナ禍によって開催が自粛されたのは、商業的なイベントだけではない。各地域の住民同士の集会も、一斉に縮小もしくは割愛されることとなった。
 例えば、自治会のお祭り行事などは中止になり、町内会の定期総会など必要な会合については、少数の役員だけで行われ、一般会員は書面提出だけでOKとなった。
 会場へ出向く必要がなくなった一般会員たちも、大人数の椅子を並べる手間がなくなった役員たちも、正直「今年はラクでいい」と解放感を覚えた人が少なくなかったのではないか?「これでもちゃんと成立する」ことがわかったからには、こうした地域の儀礼的な集会も、その必要性の範囲が見直されていくことだろう。

 これは決して、地域住民の絆が必要ないという意味ではない。ただ毎年「やるのが当たり前」として続けられてきた行事の中には、すでに実質が伴わない「虚礼」となり、単に〝地域住民のノルマ〟のような、形骸化した儀礼となっているものが、かなり含まれていそうに感じるのだ。
 確かに、人の数がもっと少なく、人影がまばらだった時代には、「集まること」にも意義があったはずだ。互いの存在を確かめ合い、絆を育て、安心して生活するために。
 しかし、人口がケタ違いに多くなった上に、通信スピードが高速である今は、人が今よりずっと少なくて、集まらなければ分かり合えなかった時代と同じことをやる必要は、もうなくなっているのではないか。

 真の必要性とは関係なしに、ただ「ずっと続いてきたものをやめてはいけない」という惰性的な思考で同じことを繰り返していると、新しいものが生まれる余地がなくなる。その意味では、コロナ禍の今、「不要不急」という言葉に象徴されるように、あらゆるジャンルのものが「必要・不要」の範囲を問い直され、これからの時代にふさわしい形に変わることを求められているのだと言える。

(※続いて最後となる8つ目の成果こそ、私が最も伝えたかった「ソーシャルディスタンス」の本当の意義について。いよいよ世界の根本的な変化を読み解く核心的な話をお届けしたい。)


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