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【随想】 よい生き方とは

 人生は旅である。
 「人間五十年」といわれる人生の峠道をゆく旅である。
 その峠道をテクテクと歩き続けてきたが、いつの間にか「五十年」という一里塚を遠に通り過ぎていたことに、ハタと気付いた。振り向けば遠く。思えば遠くへ来たもんだ。だから、いつなんどき「此処がお前の終着点だゾ」と宣告されても可笑しくはないのダ。
 そんなコトもあってか、最近、ふと思うのは、自分の生き方の“質”について。つまり、自分のこれまでの生き方について。自分は“よい生き方”をしてきただろうか?
「はて?」
 どのような生き方が、“よい生き方”なのだろうか? それは他人ひとより物質的に恵まれた生活を送ることだろうか?
 血気盛んでワカゲが生えていた頃は、それが唯一無二の“正解”だと信じて我武者羅に生きた。他人ひとよりも物質的な恵みを得ようと。家族のため、自分のために遮二無二生きた。
 だが、精神こころを病んで、そんな生き方はタダの自己満足に過ぎないと気付いた。物質的に恵まれなくても“よい生き方”を全うしている人が居ることを知った。敗戦直後の物不足の時代に生きた人たちは、その典型だろう。打ちのめされた。物質的なモノだけに頼るのは文明人(自称)の驕りでしかない、と。
 そこで改めて、「“よい生き方”とは、どのような生き方なのか」を考えてみた。
 つらつら惟んみるに、“よい生き方”とは精神的な豊かさを求める生き方ではないだろうか。物質的な恵みではなく。精神こころの糧を得るために生きる。
 それは“物事を探究し続ける生き方”である。
 世の中は自分の知らない物事で満ち溢れている。知っている物事は芥子粒ほどの量しかない。皆知っているつもりになっている。だから、どんな些細な物事でもいい。他人ひと嘲笑せせらわらうような物事でもいい。気にするコトはない。自分が「はて?」と思った物事に対し、自分の答えを見つけ出すまで考え続ける。そんな生き方が“よい生き方”だと思う。
 そして、答えの糸口が見えたときの幸福感は、何物にも代えがたい精神こころの高揚──長いトンネルの先に出口の光が見えたときのような──である。考え続けるコトは、精神こころの“幸福”に繋がる。考え続けるコトを拒絶する人は幸福にはなれないだろう。
 だから、「よい生き方とは、どのようなものか?」の答えを探究し続けている時点で、その人は既に“よい生き方”を体現していると信じて止まないのダ。

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