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ヨガマスターにはならない。

今日は天気がいいからどっかへ行こう、と、電車に飛び乗るようなことを、もう何年もやっていない。天気がよければ、掃除だ。シーツ洗いだ。布団干しだ。干したら取り込まなければならない。私の自由時間は、いつもその隙間の中にしかなかった。ほとほと嫌になった。東急電車の各駅停車にしか乗っていない。もういやだ。もちろん、電車に飛び乗るにいろんな準備が必要な事情を抱えているが、それでも、数駅先に行って帰ってくるだけの日々にはもううんざりだ。

夫が出張に行って夕飯がいらないある梅雨の晴れ間の火曜日、私はしらす丼とパフェ・ディモンシュを目指してリュックに荷物をドサドサと放り込んで、薬をガツンと飲み、下りの東横線にかけこんだ。もう12時近い。今から江ノ島あたりでお昼にありつく頃には何時なのか。しらすはまだあるのか。わからないが出かけずに後悔はしたくなかった。

かくして私は大急ぎで江ノ電腰越駅にたどり着き、13時半にはしらす丼にありついた。その後はゆっくりと、近くの腰越珈琲でアイスティーをおかわりし、小動岬で海を眺め、江ノ島駅まで商店街を歩き、江ノ島電鉄一日乗車券「のりおりくん」を使ってまた藤沢に戻り駅のショップを覗き、またのりおりくんを使って鎌倉高校前で台湾人観光客に囲まれ、夕方いよいよ最終目的地の鎌倉は小町、cafe vivement dimancheに向かった。江ノ電の窓から見える海は日本海のように波が高く、沖縄のように青かった。せいせいした。

平日夕方のディモンシュにはちらほら空席があった。季節限定のマンゴーパフェも食べてみたかったが、私はすでに店の定番となっていたコーヒーづくしのパフェ、「パフェ・ディモンシュ」を実はまだ食べたことがなかった。コーヒーゼリー、コーヒーアイス、コーヒーグラニテのハーモニー。カフェインは大丈夫なのか。かまわん。

若い男性スタッフがオーダーを取り、「こんなに手間のかかったパフェが610円とはバチが当たるな」などと考えていたら、ほどなくしてパフェ・ディモンシュが目の前にスッと出された。スマホからふっと顔を上げると、運んできたのは堀内マスターだった。「マトさんですよねー。おひさしぶりです」。さも当たり前のように言われて私はドキーンとした。そしてそのブランクが、せいぜい1年や2年といった感じの言い方だった。いやいや、言葉を交わすのはゆうに7年ぶりですよ? 私、ずいぶん歳を取りましたよ? マスターみたいにかっこよく歳取ってないですよ?

00年代、私は堀内さんの「喫茶店学」講座を受けたり、ディモンシュ主催の海の家のイベントに毎年訪れるなどして、顔と名前を覚えられていた。美術作家・永井宏氏のできそこない門下生として、仲間たちと、葉山のアトリエでのワークショップの後に店を訪れることもあった。閉店直前のディモンシュにワラワラと7人くらいで訪れても、嫌な顔ひとつしなかった堀内マスターと歴代スタッフたち。もちろん、すべては発症前のことだ。あの頃25歳前後だった私は、もう41歳になった。私はひっそりと一人でパフェを食べて帰ろうと思っていた。

いったいこの人は何人の客の顔と名前を覚えているのだろうと思うと、気が遠くなる思いだった。知り合いヅラしてくる客なんてごまんといるであろうに。私はパフェを食べながら、「私はこの10年ほど何してたって言えばいいんだろう?」と、誰にも求められていない回答に思いを巡らせていた。

2008年に結婚。そこで私のライフイベントは途絶えた。徐々に体調を崩し、2009年末に本格的に発症。ありとあらゆる乗り物に乗れなくなり、一日中、寝ても覚めても発作の恐怖に怯え続けていた。膝をかかえてバンクーバーオリンピックを観ながら、真央ちゃんと一緒に泣いていた。

比較的短期間で急性期は終わったが、その後には長い長い停滞期が待っていた。ロンドンオリンピックの頃には少しずつ新幹線や飛行機にも乗り、事務のパートにも出ていたが、日々の体調は悪く、いつも恐怖と隣り合わせだった。家から出て駅に向かおうとしても、ひどい動悸やめまいに襲われ、行くも戻るもできなくなることはしょっちゅう。月単位で実家に戻り療養することも何回かあった。もちろん、日々の家事も立ち行かなかった。

通院やカウンセリングはもちろんのこと、呼吸法、マインドフルネス瞑想、タッピング、ヨガ、EMDR、ありとあらゆる治療を試みた。保険適応外の治療で毎月何万円も飛んで行った。いろんな治療法に賭けては、どれかひとつが劇的に効くなんてことはないことを思い知り、うちのめされた(どれかに賭けたいならヨガがいいと思います)。その間、友人たちは、仕事をしたり、結婚して出産したりしていた。かつての仲間には、店を始める人、本を出版する人が何人もいた。

公私どちらの知人も、社会や家庭に貢献し、人生の次のコーナーを曲がっていた30代半ば、私は、自分の心と体のことしか考えられなかった。毎朝毎晩呼吸法とヨガを行い、セロトニンを出すためにウォーキングをし、1日20分の瞑想を心がけていた。カフェインは絶った。湘南エリアの人間関係は、「私は○○をしている人間です」という言葉から繋がるようなところがある。私はとっくに編集者でも物書きでもなくなっていた。何の作品も作っていなかったし、何にも参加していなかった。職業選択の自由などあるはずもなかった。

その間、東日本大震災が起こり、東京が薄暗くなった。その1カ月後には、師匠であった永井宏さんが亡くなった。子を持つことを諦めた私たち夫婦は猫を飼いはじめ、わずか4年半後に看取った。慕っていた画家のやまぐちめぐみさんも亡くなった。今後もまともに電車通勤できないことを考え、1年ほど勉強をして医療事務の資格を取り、少し病院で働いたが辞めた。ほかにも何か身に付けたいと思い、文化服装学院の通信教育を受け、4年かけて修了した。いろいろあって夫が二度転職することになり、度重なる海外出張の留守番に慣れなければいけないことになった。

ささやかなことで言えばラーメンズにはまり、全作品を網羅した。Twitterがなくてはならないツールになったのもこの期間だ。キリンジが解散した。ただずっと泣いて過ごしていたわけでもなかった。

夫の度重なる不在の合間に猫を看取ったことが、皮肉にも私を強くした。リオデジャネイロオリンピックの頃には、私の体調は格段によくなり、アルバイトも無遅刻無欠勤になった。ホルター心電図をぶらさげていた自分はどこへ行ったのか、動悸に悩まされることもほとんどなくなった。帰省することも大幅に減った。両親は年老いて、大病はしないものの、もう頼れないと思うようになった。こうして東横線の急行と東海道線に飛び乗って鎌倉と藤沢を江ノ電で行ったり来たりできるまでになった。

不安が減れば体調が良くなり、体調が良くなれば不安が減った。おそらく、呼吸法やヨガ、瞑想など欲張っていくつも手を出した習慣が、どれひとつものにならなくても、それらを少しずつでも行うことによって、いくつもある歯車がわずかに動いたのだと思う。

2018年、41歳の私はwebメディアのライティングと校正のアルバイトに落ち着いている。自宅ではちょくちょく服を作っている。でも、何にもなっていないし何を目指しているでもない。今も通勤ラッシュの地下鉄には乗れないし、スカイツリーの展望台や六本木ヒルズ森美術館には行けないし、国外にも出ていない。

閉所恐怖症がなくなる日が来るのかどうか、私にはわからない。おそらく、そんな日は来ないような気がしている。もう40歳をすぎてしまった。もう半分生きた。堀込高樹じゃないけど、時間がない。そんなことを追求している暇があったら、今できることをやるしかない。そして、そのためには、何も目指さないことが、一番良いように思っている。40歳を過ぎて、いくつものことを自然に諦められるようになった。ふつうの人より電車に乗るのがしんどくても仕方ないと受け入れること。たどりついたのは、持病と制限のある人生、そのままで残りの人生を生きることと、「すべては自分の責任である」と認めることだった。

店も、さざ波のように形を変える。開業25年を迎えようとするディモンシュも、パリっぽかった時期もあればブラジルっぽかった時期もある。3店舗あった時期もある。マスターが長髪だった時期もある。アルバイトにある程度店を任せていたであろう時期もある。そして今はマスターが常駐してカウンター内でいつもコーヒーをハンドドリップしている。それどころか、なんと自身でコーヒー豆の焙煎まで行うようになっていた。客である私たちは、その変貌を勝手にある程度知っている。喫茶店のマスターという人は、勝手に知らない人から知られる立場で、大変だ。アイドルみたいなものかもしれない。

客たちも、ある時期ひんぱんにやってきて、しばらく来なくなったと思ったら、今度は子連れで戻って来たりする。

この例はわかりやすくて美しい帰着で、アイドルの追っかけに忙しくなってしばらく来なくなる人もいるし、社会派になりすぎてそちらの活動が忙しくて来なくなる人もいるし、私のように体調を崩してなかなか来れなくなる人もいる。なんとなく自分の生き方が恥ずかしくて、おしゃれな場所にはもう出入りできないと思っている人もいるだろう。

「いやあ、パニック障害になりましてね、それがきっかけにヨガマスターになり人生変わりました!」とでも言えたら簡単なのだろうが、そんなにシンプルに人生は帰結しない。8年もあればヨガマスターにでもなれたであろうしヨガマスターになれば完全に治ったかもしれないが私はヨガマスターになりたかったわけではない。何よりこの、生来のつっこみ体質がそれを許さない。

(ヨガのイントラクターレベルになればパニック障害、パニック症は治ると思います。一番の確実な近道だと思うので抵抗のない人にはお勧めします)

マスターは、ヨガではなく喫茶店のマスターのなのだが、久しぶりに来た客に対して、つっこんだ話はしない。10年単位で来店しなかった客には、明確か不明確かは別として何かしらの都合があり、そもそも人には事情というものがあるはずで、その話を客がいちいち語りだしたら大変である(たぶん語ってしまう客もいるだろうと思う。大変だ)。客である私たちは、喫茶店のマスターにそんな話をすべきではない。人には事情があることなど、きっと喫茶店のマスターたるもの、わかっているはずなのだから。

だから私たちが伝えるべきは、店が続いていることへの感謝とねぎらいと、美味しかったという言葉だけなのだろう。あと、堀内マスターに関しては、「ラジオ聴いてます!」と。

のりおり。のりおり。これからも。

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