超かんたんにわかる、ニーチェの思想
超かんたんにわかる、ニーチェの思想
・目標
中高大生の社会のレポートに役立ててもらうのを目標に説明する。
・最近の風潮
昔の聖書文化圏では全ての物事の存在の根拠は神だった。
近代ヨーロッパでもそうだ。
19世紀に自然科学が発展してもこの考え方は常に念頭に置かれてきた。
神を信じる、信じない、不可知論者である遺憾にかかわらずだ。
近代哲学、モダニズムの開祖はデカルトだ。
座標幾何学や物心二元論、要素還元的方法論を創始した。
「我考える、故に我あり」で有名だ。
これは独我論で独善的で傲慢にも見える。
しかしそのデカルトでさえ自分の哲学を保証するのを神とした。
現代の我々は神が存在するかどうかは最初に考える事ではない。
むしろ目の前の石ころの存在の有無を考える。
神の存在はそれとは完全に独立な問題だ。
しかし昔はそうではなかった。
神が石ころを想像したから石ころが存在するのが前提だった。
神の存在が第一の前提だったのでまずは神の実在から考える事になる。
・神様は大事
時代や地域によっては神様が存在するかどうかが全ての基本だ。
聖書文化圏が代表だ。
旧約聖書を信じる人々だ。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教となる。
旧約聖書+新約聖書+αがキリスト教だ。
αは聖書に入れられるかどうか迷って入らなかった文書だ。
聖典に対して外典、典外典などという。
アポクリファと聞くと映画かゲームか何かで聞いたことがあるかもしれない。
カトリックとプロテスタントでも違うしプロテスタントの各派でも正典の構成は違うかもしれない。
旧約聖書+ミシュナ+βがユダヤ教だ。
旧約聖書の構成もキリスト教各派で違うようにユダヤ教とキリスト教では異なる。
ユダヤ教では排他的になっていた時期があってヘブライ語で書かれていない文書は聖書に編纂されなかった。
聖書時代でさえユダヤ人の日常語はヘブライ語ではなかったりしたのでヘブライ語以外で書かれた重要な文献が正典から抜けてしまう。
しかもキリスト教の正典よりユダヤ教の正典編纂の方が後の時代だ。
旧約聖書+コーラン+γがイスラム教だ。
コーランは最近はクアルーンに変わってる。
・モーセ五書
旧約聖書の最初の5つが大切だ。
モーセ五書という。
旧約聖書の構成が何であれ最初の5つは重視されてきた。
これしか聖書と認めない教団もある。
サマリア教団と言いイスラエルに昔は数百人いたと思うが今はどうなっているのか分からない。
ディアスポラの後もイスラエルに住み続けた人の一部で新興宗教ではない。
彼らの考え方では彼らのモーセ5書を奪って作られたのが現在の聖書とかいう話だった。
是非はともかく聖書はバビロン捕囚の前の申命典革命とも言われるイベントで書き直されている。
これに屈しない人々や宗派もあったかもしれない。
モーセ五書の筆頭の創成期が世界の成り立ちだ。
これを信じなければ聖書を信じているとは言えない。
宗教の1つの意味は世界の説明体系だ。
創成期には神が世界をどうやって作ったのかが書かれている。
神がどういう風に生まれ方は書かれていない。
だから聖書に書かれていない所で神がどう生まれたのか、神を作った誰かがいたのかという議論があってもいいがそれはタブーだったようだ。
神は最初からいた、あるいは最初というものはなく神は永遠にいるのである。
そして世界を作った。
・神がいなければ全てがなくてもいい
神はその機能上全てを作った。
全てをなくせる。
神が全ての物事の実在の根拠だ。
だから神がいなければ全ての物事の実在の根拠がなくなる。
これは昔から普通に論理的に導いてきたものだ。
今の論理学とは違うものだが。
・言論の自由と開かれた議論
流石に時代が下って近代が進むと神はいないかもしれないという考え方が考えられ始める。
みんな何となく神はいないのではないかと考え始める。
科学が発達すると聖書も迷信のように見えてくる。
神はいないと公言しても不利益を被り憎い時代に変わった。
かつ聖書の世界の始まりや成り立ちの説明がリアリティが弱くなる。
ニュートンは古代から異端とされたイエスを人間とするアリウス派の考え方を持っていたらしい。
神がいる、いない、あるいは神を知ることが出来る、出来ないということが議論できるような時代になってきていた。
哲学の存在論や認識論はそういう神のいる土壌にあっては神の実在の議論に還元される。
・神は死んだ
ニーチェは当時の心理主義や精神力動的な観点から考えた。
結局神がいるかいないかという議論に意味はない。
神を知りえるか知りえないかという議論にも意味がない。
むしろなぜ人間が神の有無や可知不可知を問題にするかが問題だ。
問題にしなければ問題にならないことは多い。
興味の反対は無関心だ。
なぜ神の有無や知りえるかどうかを気にしてしまうのか。
これは実存主義的な考え方でもある。
それが何かよりはなぜを問題にする。
結論としては人間は神を維持する精神力動があったのだ。
あるいはもしかしたら人間が神を作り出したのかもしれない。
しかし作り出したり維持し続けるには理由があるはずだ。
ニーチェは神を維持する理由がない時代になったと宣言した。
神がいようがいまいがどうでもいい。
また神の存在を知り得ようが知りえまいがどうでもいいという認識に至った。
どうでもいいから神がいなかったではなく死んだと表現した。
興味関心がある人にとっては生きていると言える。
ない人には死んだも同然だ。
ニーチェのみならずこれからの社会にも人間にも神の有無や可知不可知はどうでもいいので神を無視していい時代になるし人類はそうなると言ったのがニーチェだ。
これは同時に次のことを意味する。
神と同様に全ての物事の実在はどうでもいいということだ。
本当に存在するかどうかなんてどうでもいい。
また全ての物事が存在するかどうかを知りえるか、存在したとして正確に認識できるかどうかもどうでもいいということを意味する。
これは哲学の認識論と存在論に通じる。
・最大の問題
上記の認識に至り更にニーチェは考えを進める。
なぜ人間は神を作ったりそれを維持してきたのかというものだ。
神は聖書の一部の登場人物のように実際に自分自身で神に出会ったり感じた人にとっては神が存在するかもしれないと気が付くこと、発見することが出来る。
そして神を信じることになるのも自然だ。
ただそれ以外の人にとっては神というものが存在するという認識に至るのは自明ではない。
唯一神教などいない文化圏も多い。
聖書時代のユダヤ人もその大部分は現在の唯一神教の考え方など持っていなかったというのが今の研究の成果だ。
ユダヤ人ですら、聖書時代を通じて唯一神教という考え方はもっていない。
それは徐々に思想が変化し新概念を変化させて生じたものだ。
多神教の地域があれば、怪力乱神を語らないカントが誤解した中国のような神が不在の道徳で成り立つ国家があるかもしれない。
宗教にも神は必須ではない。
アニミズムもシャーマニズムもトーテミズムもある。
まずは唯一神がいるという考え方自体が数学的な意味で特殊な1文化圏の考え方に過ぎない。
であれば何でそんなものを作ったのかが問題になる。
・神の学習
神という概念は自分で気づいたり発見や発明したものでなければ学習したものになる。
まねしたともいえるがまねも簡単ではない場合も多い。
そもそも関心がなかったり納得できない場合もある。
理解できても反発する場合もある。
戦国時代の日本人のキリスト教に対する反応の一部にそれが見られる。
・なぜが問題
特殊な一部を除いては神を自分で気づくことはない。
まねするにも社会や文化から生活の環境、外部要因、文脈コンテクストを神が納得しやすいものに作る必要がある。
殆どの人が神を学習するのだが問題はなぜそうまでして神を学習するかにある。
どういう力が人に神を学習させるのか。
これは神を作った場合にも当てはまる。
なぜ神を作ったのか。
どういう精神的な力学、欲求が神を作るように心を動かしたのか。
そしていったん学習した神を人間はなぜ維持するのか。
これは何か維持しようとするものがある可能性がある。
そういう力が働くのだ。
心の中の力だけではない。
周囲の人々が神を維持させるように強制する場合がある。
共同体や国の場合もある。
そうなると権力だ。
こういった神を学習し、信仰を維持させる内的、外的要因を力や権力という。
ニーチェは力への意志、権力への意志と呼んでいる。
どちらかというとニーチェ理解の文脈では内的な心理的要因を挙げられている物が多い気がするが当然内外を分ける理由はない。
・いないのではなく死んだの意味
存在すると人間が認識する者は人間の頭の中で作ることが出来る。
これがニーチェの哲学だ。
人間は自分の見たいものだけを見る。
力や権力が欲求や欲望の場合もある。
「神というものが存在してほしい」という心が神を作り信じる=維持し続けた。
だからニーチェは「神はいない」とは言っていない。
「神は死んだ」と言っている。
死ぬ前は神は生きていたのだ。
生きていたのであれば生まれたのかもしれない。
生まれることなく最初から存在していた可能性もあるが。
神が死んだということは神を維持させる力がなくなったということだ。
あるいは神が維持させない力が働くようになったということだ。
最初っから神はいなかったや神はどこかで作られたのかもしれない。
しかしそういうことはなぜをとう実存哲学では問題にしない。
問題にしないのに新しい存在論や認識論を作ってしまった。
神に限らず全ての事物は人間が作って維持させているだけかもしれない。
そしてそうする力が知らない間に働いているのかもしれない。
力が働かず神を見つけて信じる人は特殊だ。
神がその人の前に現前し、リアリティや存在感、実在感、臨在観を与えた結果認識され記憶に刻まれた場合だ。
ただ人間はテレパシーを使えるわけではないのでそれは人に伝えられない。
実証や論証はできない。
何となく学習させ信じ込ませることは可能だ。
・超人、ニヒリスト
何かの実在が保証されないことをニーチェはニヒリズムと呼んだ。
そしてそういう考え方の人をニヒリストと言った。
ニヒリストがどう生きるかはいろいろだ。
ポジティブなニヒリスト、ネガティブなニヒリスト、何でもありうる。
ポジティブなニヒリストをニーチェは超人と呼んだ。
まずそうした人にはニーチェの悟ったことの理解がある。
これは仏教の悟りと共通するのでニーチェはその時代、あるいはニーチェ自体が影響を受けた仏教のお釈迦様などを念頭に置いている。
そして力をうまくコントロールすれば人間は心の中にいろいろなものを作ることが出来る。
そういうものをよりよく生きるのに使うのが超人だ。
・永劫回帰
ネオプラトニズムというルネサンス期の思想がある。
内容はともかく今一瞬を全力で生きよというものだ。
一瞬は永遠というものでもある。
我々が生きる時今この一瞬が永遠に繰り返される、あるいはその瞬間で凍結されてそれを永遠に体験しないといけないとするならば人間はその一瞬をどう生きようとするだろうか。
よりよく生きようとするはずだ。
もし時間が繰り返されるもので人間がそれを認識でき記憶できるなら人間はよりよく生きようとするはずだ。
この考え方を永劫回帰という。
・ルサンチマン
人間は自分を正当化するように自分や世界を変えようとする。
何か気に入らないものがあるならそれを否定するように理屈を作る。
自分がよくない状況にあるのであればそれを自分のせいにするのではなく外部要因、人や社会の性にしようとする。
このような自分に都合よく考えようとする人間の欲求の中で情けないというかみっともないというか好ましく感じられないようなものをニーチェはルサンチマンと呼んだ。
恨みつらみや嫉妬などだ。
ニーチェはそういう人間の弱さを自覚しつつ、それでもそういう弱い悪徳に負けずに立派に誇り高く尊敬されるような生き方が望ましいみたいな考え方を持っていた。
それが超人思想のもう一つの意味だ。
・正統派哲学者
ニーチェは存在論や認識論に刷新を起こした。
それとともに哲学から分離しようとしていたethicsや道徳についても影響力のあるビジョンを提供している。
上の超人思想だ。
ニヒリストでありかつ悪徳に負けず、よりよく生きるための生産性を発揮する生き方だ。
真善美の判断力については特別な点は知らないがニーチェは若いころは熱狂的なワーグナー信者であった。
天才なせいか若くして死んでしまった。
1899年で20世紀を見ていない。
現在流行中の梅毒で死んだ。
梅毒は新大陸から持ち込まれてからパンデミック化し、人類の色々な面に多大な影響を与えた。
人類が梅毒のパンデミックを起こしたということはどんな禁欲的な社会にせよ人類が複数の別の人と性交渉を行ってきたという証拠でもある。
例えばプロテスタントの禁欲的傾向は梅毒の影響かもしれないのだ。
パンデミックと言っても梅毒は性交渉でしか感染しない。
しかも急性期で死ぬことはない。
持続感染症だ。
死ぬまでに10年以上の時間がかかる。
梅毒は時間をかけて精神病を起こす。
3期梅毒、脳梅毒は19世紀の精神科病院ではNo.1の患者数だった。
普通神を感じることはない。
しかし普通でないというと語弊があるが精神病は神を感じることがある疾患だ。
精神病はリアリティに異常を起こす。
実在感に異常を起こす疾患だ。
感じるはずのものを感じなかったり感じないはずのものを感じたりする。
牧師の息子であるニーチェは学習によっては感じなかった神を梅毒によって感じたのかもしれない。
それが皮肉にも神の死を発見させたのかもしれない。
ユダヤ教も初期にはモーセやエリヤなどのように神を感じる人がいてそれが宗教の成立に影響を与えたと思われる。
人間は神を感じることが出来る。
少なくともその能力があると思われる。
神の知覚体験は人類の思想に影響を与えたのかもしれない。
現代哲学を広める会という活動をしています。 現代数学を広める会という活動をしています。 仏教を広める会という活動をしています。 ご拝読ありがとうございます。