かんたんな空と哲学の発展史について

かんたんな空と哲学の発展史について

・空の理論は意外とかんたん

 大乗仏教の空の理論は難しいと思っていた。

 私が仏教を勉強し始めたのは15歳の時だ。

 高校1年の社会科でクラス全員が各々が別々の思想家を発表することになった。

 その時私は釈迦の発表をすることになった。

 そこで岩波文庫のベックという人の本を読んで勉強して発表した。

 発表後先生が怪訝な顔をして「何の本で勉強したの?」と聞かれたことを覚えている。

 ベックは19世紀のドイツ人でその後神智学に進んだ人だ。

 彼の仏教理解は南伝仏教に基づいていた。

 南伝仏教は簡単に言えば超人思想だ。

 悟りを開くことによって人間を超越した存在になり輪廻転生の輪から抜け出すというものだ。

 神秘主義と言える。

 仏教の流れは2つ。

 南伝仏教と北伝仏教がある。

 スリランカ、タイなどの仏教は南伝仏教だ。

 北伝仏教はチベット、モンゴル、ブータン、日本などで見られる。

 北伝仏教は哲学だ。

 少なくともその中心となる龍樹ナーガールジュナの空や中観の考え方は哲学だ。

 北伝仏教にも神秘主義の考え方がいろんな宗派で生まれている。

 しかし中心は空論と中観論で哲学だ。

 つまり人間を超越する存在になることはない。

 人間のままで学習して理解する。

 理解することが悟りとなる。

 多分先生は私がオカルトにはまったと思ったのではないか。

・空と構造主義

 私は本が好きだった。

 というか活字中毒だった。

 母が小学校4年の頃から本ばかり読んでいて変な子だったと言っていた。

 中高くらいから哲学、宗教、思想などを含む倫理学全般にはまることになる。

 高校でベックの仏教の本を読んだとき、十二因縁生起が分からなかった。

 30歳前半まで分からなかった。

 分からないがずっと考え続けてきた。

 分かった気になったのはラカンの理論を精神病理学で勉強してからだ。

 ラカンのシェーマLとお釈迦さまの十二因縁生起にきれいな対応つくと思った。

 実際にはきれいな対応はつかないのかもしれない。

 対応はつかないどころかまったくかすりもしていないのかもしれない。

 しかし分かった気になったのは大きかった。

 シェーマL、ラカンの構造主義的精神分析を哲学の存在論や認識論に適用すれば空の理論は理解できる筋道となると思った。

 というわけで空を説明する時に構造主義の説明から入るのが習慣になってしまった。

 構造主義の説明は難しいと思っていた。

 私は構造主義の理解が現代数学の理解から入っている。

 構造主義を説明するのに現代数学の例を使う癖がついてしまった。

 とすると空を説明するのに現代数学の説明から入るようなことになる。

 これはとっつきにくいにちがいない。

・空の理解に構造主義はいるのか

 空や構造主義、あるいは現代数学の基礎論の普及は私のライフワークだ。

 それらは突き詰めれば同じものだと思うが空を理解するのに構造主義はいらないのではないかとふと思った。

 また構造主義のラカンや哲学の適用も意外と簡単な説明でつくのではと思うようになってきた。

 別にラカンでなくてもラカンよりもっと昔のクライン派のメラニー・クラインの理論を緩用すれば十分ではないか。

 空の理解もプラトンなどのギリシア哲学やドイツ観念論の簡単な理解で十分な気がする。

 初等教育で学ぶことは高等教育を学んだうえで学び直すと殆ど嘘つきに見えることがある。

 ただその嘘が大切だ。

 子供の頭で初等教育をスルーして一気に高等教育内容を学ばせることはできないか危険だ。

 私は大学を2回出ている。

 2回目の大学で痛感したのは高校レベルの数学や理科の習得が十分でないと大学の教養課程の数学や理科は十分に理解できないということだ。

 大学の教養レベルの数学や理科が分からないと医学部の基礎教科である生理学や生化学は分からない。

 医学部の基礎教科の習得が十分でないと医学部の臨床教科の習得も不十分なものになる。

 ということで医学部の基礎課程の教授や研究者が医学部出身者がいなくなる。

 あるいはファンクショナルMRIや大脳生理学で世界トップの活躍をする医学部出身の学者は東大などが中心となることになる。

 東大医学部出身者は高校レベルの数学や物理、化学などの習得度が高いからだ。

 しかし臨床医になるのに東大医学部を出ている必要はない。

 臨床医にはそこまでの基礎学力はおそらく必要ない。

 悲しい言葉だが医学部を卒業して10年経てばみな一緒という言葉がある。

 よく見ると全然一緒ではない。

 現前たる差はある。

 しかし医者に限らないと思うがどの職業もミスも問題も多いがミスも問題も問題としなければ問題とならないし、不思議なことに何となく形になってトラブルにならずにまとまることが多い。

 世の中は何となくのふわっとした感じで成り立っている部分が多いことはそこそこの社会人経験を経たことがあるものであれば分かるのではないか。

 勿論そうでない世界もある。

 ファンクショナルMRIでノーベル賞候補だった中田先生が講演でアメリカに行くまで自分の師匠の他に自分より賢い人間がいるとは思わなかったと言っていた。

 多分師匠は脳研究の伊藤先生だと思う。

 アメリカに行ったら自分より賢いのがごろごろいて驚いたそうだ。

 私は東大医学部で同期から頭の質が違うと言われたほど頭がいい人を2人知っているがどちらも普通に臨床医をしている。

 臨床医として普通でない成功をしていたりはするが。

 空の理論もその様なものではないかと思うようになったので分かり易く説明する。

・空想

 我々は頭の中で空想や想像をする。

 せっかく空という言葉がついているのだから空想をするとしよう。

 空想するのは現実にはないことだ。

 知覚で捉えたことがないものということが出来る。

 抽象概念などがそれにあたる。

 物質的なものは感覚器で近くする場合がある。

 知覚しながら脳に思い浮かんでいる場合は空想とは言わない。

 しかし対象と感覚遮断してそれを思い浮かべる時には対象のイメージは脳の中にあるだけだ。

 目をつぶって開けてみれば実は目をつぶっている間に対象は消滅してしまっているかもしれない。

 場合によっては知覚しているとは言っても幻覚の場合がある。

 この場合は対象が存在していないのに脳の中では知覚感とイメージがある。

 錯覚している場合もある。

 錯覚は対象自体は存在しているがありのままに捉えられていない。

 知覚か情報処理かどちらかを失敗して現実とは違う像を頭の中で作っている。

 幻覚と錯覚を合わせて盲覚という。

 我々の頭の頭の中の象は現実対象と同じ保証はないし、そもそも対照なんて存在しないかもしれない、というのがギリシアの昔からの考え方だ。

 そもそも歴史時代より前から文献が残っていないだけで人は上のようなことを考え続けてきたのではないか。

 そのようなことを前提で対象は実在するというのが常識である。

 これは物質の場合だ。

 物の場合と言っていい。

 知覚できるものは存在するのだ。

 これを物と呼ぼう。

 抽象概念は必ずしもそうではない。

 何かを知覚した結果でなくても抽象概念は頭にある。

 これを事と呼ぼう。

 ①物と事は両方実在するという考え方がある。

 ②物は実在するが事は実在しないという考え方がある。

 ③物も事も療法実在しないという考え方がある。

 ④物は実在せず事は実在するという考え方がある。

 普通に考えるとこの4通りがある。

 ①から④の順番で支持率が高そうだ。

 ④の主張は見かけたことがない。

 ④は可能性として存在してもそう思っている人はいないのだろう。

 ①と②は順位が拮抗していそうだ。

 ③は日常生活で主張すると変人と思われそうだ。

 この変人と思われそうな③が空論だ。

 空理空論の空論ではなく空の理論という意味での空論だ。

 ③は同時に観念論として見てもよい。

 だから単純で初めの議論では空論=観念論と考えてもいいと思う。

 少なくとも初等的理解ではこれで十分なはずだ。

 これなら構造主義など持ち込む必要もない。

 構造主義が必要になるのはなぜ存在しないものを存在すると感じるかの説明の段階でだ。

 これも観念論でも仮説はある。

 ドイツ観念論ではフィヒテ、シェリング、ヘーゲルとそれぞれの仮説を展開、継承、発展させている。

 宋学以降の儒学でも陽明学などの観念論はあるが観念や抽象概念の生成方式についての精密な議論はない。

 西洋哲学は精密ではあるが精密だから正しいというものでもない。

 これは構造主義も同じだ。

 問題は説得力にある。

 あるいはより高次な理論を展開するためのステップとしての役割を果たせるかにある。

 構造主義的な存在論も認識論も論理的、あるいは科学的に言えばただの仮説にすぎないがポスト構造主義に至るきっかけとなった。

 これは仏教もそうで空論が中観論のきっかけになった。

 空の発見はお釈迦様かもしれないがややはっきりしない面を鑑みると確実なのは龍樹ナーガールジュナになる。

 ただ龍樹の流派は空派とは言わず中観派という。

 龍樹が構造主義的な空の理解をしたのか分からない。

 龍樹の後に世親などの瑜伽行唯識派が出てなぜ空が生じるか、あるいはリアリティが脳に生じるかを研究することになる。

 ということは龍樹は構造主義には至らなかったのかもしれない。

 逆に構造主義がなくても空の理解には十分と言えるかもしれない。

 そもそも構造主義を理解しなくてもポスト構造主義は理解できる。

 ただ構造主義がないとなぜポスト構造主義のような理論が出てくるのか、必要なのかが分からないだけだ。

・抽象概念の作られ方

 これについての近代西洋哲学ではイギリス経験論と大陸合理論にさかのぼる。
 
 つまり近代西洋哲学の最初からの問題だ。

 中世の普遍論争の唯名論と実在論の論争は省く。

 合理論はシンプルで精神の中に元からそのような機構が存在するという考え方だ。

 イギリス経験論はそうでなく経験によって形成されると主張するが具体的な形成方法の説明が弱い、あるいはない。

 抽象概念の作られ方にはモデルが必要だ。

 ざっと見ると①十二因縁生起モデル、②ヘーゲル弁証法モデル、③構造主義的精神分析モデル、④現代数学モデル、がある。

 どれも抽象概念の作り方の具体的な方法だ。

 ⑴モデル自身が意味がある場合と、⑵モデルが出来たことで次の展開に飛躍できた、というモデルの2通りの有用性がある。

①③は中やポスト構造主義を生んだという意味で⑵の意義があった。

 ②③はマルクス主義国家を作ったのとコンピュータを作ったという⑴の意味があった。

 モデルはモデルに過ぎない点がポイントだ。

 それ自体が本当とか嘘だとかではなく何らかの役に立ったかがポイントだ。

 役に立たないモデルならいくらでも作れるのだから。

 物事どんな理屈でも発想力や想像力があれば作れる。

 実用に供するか、供してよかったかは別の問題だ。

 そういう意味では①②はインド哲学や西洋近代哲学を完成させ終焉させる役に立った。

 ②は共産主義諸国とコンピュータを作った。

 ヘーゲルは哲学を終焉させるきっかけにはならなかった。

 ポスト構造主義や中観のような考え方に発展しなかったからだ。

 現代数学はいくらでも公理的体系は作れるしノイマン型でないコンピュータもいくらでも作れるだろう。

 まだまだ発展性があるし必要であればいろいろな産業や社会工学で使われるだろう。

 十二因縁生起はあまり意味はない。

 本当に一つの仮説だ。

 構造主義的精神分析は心理士や医師が使う場合があるかもしれない。

 患者さんの心理の説明や了解、治療に使う場合もあるかもしれないが実は精神分析自体が斜陽であるし、精神病理的なエッセンスは多くの部分抽出されているようでもありかつ精神病理学も新しい障害概念が出てきたとき以外にはやりつくされた感があり斜陽でもある。

 精神分析学会と精神病理学会は過疎化を解消するために合併している。

・簡単な哲学史

 そもそも哲学史は哲学の限界を設定する試みであったともいえる。

 哲学はいつもその時代の最先端には至っているようだが邪魔するものがいて発展度に制限がかかってきた。

 そのためかいつも同じことを繰り返しているように見える。

 ギリシア時代には知識水準の限界があった。

 暗黒の中世はキリスト教が邪魔をした。

 近代哲学もやはり神から離れられなかった。

歴史は繰り返し、進もうとすると邪魔が入る。

ブレーク・スルーは一つは現象学だ。

哲学が立ち入る範囲は精神現象だけという線引きを行った。

一種の限界設定だ。

この線引きは実存主義も協力していると思う。

またニーチェが神の死を哲学化した。

これで今までどうしても組み込まざるを得ず哲学の発展に邪魔者だった神を哲学から外すのに成功した。

 そのおかげで構造主義を哲学に持ち込んだときに実在論と対置し相対化するためのポスト構造主義の発展に成功した。

・終わりの哲学、人間、歴史、近代の終わり

 とかく環境や背景要因を考慮しなくてもよければ理論や体系、思想というものは非常にシンプルなものになると思うのだが、長らくそうはいかなかった。

 20世紀も半ばを過ぎてようやく条件が整い、背景や環境に忖度しなくてもよかった。

 するとシンプルな結論を出すことができる。

 それがポスト構造主義だ。

 この時期は「人間の終わり」「歴史の終わり」「近代の終わり」などの終わりブームだった。

 そういう意味ではポスト構造主義は「哲学の終わり」を宣言するものだった。

 何か変な先入観や偏見もなくなったし、無意識的にも意識的にも自由な思考を邪魔するものがなくなった。

 すると中観やポスト構造主義のような最もシンプルな思想が承認される。

 そして今後何かの邪魔が入らなければそれが続いていく。

 学問には自由があるので哲学も仏教教学も終わった学問であり応用以上の発展は望めないし、ただ学習するだけのもので言語や数学と同じリベラルアーツと見てよい。

 現代思想という広い見方をするとやはり今後もいろんなことを取り込んで考えていくので混乱したり変化したりしていくかもしれないし現にそうだ。

・ポスト構造主義とメタ認知

 ポストは「~の後に」の意味だ。

 Metaは属格支配では「~といっしょに」、対格支配では時空間についての「~の後に」という意味の前置詞になる。

 アリストテレスがmetaphysicsとつけた時もこの両者か片方の意味だっただろう。

 ということはphysicsと上下関係を設けなかったかもしれない。

 その方が正解だったと思う。

 精神的なものを上に置きたい精神主義的な人間の心情か、キリスト教の影響か分からないが形而上学を形而下学の上に置くという意識のためmetaは「上の」「高次の」「超えた」の意味になってしまったようだ。

 単にphysicsと一緒にでもよかったしphysicsの後にでもよかった。

 メタ認知もメタのつかないただの認知と上下関係をつけるよりは「認知と一緒の別の」や「認知の後の認知」にした方がよかったかもしれない。

 他方でポスト構造主義は「構造主義の後の」の意味で捉えられるがむしろ上のようないろんな意味を含ませてメタ構造主義と呼んでもよかったかもしれない。

 アリストテレスの有名な学問はデュナモスとエネルゲイア、質量と形相というように全て現在で言う自然科学だ。

 どれも現在の自然科学の言葉になっていることからも分かる。

 要するに形而下学だ。

 特に物理学だ。

 上はアリストテレスの物理学の仮説と言える。

 その点プラトンのイデア論のように観念論、形而上学ではない。

・空のシンプルな解釈

 要するに空は観念論や唯脳論的な事物の捉え方と同じものだ。

 それだけでよくて、構造主義も十二因縁生起も縁起も必要ない。

 ただ空を生じるメカニズムの仮説にすぎず別の仮説であってもよい。

 哲学には、あるいは哲学以外の学問にも仮説やモデルはたくさんあるがそれ以上の意味はない。

 別の仮説やモデルでもよかったがその時代やその学者にはそれがあっていたのかもしれない。

その点で現在ではどれも研究するなら学問の歴史研究の範囲で扱われる程度のものだ。

現在は人類史上最も哲学や科学を邪魔するものがないので理論的は純粋な理論が認められる。

そういうものは単純でオッカムのカミソリでそぎ落とすようなものもなく付け足すものもない。

だから哲学は現代哲学をもって終焉している。

現代哲学を広める会という活動をしています。 現代数学を広める会という活動をしています。 仏教を広める会という活動をしています。 ご拝読ありがとうございます。