我が戦争


ウクライナ人民共和国はロシアからの侵略を受け第二次世界大戦以来の対象戦争が始まった。
戦争というのはどんどん不気味に進化していく。
ジャングルの泥や砂漠の風が吹き荒れる戦場は過去の物となり、トレンドは無人偵察機と自走砲となった。
小銃を構えた兵士と小型のドローンが偵察しては敵の砲兵陣地や戦闘車両に無反動砲や間接射撃による榴弾が降り注ぐ。

この戦争で死んでいる両国の兵士は皆選択肢を奪われた人々だと思う。侵攻に対抗するため兵士となったウクライナ兵。職業の自由など存在せず、将来の展望なども持たない。目の前の敵兵を吹き飛ばして、戦線を押し返す事が最優先事項だ。
対するロシア兵はどうだろうか。愛国心から戦っている兵士も居るかもしれない。一方で金のために戦っている兵士も沢山居るはずだ。

日本人は言う。なんで兵士になったんだ。他の職でも良かった筈だ。プーチンに騙されている。努力しなかった自己責任だ。
これらの言葉は恐ろしい程に無責任だ。では彼らは勉強を学ぶ機会を与えられていたのか。その環境はあったのか。彼の適正は高等教育にあったのか。
戦争という選択肢しか残されていない兵士はどうすれば良いのか。自殺すれば良いのか。
 同じ事は現代の日本社会にも言える。私は自己責任という言葉が大嫌いだ。自己責任という言葉ほど無責任な言葉は無い。
人間は生まれ持った資質と環境によって形成されてその中で生き延びるしかないのだ。
何も努力せず周りのせいにして権利を声高に叫ぶ人間は弱者だ。
だが声高に叫び周囲を変えようと躍起になる姿は間違いなく努力そのものだ。
私たちが高校に進学する為に勉強する事となんら変わりはない。
その言葉は自己責任よりももっと強い覚悟の言葉だと思う。
私は弱音が好きだ。私は苦しんで発した言葉が好きだ。
戦争という命を奪い合う行為は恐ろしい。そして同じくらいに他者の命に無関心な平和も恐ろしい。
世の中は新自由主義社会だ。自分の将来は自分で考えて努力しなければならない。
そういう意味では逮捕されるリスクを負ってサラリーマンを襲った久保は正しい努力をしたのだろう。自己責任のもと6万円を手に入れたのだ。
また、ホストクラブで掛け金500万の客を風呂屋に沈めた金田も自らの仕事を全うしたと言える。
勿論赤坂でマダムを車に叩きつけてティファニーの腕輪を獲った新井も同様だ。

私は言うかもしれない。奪われた人々は「自己責任」だと。
そういう言葉なのだ。

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