見出し画像

Waltz for Debby〜2度目の発表会〜


 二度目のウクレレ教室発表会。

 今回の演奏曲は、『Waltz for Debby』(Bill Evans)。
 あまり上達感がない。というより、最後まで、練習でさえ間違えずに弾けたことがまだなかった。前日の、先生とのリハーサル兼ねた演奏でも、ひとつ間違えると、どこに戻って良いやら、楽譜上で迷子に。
 あまりよろしくない状態である。よろしくないどころか、前日の最後の練習のさいにも、先生からも、明日演奏会、参加どうしましょかと、なんとなく辞退を促すコメントが。。。これは、穏やかに、タオルがリングに投げ込まれている雰囲気。そう感じながらも、わたしは、投げ込まれた、そのタオルを素知らぬ顔で、ありがとうございますと手にとり汗を拭きながら、なぜか意固地に、やります。と私は宣言してしまう。先生も、ちょっと引き気味に、ガッツがありますねええ、はははと、苦笑。。。。普通、この状態だったら、次の演奏会まで磨き上げますと辞退するのが穏当な大人の判断かもしれない。自分でも、なんとかなるとも思わなかった。ただ、ここで投了するのはなんだか、今後のあらゆることに、一つづつ理由をつけて、尻込みするように感じ、いい年した大人が、恥をかくためにリングに、いや、奇跡がおきることを願って、ステージに上がった。

◆◆

 小学校の5年生のとき私は北海道のある街に住んでいた。屯田兵の幽霊がでるという噂があるくらい、木造の歴史のある古い校舎の小学校だった。卒業生を送るために、ブラスバンド部の助っ人としてトランペットを吹く男子を、学年から4人選ぶこととなった。全くのトランペット初心者でもOK。小学男子にとってトランペットは人気で、最初20人以上が手を上げた。しかし、ブラバンの顧問は、かなり癖のある先生で有名だった。色黒の男の音楽の先生で、昔の漫画に出てくるPTA教育ママがかけるような縁がトンがって釣り上がった黒い眼鏡をかけ、髪の毛が巻き毛で、口調が厳しい。諸々の噂をきいて、恐れをなし辞退する子もでて、結局6、7人までに絞られ、この先生が最後に残った、わたしをふくめた候補者から直接、選ぶことになって放課後に招集がかかった。
 呼び出された5、6人の生徒たちが、廊下に並べられ一人づつ順番に一歩前進させられる。何をされるかとビクビクしていた。戦争映画であれば、一歩進んでビンタというところ。でも、さすが昭和も後半、ビンタは飛ばなかった。その教師は、前に出た男子生徒に面と向かって、黙って、顎に親指をかけ、唇をちょっとだけ開かせる。放課後の静かな廊下で男子生徒の唇を一人一人検分するその様は、なんだか、少しばかり倒錯したエロチシズムを感じさせる。トランペットを吹くのにふさわしい唇の形というものがある。そんなことを教師はブツブツ言っていた。唇の形がその先生のお眼鏡にかかったのか、何がよかったのだか、厚くもなく、薄いとも言えない唇をもつ私を含め、3名が選ばれた。

 全くの初心者のわれわれ5年生、と4年生1人も混じって助っ人のトランペット部隊が即席で結成された。ブラバンの6年生が我々に吹き方を教えるという事だったが、6年生は、なぜだかあまり熱心に教えてくれる風もなく、放課後時間になると集まってダラダラしていた。1ヶ月経ってもようやくマウスピースを使ってラッパとしての音を出せるか出せないかという程度にしか我々は進んでいない。放課後、楽器ごとに別れ、それぞれの教室から、サックス、フルート隊の練習している音色が聞こえてくる。しかし、トランペットの教室からは、一向にメロディーらしきものが聞こえることはない。我々も少し不安を感じながらも時間だけは過ぎていく。もう卒業式まで1ヶ月もなかった時、そんな状態で、黒眼鏡の音楽教師からトランペット隊も参加して全体演奏をすることになった。我々ペット隊は、楽譜も何も読めず、覚えず、ブーとか、スーとか、くらいな音出を出すのに精一杯な状況で、とても全体演奏で音を合わせるどころの状態ではない。さすがに、まずいのだが、なにもできることがない。
 否応無しに全体演奏が始まる。縄跳びの輪にさそわれているのに、いつまでも、輪にはいれない。演奏が続くのを呆然と聴きながらトランペットは誰一人音を出せず固まっていた。黒眼鏡には、こうなることが、わかっていた。今まで何をやっていたのだと叱りつけられた。音楽室は水を打ったように静かになる。もう一度、演奏するから音をだせ、黒眼鏡の顧問は老眼鏡をずらしてギロっと下から見上げた目で我々にこういう。再度、演奏が始まるが、トランペットは、てんでバラバラで我々自身でも笑うくらいしかないメチャクチャな音を奏でていた。演奏が途中で止められる。さすがに黒眼鏡も呆れていた。しかしここで許してはもらえなかった。皆の前で一人づつ吹いてみろと、我々トランペット隊一人一人に命じる。当然、誰しも、メロディーなど一つも覚えていない。順番に指されるが、皆、マウスピースを口にすることなく、できませんと答え、下をむく。できません。できませんと。次から次へ。そして私の順番が来た、あの唇を検分した黒ぶち眼鏡ごしに、ギョロリと目がこちらを見下ろす。その時、自分がどういう気分だったのかわからないが、何故か、『やってみます』と言った。いや、言ってしまった。少しどよめきが起きた。どう考えても、メロディーが弾ける様ではないのは誰の目、いや耳か、、にも自明だ。恐れを知らない子供の過信。。。何か根拠なく、吹けるようなきもしたのかもしれない。たまたまTVで見たヒーローものに感化され、ヒロイックに勇気とかいう美しい言葉に酔っていたのかもしれない。黒眼鏡の教師の怒りに、静まりかえった音楽教室で、ブラバン部員含め30人の前で、私は覚えてもしないメロディーを頭に想像しながら一人トランペットを吹くことになった。

 音楽が始まった、しかし、だからと言って奇跡は、起こらなかった。やってみますと、言葉だけはよかったが、音はカスレ、音程を外し、メロディーなのか、雑音なのか、要は、聞くに堪えないラッパを皆の前で、披露した。まさにラッパを吹かす。。法螺をふく。。ってやつである。そして私自身も、同じように仲間と一緒に、演奏を終え結局下を向いて黙っていた。黒眼鏡は『やってみます』と言うところまではよかったが、全然練習が足りない。このままでは、トランペット隊は演奏させない。そう言って、全体練習から我々は外された。
 6年生も注意されたのだと思う。それからしばらく数週間しかなかったが彼らも戸惑いながらズブの初心者相手に、吹き方を教えてくれた。しかし、失われた時間が戻るわけでもない。多少は音程を取れるようにはなったが、期待されていたであろう高々と勇ましくメロディーを奏でるトランペットという役割には達することができなかった。黒眼鏡の音楽教師は、呆れながら楽譜に何度も赤ペンを入れ、メロディーはほとんどなくなり、最後は単音で伴奏のような演奏になった。子供心には、シンプルで、景気良くラッパを間に挟むのでちょっとばかり楽しくもなっていたが、音楽教師の立場的には苦肉の結果だったのだと思う。なんとか全体演奏についていけるようになり、お世話になった6年生をなんとか最後に無事送ることができた。
 卒業生を送り6年生になって、冬から春になり、その後も少し違う曲を数曲覚え、学校の行事のある時に駆り出され演奏したりした。北海道の冬は少しばかり長い。私は野球部に属していたが、まだグランドが雪に埋もれている間、たまにブラバンの掛け持ちをして手伝っていた。雪が溶け始めた頃、そのままブラスバンドを続けないかと誘われたが、野球の練習が忙しくなり、両立が難しくなってしまい、それ以来、私がトランペットを手にすることはなかった。同じトランペット隊の一人はキャッチャーだった。野球の知識も豊富でレギュラーも狙える実力を持っておりてっきり自分と同じように春になれば一緒に戻るのだろうと考えていたが、そのまま残ると言う。一緒に戻ろうと声をかけれども「僕はキャッチャーをやるには目が悪いんだ。。。」フライが上がった時マスクを外す度に、メガネが邪魔で、いつも負い目に感じていたらしい。そんなことを、言われるまで、全く気づかなかった。メガネを掛けた、色白の彼の唇はピンク色をしていて薄い、そんなことをぼんやり思っていた。その後私は、高校卒業するまで頭を坊主にして、いわゆる白球を追う青春とやらを続けることになる。今でも、あの時、自分も彼と同じようにトランペットを選択していたらその後どうなっていたかと思うことがある。

◆◆

 発表会の、自分の順番が回ってきた。席をたってマイクがセットされたステージの椅子に座る。シーンと静まり返った聴衆を前に、あの時と同じように『やってみます』と言ってしまい、どうにも引き返せなくなってしまった自分と、楽器だけがそこにあった。トランペットではなく今度はウクレを持って。
 『Waltz Waltz for Debby』。教室の先生が、この曲は、ビルエバンスの有名な人気曲であること、ジャズをウクレレで弾くのもなかなか大変、本当はピアノ、ドラム、ベース3人で弾くのを、一人でこなすのは大変難しい、でもそれにチャレンジしてこれから演奏をと。一応、前フォローを入れてくれた。そして最初のフレーズから演奏を始めた。出だしで、すぐでつまづく。すでに頭は真っ白になって指がおぼつかなく、優雅なメロディーが何度も寸断され、ミスタッチの連続に、不協和音に会場が包まれる。いつのまにスタンダードのはずだが、モダンジャズになってしまっていた。照明を落としたなかで、音程を外した演奏に、スポットライトを当てられて、大汗をかきながら、手が震え、なぞのメロディーを奏でる中年男。考えてみると、なかなかの壮大なる恥辱プレイを味わっている感じである。聴く方も、ハラハラしながら、どう反応して良いか困っていただろう。この曲はビルエバンスが姪に贈った曲。もし、姪のデビーちゃんがその場にいたら、腕を組んだまま眉をしかめ、聴き終えて最後、中指を立てて出て行かれそうである。最後の最後まで、はずしまくって、なんとか演奏だけは終えることができた。お疲れさんという感じの拍手をいただき。ステージを後にした。
 
 発表会の会場のライブハウスで聴衆側の席にもどり、ひどかったけど、なんだかやりきった感で、ホッとした。50年以上も前の小学校の事を思い出しながら、やはり奇跡というものは、そう簡単におきるものではないのだと。だから、からこそ奇跡というものなのだ。当たり前の事を考えていた。いや確かめて、噛み締めて。奇跡は起き難いからこそ奇跡という。これはいわゆる小泉進次郎の、小泉構文。しかし、この言葉の意味を、現実の体験のなかで、身にしみて感じないと、本当にわかったといえないのではないか。実は、案外、小泉構文には、深淵なるものがあるのではないか、そんな風に進次郎を見直した。
 大外ししても、チャレンジすることもふくめて面白がる、そう思おう。多分、チャレンジをよしとする、アメリカ人のデビーちゃんのことだ、中指は立てず、親指立てて褒めてはくれることもないだろうが、笑ってはくれるかもしれない。年とると、先を見越して、無様な様を想像して、いろんなしがらみで、どうもいろいろなことに尻込みしていしまう。失敗を気にせず、打席にはいること、それが50年後でもまだ少しだけはできたのだ、そう思おう。と、ジントニックを飲みながら、帰りに寄るスーパーのレジ袋を忘れていないか、カバンを確認した。そんな、一日でした。
 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?