見出し画像

にゃくいちさん 序

自己喪失の恐怖
 思い出したくない過去を、共有している李亜と明妃。二人は故郷である二本木を離れ、古都、嘉久でルームシェアをし、平穏を保ちながらも、どこか不安な影を感じていた。
 そんな彼女達の元に、二人が育った施設の関係者、久慈が訪れる。彼は、李亜に対して「そろそろ二本木にお戻りになる頃かと思いましてね」と船のチケットが入った封筒を手渡した。その日を境に、「にゃくいちさん」という不思議な言葉が李亜の耳にこびりつき、彼女の現実が崩壊していく。
 逃れることのできない定めに翻弄され、戸惑う暇も与えられない李亜。彼女の背景には、人間の世界とは違う、慣習や倫理観が支配する社会があったのだ。

にゃくいちさん あらすじ

 群青の空に、白い雲が斑に動いていた。山を切り開いた道を、黒色の車が二本木の港に向かって走っている。車は陽光を反射させ、フロントのガラスは鏡のようにまぶしく光っていた。
「船が到着するのは、十時ごろになると思います」運転手が後部座席の女に言った。彼女の肌艶や顔立は若いが、纏っている雰囲気は老練。
「そうですか。お昼は何をご用意しますの?」と彼女は言い、それから車窓の外に視線を向けた。車窓の風景は単調で、目新しさに欠く。
「鯛めしを用意させていただきます」
「鯛めしねぇ。船ではお魚ばかりやったんやないの? 他のものがええのとちゃいます?」彼女はそう言いながら口角を上げる。
「それでは里のものにしましょうか?」運転手は目を細めて言う。
「そうねぇ。お肉にしたらどないです? 私はその方がええと思いますけど」
「かしこまりました。和久多に申し伝えます」と運転手は短くそう言った。
 車は甕トンネルに辿り着いた。道路と擦れるタイヤの振動音が変わり、水の中のような圧迫感が車内を覆う。しばらく走ると、フロントガラスの向こうにボンヤリと明るくなった光が見えてきた。車が進むにつれ、その明るさは増していき、黒い霧が晴れてしまうと、きっかりとした空の青さが見えた。運転手は車を止めずに、そのまま山を下っていく。そして、海の傍まで来ると、車は速度を落とし停車した。雑多なざわめきの音が、海鳴りと重なり、遠く近く響いている。
「お疲れさんです」と、女は扉を開けてくれた運転手に言った。彼女はサングラスをかける前に、黒目がちな瞳で辺りを見回すと、空中にこだましている歓声が、揺れ動くように彼女の耳に届く。「海風が強いです。お気をつけてください」髪の毛が乱れたので、手ぐしで髪を整えながら、彼女は目を細めて静かに深呼吸をした。
 群衆を分けるように、複数の気取った洋装の男達が列をなして、彼女の為の道を作った。彼女は手を振るような事はしなかったが、それらに僅かに頭を傾け、真っ直ぐ海を目指して、カツカツと音を鳴らして歩いて行く。彼女の後ろには、群青の制服を着用した男達が付き従っていた。青っぽいが、甘い香の匂いが辺りに漂っていて、空中をこだましている歓声と、海鳴りに混じって、管楽器の音色と太鼓の音が聞こえ始めた。
 船着場にも、群青の制服を着た男達が規則正しく配置されていた。その一人に、彼女はパラソルで日差しを避けたラタンのガーデンソファーに案内され、足を合わせて丁寧に座る。
「あの船やね」
「ええ。そうです」背の高い男が彼女の前に現れ、そして一礼をした。彼女はその男の返答に鼻で笑い、それから辺りをもう一度見回した。
「そう」と彼女は言い、そして男はまた深く一礼をして去って行った。
「にゃくいちさんか」と彼女は海を見ながら言った。それは、圧搾された待ち遠しさとは違う種類の呟きのようで、彼女に構うものは周囲にいない。しばらくすると、給仕がグラスに入った冷たい蟠桃水をローテーブルに置くと彼女は「おおきに」と柔らかい口調で言った。
「イナンナ様。お久しぶりでございます」背後から声がして、彼女は振り返る。そこには、紺のスーツを身に纏った白髪の老人が立っていた。
「あぁ。これはどうも。どないです? お元気ですか?」とイナンナと呼ばれた女はサングラスを外すと、老人に隣に座るように手で促した。
「はい。なんとか」と老人は言い、そして彼女の隣のソファーに座る。
 大きな船は、内海から桟橋に近づいている。その船を待つ人々が、獲物に群がる黒蟻のように集まっており、不明瞭なざわめきと、最小限の履物の音を発生させていた。一種の懐かしみのような群衆の喧騒を、彼女は凝然としていた。
「どうかしましたか?」と老人が聞く。
「そうやね」彼女はそう言い、そしてしばらく黙ったまま海を見てから「あなたは変わりませんねぇ」と老人に挨拶の後の会話を投げかける。
「お陰様で」
「よろしくってよ。謙遜せんでも。あなたはあなたで、努力しているのでしょう? 祭祀王殿」老人は少し困ったような表情をしたが、彼女にそれを悟られないようにすぐに顔を伏せた。
「全てイナンナ様のおかげです」
「あなた方はそうおっしゃるから、それでええんやもんねぇ」と、彼女は手の内を明かさないような歪な話し方をする。
「これは失礼しました。今日、嘉久からお戻りになるのは……」
「何とも言えませんよってに」老人の言葉を遮って、イナンナはぴしゃりと強く言った。
「そうですな」
「えぇ。うちかて何もわからんし、今回のにゃくいちさんの事が心配やという訳でもないんです。おわかりいただけますか?」
「いえ。推し量ることばかりで、私にはわかりません」
「そう」
「ただ、イナンナ様。私は思うのですが……」と老人は言い、イナンナはそれに反応して老人の方を見たが、すぐに海の方に視線を戻し「何でっしゃろ?」と訊く。
「僭越ながら、イナンナ様は変わられましたね」
「何ですの? 突然」
「はい。元々お美しいですが、以前よりも、ずっとお美しくなられました」
「それはおおきに。でも、年寄りのお世辞やからって、邪険にする訳やないですよってに」と彼女は言い、それから少し間を置いてから続けた。「うちが変わって見えるんはね、あなた方の見方がそうさせとるんです。うちの事を『イナンナ』やと言いはるあなた方の目や、言葉が、うちを変えていくのです。せやさかい、うちは、本当の意味では何も変わってはおりません」
「イナンナ様は聡明な方であられます。私は思うのです。それは、あなた様がお生まれになった時からの定めやもしれません」と老人は言い、イナンナはそれを聞くと鼻から息をゆっくりと出した。
「そうかもしれへんね。記憶いうんは、自分だけのもんやけど、周りに同じ記憶がおるもんがおったら、それが真実になるんや。うちは、その真実の定めを信じ始めたという事やよってに」
 船は桟橋に接舷したようで、出来合いではない、楽器の響きがくっきりしはじめた。そして、イナンナは立ち上がり、老人に手を差し伸べる。「ありがとうございます」と老人は言った。
 船が桟橋に着くと同時に、数台の車がランプウェイから降りてきた。イナンナは群青の制服を着た男に付き従われながら、老人と共に赤い絨毯を歩んでいく。群衆は桟橋の奥にまで溢れていた。 一台の車がイナンナ達の目の前で停まると、仰々しい勲章を身に着けた、馬面の久慈が扉を開ける。
「どうぞ」と促されて、車から黒色のスウェットを着た女が降りてきた。すると、群衆は鬨のような声をあげて彼女を歓待したのだ。その勢いは、容赦もなく後方にまで広がり、波が連続して岩に打ちつけるようにしばらく続いた。

次の話


一話目

二話目

三話目

四話目

五話目

六話目

七話目

八話目

九話目

十話目

十一話目

十二話目

十三話目

十四話目

十五話目

十六話目

十七話目

十八話目

十九話目

二十話目

二十一話目

二十二話目



この記事が参加している募集

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!