にゃくいちさん 二十二話
唇を一文字に結び、目を見開いて一連の様子を見ていた輿の上の女は、茫漠とした悲哀めいた表情をしていた。柔らかい静けさを帯びたその態度は、一種の神々しい気品を肩のあたりに見せている。そして、頭を低くしてその瞬間を待っているようだった。
イナンナの名前を継ぐという事に、女は納得していないかもしれない。また、ちらほらと信仰の象徴で語られるアヌが、何者なのか、彼女はわかってはいない筈だ。しかしながら、一連の儀式は消失であり、維持の喩えであると悟っているような気配はある。その事が戦慄なのか、誉れなのかは推し量ることばかり。
万物の事象は受け継がれ、目に映る実体が本質とは限らない。彼女は僥倖を目の当たりにして、その事を体得しているのかもしれなかった。
「それでは、お出ましを願います」
久慈が言うと、狩衣の男が、女の腹に包丁を入れていく。女は絶命しているのか、叫びをあげない。そして、祭祀王が解体された女の体に手を再び入れ、鼓動が止まった心臓を取り出した。女の心臓は、水晶のような液と赤い血をたらたらと垂らしていた。
「お出ましください」
「お出ましください」
「お出ましください」
群青の制服の男達の唱和すると、群衆にもそれが広がる。祭祀王が心臓を三宝に載せ、蟠桃水をかけ心臓に拝礼した。
三人のにゃくいちさん達は、その光景から目を背ける事無く、遠くを見つめているような眼差しをしている。輿に乗っている女よりも、彼女達の方が自分達の行く末を知っている筈だ。しかしながら、もし、嘉久に行ったら彼女達も忘れてしまうのだ。忘れた事を思い出すことはない。ただ、思い出すような錯覚をするだけ。そうやって、受け継がれてきたのだ。
祭祀王が再び拝礼すると、群集も「お出ましください」と合唱を始める。群衆の声に反応したのか、或いはただ単なるタイミングなのか、濃紺の空を旋回していた鳥が、降下して祭壇に降り立った。
その大きな鳥は、闇そのものから生まれたかのような、光を吸い込む漆黒の羽根を纏っており、足が三本あった。鋭い目が周囲を見回し、その視線で空気を凍らせる。鋭いくちばしと、血のように赤い目が異質な存在感を放っていた。魂を見透かすかのような、ぐるりと見渡していた目が、輿に座った女に固定されている。
張り詰めた静寂を破り、鳥が啼いた。低く、かすれた声は、叫び声に似ていて、見えない力が渦巻いているような響きだった。鳥の影がゆっくりと祭壇から伸びて、まるで生きているかのように蠢きながら、それが広場全体を覆い尽くそうとしている。灯篭や松明の火をも飲み込んだ影の中に鳥の姿は溶け込み、全ての存在は消えたかのように見えた。
湿った音が広場に響き渡る。心臓を丸呑みしている貪婪な音。蟠桃の香りと香炉の青臭さが充満し、時間というものがすっかり無くなってしまったようで、闇そのものに閉じ込められているようだった。
心臓を食った鳥は、今度は女の腹にくちばしを刺し入れて、その肉を吞みこんでいるのだろう。肉体が分解されていく音がした。くちばしが骨に当たる音や、血が滴る音。その音だけが響いていた。群集は恐怖のためではなく、他の感情によって沈黙させられているようで、誰も声を出さない。
どれくらいの時間が経ったかわからない。甘い匂いが消える頃、羽ばたく音がした。すると「光あれ」というか細い声がすると、色が閃く。鳥は飛び立ち、影は消え去った。
弛緩した空気が漂い、その場にいる者の焦点が祭壇に定まった時、彼等は、まるで最初からそうだったかのように狐の面が残されているのを確認した。
祭祀王は鳥が去った後の虚空に向かって拝礼し、久慈や、群青の制服を着た男達も頭を垂れる。心の中に疲労が拡がったのか、人々もその場から動かなかった。
「んぷ。ぷふ。ぎゃぁ。ほんぎゃぁ。あぁぁいあああいやあぁぁぁあああ!」
衣に包まれた胎児がヒトの形になり、両手を握り、両足を縮め、腹を波打たせながら泣く。老婢が三宝から抱き上げ、群青の制服を着た男が用意した嬰児籠に赤子を入れると泣き止んだ。
「光あれ」
「光あれ」
群集が合唱し鳥が羽ばたいた後の虚空を、彼等は仰ぎ見た。そこには、月も星もない闇が広がっている。
「光あれ」
「光あれ」
群青の制服を着た男達が灯籠に火を入れ、広場を照らし始めた。
「ここに、御座しますのはイナンナ様。この度、嘉久よりお戻りになられ、正式に後を継いで頂く事となりました」祭祀王に紹介され、輿の台座に座っている女は小さく目礼し、祭祀王は彼女に向かって再び拝礼をする。
「アヌ様もイナンナ様のご帰還を喜ばれておられることでしょう。次の大祭には、きっとおいでになると思います」
祭祀王の言葉に、イナンナは軽く頷いて応えた。
「光あれ」
再びか細い声がすると、輿が動き始める。か細い声の正体は、嬰児籠の赤子。
「どういう事でっしゃろ?」
イナンナが老婢に尋ねると「この子もにゃくいちさんどす」と答えた。それ以上、彼女は何も聞かなかった。
一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!