にゃくいちさん 二十一話
ゴォーン ゴォーン ゴォーン
里のあちらこちらで鐘の音が三回ずつ鳴り響く。蒸々した人熱れは、朱の大鳥居に辿り着き、禁忌を禁忌たらしめない同調圧力の下地ができつつあった。
「お通りだぞ!」
「お通りだぞ!」
人々の押し合う力と、左右に避ける力が、空間の空気を興奮へと増幅させていく。集団は、石積みの階段を昇っていき、いくつもの重なった石搭がある広場に辿り着く。彼らはそこでも踊り続けていた。笛を携えた連中の旋律はより強く、鳴り物や太鼓もより大きく打ち鳴らされる。西に周った陽と、物言わん山が、色彩に欠けた陰日向を作り出し、気化した水蒸気のような、透明な黄昏を演出していた。やや闇が煙り始めた上空に、黒い点が静かに動いて輪を描いている。それは、長い翼を伸ばした鳥で、体を斜めにして伸びやかな輪を造っていた。
「火を点けろ!」
誰かが叫んだ。
「火を点けろ!」
まだ灯されていない。
「火を点けろ!」
「火を点けろ!」
「火を点けろ!」
「火を点けろ!」
その声はやがて広場全体に広がった。
ゴォーン! ゴォーン! ゴォーン!
「火を点けろ!」
「火を点けろ!」
一つ、二つと灯籠に松明が投げられた。焔はすぐにあがらず、風が広場を吹き抜けていく。誰かが柏手を打つと、その響きが別の誰かを呼んで、やがてそこら中の篝火に火が入れられていく。淡色の夕化粧の中で、火の輪廓が薄っすらとしていた。
ゴォーン! ゴォーン! ゴォーン!
里中の鐘が鳴り、太鼓は一層烈しくなり、踊り手達は焔の熱に煽られ、より激しく身悶えする。
石搭を崩さないような配慮が難しくなる頃、爆発音が聞こえた。
ドォン!
「花火だ!」
誰かが叫んだ。それは大輪の牡丹にも似ていて、赤と橙と黄の火焰は、枝垂れて夕空を流れ落ちていった。焔の花弁は次々に打ち上げられ、その流れは途中で途切れたりせず、空に幾つもの花が次々と開いていった。花弁と花弁が混じり合って、赤橙色や緋色の大花火となって弾けていく。
三人のにゃくいちさんが、いつの間にか現れてお社に祀られている石に礼拝する。心が虚になった彼女たちの表情が、表象の世界を幻出させていた。鳴り物や太鼓、笛の旋律は止まることなく、そして、群衆は踊り続け、叫び続けた。
やがて、花火の焰が途絶えると、辺りは急に静かになる。
「おいでなすって」
「おいでなすって」
空気を破って、階段の下から胴間声が響いた。四方に朱塗りの欄干を巡らした屋根のない輿を、群青の制服を着た男達が担いで昇ってきている。輿の台座には、果杏の里に帰ってきた女が、どことなく透きとおった神々しい悲しみの色を携えて座っていた。
輿が広場の中央までやってくると、男達は輿を担いだまま、そこで停まった。輿の上の女は、両の手を腹の上で組み、まっすぐ祭壇と杭を見つめている。
香しい蟠桃の薫りがあたりを包み始め、再び輿が階段を昇ってくる。今度の女も台座に座っていたが、狐の面を被せられ、衣服は何も纏っていない。やがて輿は祭壇の前で停まり、女が降ろされた。群青の制服を着た男の一人が、面の女の両手をうしろに縛り、杭に括りつけている。きつく縄を縛ったのか、面の下から思わず声が洩れた。縄を縛る間、他の群青の制服を着た男達は
「おいでなすって」
「おいでなすって」と唱和している。
次の輿がやってきた。その台座には誰も乗っていない。輿を先導しているのは馬面の久慈と、祭祀王。そして、その後ろにはアヌの屋敷の老婢が付き添うように歩いていた。
久慈が空の台座の前で一礼し、それからおかっぱ頭の老婢に耳打ちする。彼女は懐中から香炉を取り出し、それを台座の上に置いた。
「おいでなすって」と男達が唱和する中、老婢が黒い樹脂に火を点けると、辺りに青臭く甘い香りが広がった。恨み、悲嘆、呪詛、といった類の呻きか、それとも単に漏れたため息なのか、よくわからない何かが、面の下の女の口から吐き出された。
祭壇に到着した祭祀王が「ワンスェイ」と大きな声で言うと
「ワンスェイ!」
「ワンスェイ!」
「ワンスェイ!」と群集も三唱した。久慈が「それではよろしくお願いします」と三人の少女のにゃくいちさんに頭を下げる。三人は積まれた石塔から石を拾い上げ、それを杭に縛られた裸の女に次々に投げつける。外れる事がほとんどだが、偶に頭に当たり、面と頭の境い目から、黒い血が糸のような細い血筋となって垂れてきた。
「ワンスェイ! 」
「ワンスェイ! 」
「ワンスェイ!」と群集が合唱し、それまで「おいでなすって」を繰りかえしていた群青の制服の男達も石を女に投げ始める。杭に縛られている女の身体はどんどん黒ずんでいき、血は面の隙間から滴り落ちていた。それでも、面が外れる事はなかったので、顔貌はどうなったのかは分からない。
「それまで」と久慈が言うと、群青の制服を着た男達が、縛られている縄を解き、面を被せられた女を、祭壇に寝かしつける。香炉からはまだ青臭い芳香が漂っていて、面の隙間に煙が入り込むと、女はビクッと動いた。
「式庖丁やよってに」と輿に座っている女が、高らかではあるが、若干の緊張を含んだ声でそう告げた。その声には、自分の置かれた状況を受け入れたかのような自信がある。
右手に庖丁、左手にまな箸を持った狩衣を纏った男が、女の下腹部にまな箸をあて、儀式めいた舞をしながら右手の包丁を腹に刺し入れていく。切開されるたびに女の息は荒くなり、遂に「キャァー!」と声の限りに叫んだかと思うと今度はぐったりした。
群衆も固唾を飲み、その様子に釘付けになって静かに見つめていた。「それではこれより伺う」と祭祀王が言うと「おいでなすって」の合唱が再び始まる。群青の制服の男が、松明に火を移して掲げると、祭祀王は祭壇の前に進み出て、女の腹に手を入れていく。
やがて祭祀王は、血で濡れた手を取り出すと、周囲に甘い桃の匂いが立ち込める。取り出したのは、朱に染まった臓物のように見えるが、それは女の腹に収まっていた胎児であった。祭祀王がそれを掲げて一礼すると、祭壇に祀られている三宝に載せた。
「お清め致す」
老婢が三宝に載せた胎児に蟠桃水をかけ、それから桶に胎児を湯にゆっくり入れる。それはビクッっと動く。
「おいでなすって」と群青の制服を着た男達が唱和すると、胎児は、小さな肩胛骨を大きく動かし、横隔膜を拡大収縮しているような呼吸をした。
「幸あれ」と言ってから、老婢は再び三宝にそれを供えた。人の形をしていたそれは、意味を成さない声を発しながら、足をばたつかせて泣き始める。
一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!