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にゃくいちさん 二十話

 家々の軒先に提灯がいくつもぶら下がって、明るい日差しの下で揺れていた。石畳の道の端には、酒、食べ物、菓子等の屋台が、雑沓と喧騒を携えて軒を連ねている。即興音楽にあわせて踊っている仕事着の女中の姿もあり、何をしても許されるような雰囲気が祭にはあった。それらの熱は、ある種の壮大な諧音となって人々の高揚を煽り、浮世離れした盛り上がりをみせている。往来の影は一層濃くなり、酒に寛げられた笑い声が日射しの下に響いていた。
「お通りだぞ! 」
「お通りだぞ!」
 一際大きな声が響き、石畳に現れたのは緋鯉の幟を頭から被っている裸の男衆だった。彼らの前には裸の巫女が立っていて、人通りの多い石畳で、両手を掲げて身体をくねらせながら、一糸纏わぬ姿でゆっくりと進んで行く。見物している者たちはやんやとはやし立て、巫女は練り歩きをしながら、悪戯っぽく舌をだして見物人を挑発する。若い男たちが行列に混じり、巫女の身体を手で触ったり、卑猥な言葉を投げかけたりすると、彼女は片脚をあげ、内股までみせて若者を煽るのだった。男も女も、それを笑いながら見ているだけで、誰も止めようとはしない。それどころか、そのうちに見物していた人々も、肌を隠すことをせず、服を脱いで行列に加わっていく。
「お通りだぞ!」
「お通りだぞ!」
 男衆はそう叫びながら、緋鯉の幟を頭に被って裸で踊る連中の周りを巡っている。方角は鉢の中ですりまぜたように渾沌となり、大叫喚と鳴り物の響きが辺り一帯を覆いつくし、咽るような熱気以外に他にはなにもない。
「お通りだぞ!」
「お通りだぞ!」
 裸の巫女も、男衆の口上を真似てそう叫びながら、練り歩いていく。いよいよ過熱して、子供や赤ん坊を負ぶった女も服を脱ぐ。きゃっきゃと笑い声をあげる子供、さらには老人までもが裸になって行列に加わるのだった。
「お通りだぞ!」
「お通りだぞ!」男衆のかけ声と、裸の行列が行く先々では、見物人が彼らに酒や菓子を振る舞う。
 色付き硝子を粉々に砕いたような混沌は、最高潮を迎えようとしている。イナンナの交代を祝福する久慈の氏人達は、まだか、まだかと新しいイナンナの登場を待ち構えているのだ。
 ひしめきあう喝采は、光彩の波となって里を包む。無数の生あるものの不信や倦怠や情欲や野心といったモノを全部剥いで、実際の色や形よりもはるかに美しい虚像となり、その美しさに、誰もが我を忘れて陶酔していく。
「お通りだぞ!」
「お通りだぞ!」と、男衆は叫び続け、裸の行列は練り歩く。
「お通りだぞ!」
「お通りだぞ!」と見物人だった者も囃し立て、酒や食べ物を振る舞われながら服を脱ぎ、裸で練り歩いていく。
「お通りだぞ!」
「お通りだぞ!」
「お通りだぞ!」
 混沌とした喜びは、誰も彼もを高揚させてゆく。

 涼やかな風が吹き渡って、汗ばんだ身体を撫でる。裸踊りの連中をよそに、熱狂に気怠く取り残された少女達が、石積みの搭を作っていた。
「なんや、騒がしいなぁ」
「お祭りや。うちらは石積まなあかんのになぁ」
「ホンマ、それ。……なんで、うちらだけ、こないな事せなあかんの?」
「しょうがないやん。あたしら、にゃくいちさんやねんから」一番背の高い少女が言った。
 石畳の道から焼き鳥や、わた飴、瓜のつけものなどの匂いが漂っている。その匂いを嗅ぐと、三人のにゃくいちさんのなかに空腹が湧き起こってくるのだろう。彼女達は水筒の水を飲んで空腹を誤魔化す。
「こんな水だけやったら、お腹へるわぁ」丸っこい少女が、階段の下を眺めながらそう言うと、首の長いにゃくいちさんが「な。食べもんってやっぱ、大事や」と同調した。
 古めかしいお社のある広場は、青い葉をつけた桜並木の階段の上にあり、裸踊りの連中はまだ上がってこない。お社には、人の頭ほどの大きさの石が、赤い毛氈に敷かれて祀られている。その周りで彼女達は、高さ一尺ほどばかりの石搭を幾つも作っているのだ。普段は消えていくような淡い不満が、不公平を抱くと明瞭になり「なんか、食べたいわ」と愚痴をこぼす。
「せやけど、嘉久に行く事になったら、何でも食べてもええらしいで」
「あほか。嘉久に行ったら、ここでの事は全部忘れるんや」
「は? どういうこと?」と、首の長いにゃくいちさんが言う。
「せやから、こんな水を飲んどる事も忘れるし、あたしらがにゃくいちさんやという事もわからへんねや」
「なんでなん?」
「あたしらがカミ様やいうのをバレんようにそうしとんやろ。知らんけど」と言いながら、蟠桃水が入った水筒を傾けて、ごくごくと喉に流し込む。
「この水ってなんやろな」
「さぁ?」丸っこい少女が首を傾げた。
「桃の匂いちゃうん?」首の長いにゃくいちさんが指を舐めてから言う。
「これを飲んどったら、肉が旨くなるんやろ。あたしら、餌なんやから」
「餌ってなんやの」
「知らんけど。なんか、そう聞いた」
「でもさ、なんで肉が旨なるん?  桃って果物やん」
「さぁ」と首の長いにゃくいちさんが言う。
「この水はアヌ婆さんがくれたやつやし、ようわからんなぁ」
「ってか、石、積まなあかんやん」
「そうや」と言って、三人はまた石積みに集中する。下で賑やかな喧噪が響いてくるが、彼女達は努めて何も考えないようにして、黙々と石を積んでいった。
「嘉久に行ったらさ、うちらも人間になるんやな」丸っこい少女は独り言のようにそう言った。
「でも、あんたらの事は忘れたないわ」彼女達は再び蟠桃水を飲んで作業を続けていく。
「せや、検査の事、聞いた?」背の高い少女が二人に訊く。
「何それ?」首の長いにゃくいちさんが答える。
「あんた、知らんの?  嘉久に行けるかどうか検査があるねんて」
「え!  ホンマに?」
「なんかさ、あたしらに赤ちゃんできんかったら、嘉久に行けるらしいわ」
「しょうもない話すんなや」話を聞いていただけの、丸っこい少女は石を運びながら、つまらなそうに呟いた。
「は?  なんで?」と首の長いにゃくいちさんが驚く。
「……検査ってな……」そう言った後、彼女は口篭もり、「わかるやろ?」と言った。


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