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にゃくいちさん 終

 唸るような音をたてて、黒い車が甕トンネルを抜けて港へ向かっている。車窓から常緑樹の奔流が途切れると、フロントガラスには海が広がってくる。浮いているような緑の海と、黒い埠頭は、あの世とこの世の境目のよう。
「船が到着するのは、十時ごろになると思います」
 後部座席の女に運転手が言った。女の肌艶や顔立は若いが、纏っている雰囲気は老練。彼女は「そうですか」とスマートフォンを操作している手を止め、ふと運転席の方へ視線を向ける。運転手の背中が硬直しているようで、背筋が伸びていた。
「どないしはったんですか?」
 女の質問に運転手は驚いたのか、一瞬の間をあけてから「いえ。雲行きが怪しいものですから」と言った。確かに空は、湿り気を帯びていて晴天の気配はない。
「天気が悪かったら、なにか問題でも?」
「いえ。そういう訳でもないですが、船が着くまでイナンナ様を外で待たせる事になりますから」と低く笑った。その笑いは微かな振動を生み、彼女は思わず肩を竦める。
「あたしは構わしませんよってに。お気遣いなく」
 運転手はバックミラー越しに女を見て「いや。失礼しました」と言ったが、彼女は何も答えずに窓の外へ視線を逸らした。

 景色は車の速度とともに拡大され、群衆の姿が見える。人だかりの中で凝然としている若者、何かを期待している中年女性、穏やかな顔の老人。それら一人一人の表情まではっきり見える距離に、車は来ていた。脆い陽ざしは翳ってしまい、人々の口元から白い息が薄く見えている。やがて車は停まり、運転手は後方の扉を開けた。
「おおきに」女は軽く会釈をして、車を降りる。潮の匂いと混ざり合った香の臭いに、彼女は顔をしかめてゆっくりと歩いていった。足音は湿った地面に吸い込まれるように静かで、足取りは幽玄。
 イナンナは用意された席に案内されると、優雅に一礼し「おおきに」と群青色の制服を着た男に言った。
「お久しぶりです」と声がすると、イナンナは微笑み「これはどうも。お変わりあらしませんか?」と言ってから、運ばれた蟠桃水を飲んだ。
「おかげさまで、なんとか過ごしてます。イナンナ様は相変わらずお美しいですね」
 声をかけたのは、紺色のスーツに、その上にアルスターコートを羽織った祭祀王。イナンナは、世辞に応えるように軽く頭を傾け、彼を隣の席に座るように促す。
「お世辞は必要ないよってに」
「いえいえ。本当にそう思っています」祭祀王はにこやかに答えると、イナンナの対面に腰を下ろして「今日、お戻りになられるのは……」と訊く。
「ええ。何とも言えませんよってに」とイナンナは祭祀王の言葉を遮るように答える。
「それは失礼しました」と相手の心を読みとるような薄い笑いを唇に浮かべ、祭祀王は頷いた。気のせいほどの日向に、設置された待合いのソファーの近くで、何台かのストーブの間延びした炎が、揃って淡く揺れている。孤独を自覚させるような潮風が祭祀王の襟にあたった。
「結局、あたしは何もわからへんままやよってに」とイナンナは、表情を曇らせる。
「こうやって、昔から続いてきたのですよ」
 祭祀王は低い声で言った。その声色は老人とは思えないほど力強く、何かに対して憤りを感じているようでもあり、皮肉めいたものでもあった。彼はすぐに表情を緩めると「イナンナ様」と落ち着いた声で言い「人間の世界は勘違いの寄り合いです。それが形を整え、または、崩れながらも、人々は暮らしを紡ぎます。それを社会と呼ぶのでしょう。その社会は、勢力が強くなると、自分達が正義だと勘違いするのです。そして、その頂点に立つ者は、金や力を濫用して立場の弱い者を支配するのです。これは、私だけが創った世界ではないですよ。我々の祖先が残したもので、私もそれを創っているのです」と説くように言った。
 イナンナの唇は固く閉じられたままで、沈黙が流れる。祭祀王は口元に薄い笑みを湛えて静かに続けた。
「イナンナ様。全ての事に、本当の意味などないのです。私達人間は定義したいのです。あなた達はあなた達で、色々とあるのでしょう。私達が勝手にカミ様と崇めているだけかもしれません。しかし、私達はあなた達に縋る事で、勘違いしている自分を自覚するのです」イナンナは何か言いたそうに唇を動かしたが、言葉は出なかった。彼女は視線を落とし、膝の上で両手を固く握りしめている。
「イナンナ様。出過ぎた事を言いました。お許し下さい」祭祀王はそう言うと、イナンナの返事を待つ事もなく「そろそろですね」と海を見た。大きな船が桟橋に接舷したようで、群衆は活気に満ち、音楽や人々の笑い声が響き渡っている。沖にゆっくり明滅している廻転灯台の灯りは一定で、船を歓迎する盛り上がりを統制しているように見える。
「車が降りてくるよってに」イナンナは手を差し伸べて、祭祀王に立ち上がるように促す。
「ありがとうございます」と祭祀王は一礼して、二人は赤い絨毯の上を歩く。彼女の背中は寂しげで、何かを諦めているのかもしれない。
「来はったわ」
 黒いダウンジャケットを羽織った女性が怪訝な顔をしながら、久慈に促されて港に降り立った。
「おいでやす」イナンナは気品に満ちた微笑みを湛え、ゆったりとした口調で挨拶する。祭祀王も頭を下げたので、黒いコートの女も仕方がなく小さく会釈をした。
 彼女は警戒しながら言う。その声は低めで掠れていたが艶がある。
「あの……」黒いコートの女性は躊躇いながらも「一体なんなんです?」とイナンナを見据えた。
「明妃。久しぶりやねぇ」とイナンナはにっこり笑った。
「え?」明妃と呼ばれた黒いコートの女性は、首を傾げ「なに……どういう……」と明妃は口籠る。
「どないしはったん?」
「いえ……その……わたし……私の事を知っとるん?」明妃は視線を落として、言葉を探すように口をもごもごとさせた。
「ええ。あたしらは、にゃくいちさんやよってに」
「にゃくいちさん? それ、一体何なんです? 誰も教えてくれないし……ってかお祭祀さん?」
「そやねぇ」イナンナは祭祀王を一瞥してから、明妃に視線を戻して「それはな……」と何かを言いかけたが、祭祀王が頷いて「あなたはカミ様です」と彼女の言葉を中途から奪った。明妃は不思議そうな目つきをして「はぁ?」と首を傾げた。
「わからへんやろうね。急にカミ様や言われてもなぁ。それに、これからもわからへんかもしれへん」
「なんなんです?  一体?」明妃は苛立ちを隠せずに、イナンナを睨みつけるような目付きをする。祭祀王は、穏やかな表情で二人のやり取りを見つめていた。
「あたしらはな」とイナンナは言ってから一呼吸置いて「にゃくいちさんやよってに」と続ける。明妃は眉根を寄せて「はぁ?」と首を傾げ、何か言おうとしていたが口をつぐんでしまう。
「とにかく、あんたを知っているんは、あたしだけやよってに。もう戻る事はできやしません」イナンナがそう言うと、明妃は状況を把握できないのか、辺りを見渡してから、やや上目遣いに二人を順番に見た。その表情には困惑が浮かんでいる。
「式庖丁やよってに」
 イナンナがそう言うと、群青の制服を着た男達が大きなまな板に子鯨を担いで乗せる。「あの……」と明妃は何か言いかけたのを聞いて、イナンナは頷き、明妃を見た。
「どないしはったん?」
「なんで、あたしの事知っているんです?」胸があえぐように揺れる低い声で、明妃は再び先程と同じ質問を訊いた。少しでも安心を得たいという希望が乗っかった微かな声。
「あたしも思い出せる事は少ないよってに。弾左いう男の名前を薄っすらと憶えとるぐらいや」
「弾左の事知ってるの? 弾左はなんで、あたしの事……」
「もう、ええでっしゃろ。もう、何も訊かんとってくれやす。じきに忘れるさかい」イナンナは群青の制服を着た男達に目配せをした。そして、右手に庖丁、左手にまな箸を持った烏帽子をかぶり、狩衣を纏った男が子鯨の腹に庖丁を入れていく。子鯨の腹からは、半透明の血液がぼとぼとと落ち始め、まな板から鈍い音を響かせて跳ねる。明妃は緊張のためか唾を呑み込んで、その光景を無言で見ていた。
「もう、どうにもならんよってに。あたしらは、にゃくいちさんやさかい、そういうもんやと思うしかあらへん」
「え?」と明妃が声を出したが、イナンナはそれにこたえる事無く、コップに注がれた蟠桃水を飲みほした。
 日向が消えてゆく冬の日に、蒼ざめた空気が港に広がっていた。それは、ただの日蔭ではなく、時間を超越した存在の息吹を感じさせた。全ての事は変わってゆく。逃れようともがいたところで、必然の流れに収束し、静寂と喧噪の切れ間といったようなところに落ち着くのかもしれない。
 子鯨は、息苦しさを訴えるような視線を二人に向けていた。空虚な目は閉じる事無く、彼女達を見つめ続けていた。

おわり


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一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!