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にゃくいちさん 十八話

 雨戸の隙間から光が長方形に射し込んで、角張った影を作り出している。布団から体を起こしながら、彼女は自分の腹を撫でた。
 和久多の一室の隅には、鏡が置かれていて、彼女はふわふわと立ち上がり、そこに向かう。寝ていた布団はまだ体温が含まれているようで、身体をなぞった皴を写していた。
「あたしは、あたしや」鏡に映った自分にそう語りかけた後、彼女は雨戸を一気に開け縁側にでた。中庭からの光が入り込んできて、思わず眼を細める。ゆっくり開けた視界に、水鉢の黒い染みがはっきりと映ったのか、ため息のような深呼吸をした。
「おはようございます」
 庭仕事をしていた下婢が、開いた雨戸に反応して挨拶をすると「おはようさんです」と彼女は応える。親し気な声色のやりとりは、口が勝手に心を開いてしまったような感じだった。
「お早いのですね」
 下婢の言葉に、彼女は笑って「夢見が悪うてね」と言って両手をあげて伸びをした。
「仕方がない事ですよ」と慰められたが、彼女はただ口角を上げるだけで、浅い会釈をしてから部屋の中に戻る。そして、風呂に入る支度をした彼女は、ゆっくりと廊下の床板に足をつけ、そっと部屋の襖を閉める。音もなく静かに歩みながら奥の浴場に向かったのだ。

 硝子窓に滴り流れている水蒸気が、日光によってキラキラと反射していた。その光の中で、粒になった湯気が、モヤモヤと動いている。広々とした風呂場の中央には、石造りの浴槽が鎮座しており、その中には無数の薔薇の花びらが浮かべられていた。赤い薔薇の花びらは水面に散らばり、鮮やかな色で、湯の透明さを際立たせている。彼女は、湯船の脇にある椅子に腰をかけ、湯を両手に掬うと顔を洗った。それは、眠気を覚ます行為に似ていて、それを二回繰り返してから、桶を使って彼女は体に湯をかけた。
「一日経ったんか」小さく言うと、乱れた髪をかきあげて、存分に髪を洗った。触れば手が切れるほど磨かれた長い栗色の髪の毛は、果杏の里に着た昨日よりも艶やかになっている。
 洗髪を終えた彼女は、ゆっくりと浴槽に足を入れた。湯の温度は体温よりも高く、肌に刺痛を与えたのか、彼女は一度、腰を上げてこわごわと肩まで浸かる。
 目を閉じ、薔薇の香りと湯の感触に身を委ね、下腹部に手を軽く当てる。動いてはいないが、そこにある鼓動を彼女は確かに感じ取っていた。
「大丈夫や」と彼女は呟いた。そして、そのまま湯船の中で腰を滑らせ、鼻の下まで湯に浸かってみた。彼女の周りに浮かんでいる薔薇の花弁が、湯の動きと共に揺らめき、髪の毛に絡みつく。それから湯から顎を引いて、彼女は口に纏わりついた髪の毛を払った。一息ついて立ち上がり、髪から滴り落ちる雫が浴槽の中に落ち、水面にはいくつもの波紋ができた。その波紋の中を横切っていくように彼女は進みながら浴槽を出る。
 髪を乾かし、着替えが終わった彼女に、蟠桃水を運んできた下婢が、食事の用意ができたことを伝えてきた。彼女は頷いてそれに応え、下婢の後ろを付いていく。広間に向かう途中で、彼女はふと立ち止まり、広々とした中庭を眺めた。
「どうしました?」と下婢が彼女の方を見て訊いたが、彼女は何も答えず、緑の杉苔と、凛と咲く桔梗の花々を見ている。
「今は何月や?」
「え?」と下婢は訊き返したが、彼女は小さく微笑んで「いや。なんでもあらしまへん。忘れてちょうだい」と言って広間に入っていく。広間の奥にある窓際に置かれた椅子に座り、膳立てをされた食事に彼女は手をつけた。ほおずきの酸味と甘みを活かしたタルトを満足そうに食べる彼女を下婢はただ黙って見つめている。
 食事が終ってしばらくした後、女将が恭しく来訪者が来たことを伝えに来た。
「どなたや?」と彼女が訊くと、「お祭祀さんです」と女将が答えた。
「えらい早よから来てからに。客間で待ってもらい」と彼女は言う。
「わかりました」女将は一礼をして立ち去り、小さくため息を吐いて、彼女は水を飲んだ。そして、肩掛けを羽織って、客間に向かったのだ。
 客間には祭祀王が座椅子に座っており、彼女の姿を見ると手をついて挨拶をした。
「おはようさんです」と彼女も挨拶を返す。彼は穏やかな表情を浮かべていたのだが、その眼は深い緑をしておりどこか陰鬱な印象を与えていた。
「どうですか? 果杏は?」
「おかげさんで」彼女は座卓に出された蟠桃水を飲んだ。
「そうですか。あなたは元々お美しい方ですが、今日はずっとお美しくなられましたね」
「なんですの?」
「いえ。失礼しました。蟠桃水が貴方をより美しくします」と祭祀王は言ってから「さて」と本題を切り出す。
「あなたはイナンナ様の名前を継ぐ事についてはお聞きになられましたか?」
「は?」と彼女は首を傾げた。
「その様子ですと、ご存じないみたいですね」
「はぁ」と彼女は眉を顰めて言った。祭祀王は頷く。
「イナンナ様というのは、私がお仕えする美と豊穣の女神で、アヌ様の子である事を意味する名前です。そして……」彼女は祭祀王を遮って「え? 何を言うてはんの?」と尋ねると、祭祀王は少し困った顔をして「昨日のイナンナ様はにゃくいちさんの役目を終えられました」と呟いた。
「どういうこと? 全然わからへん」
「あなたが里に戻ってきたので、イナンナ様はあなたになるのです」
 考えあぐねるように視線をさまよわせた彼女は「はぁ」と言って中空をぼんやり眺める。そして、もぞもぞと波立つ熱情を抑えるように、コップに入っている蟠桃水を喉に一気に流し込むと、両手でピッタリと顔を押えながら眼を閉じた。
「現に、あなたは昨日よりも美しくなられた。外見だけではありません。言葉づかいもそうです。蟠桃水があなたを楽にしてくれます」
「このお水は一体なんですの?」と彼女は困惑して訊くが、祭祀王はそれには答えなかった。
「カミ様にしか飲む事を許されていないお水です。いいですか? カミ様というのはこの世の事象の全てで、私は国民に、その恩恵をもたらすように祈るのが存在意義です。それ故に祭祀王と呼ばれ、万世一系に受け継がれてきたのです」
「あの、うちがカミ様の名前を受け継ぐ事になるなんて、わからしまへんのです」彼女は縋るような眼で祭祀王に訊いたが、彼はただ首を縦に振るだけで何も言わなかった。
「どういうこと……」と彼女が呟いた時、祭祀王は微笑んで立ち上がった。そして「今日、あなたはイナンナ様となります。にゃくいちさんというのは、イナンナ様になる前のお名前です。嘉久で子を宿して、イナンナ様になる。それ以外のにゃくいちさんはここで過ごしています。イナンナ様がお帰りになるというのは、おめでたい事なのです。その為のお祭りがあります。朝早くから失礼しました」と一礼してから出て行った。
 彼女が客間で呆然としていると、下婢が「大丈夫ですか?」と心配そうに声をかけた。彼女もそれを気に掛けるほどの余裕はなく「あ。あぁ」と言っただけで、ただ、窓の外を眺めたのだった。
「昨日のイナンナはどこにいはるのです?」と彼女は語気を強くして訊いたが、下婢はただ「私は存じ上げません」と言うだけだった。そして「今日はお祭りですので身支度を整えましょう」と事務的に話すと、再び水を座卓の上に置いたのだった。


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