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にゃくいちさん 十七話

 昼間ではあったが、和久多の廊下には行燈が灯されていて、その明かりが漆喰の壁に幽かな陰影を落としている。イナンナは女将に座敷に案内され、その後ろから群青の制服の男達に両脇を抱えられた李亜が、対面の座敷椅子に座らされた。
「袋、とったってください」とイナンナが言うと、制服の男は言われるがまま、李亜の顔に被せていた麻袋を外す。そして、彼等は何も言わず座敷から出ていった。李亜は、顔色が不明瞭のままで、澱みがかった表情で全く動かない。
「水を持って来たってください」と言うが先か、女将が李亜の卓子に蟠桃水を置く。すると、李亜は、コップを鷲掴みにするとゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲みほした。その様子を見てイナンナは、唇に微笑を影のように浮かべている。
「ああ」と李亜は言って、また水差しから自らコップにいれて蟠桃水を飲む。
「喉乾いてはるんやな」とイナンナが言うのもかまわず、水差しの蟠桃水までも飲みほすと、彼女の顔に色が戻る。「うちはあなたの味方やよってに。李亜ちゃん」沈黙していた李亜だが、焦点を合わせて「はぁ? なんやねん。馴れ馴れしいわ。あんたら、えげつない事してくれたな」と言った。鯨の心臓を生で食べさせられた事や、組伏せられて麻袋を被せられた事を皮肉するように、李亜は鼻で笑った。
「あなたは何処にも帰られへんよってに。嘉久にも二本木にも、あなたを知っとる人はおらんのよ」イナンナの言い方が気に食わないのか、李亜は眉間に皺をよせて「それがなんやねん?  どうでもええ」と言う。
イナンナは意地悪そうに笑みを見せ「そうですか。そや、教えたりましょか?」と言った。
「なにを?」
「李亜ちゃんが、一番知りたい事やわ。何から聞きたい?」
「あほらし」と李亜はそっぽを向いた。しかし、彼女は少し考えてから再びイナンナの方へ眼を向け「やっぱし」と続ける。
「なに?」とイナンナが促した。
「あたし、もしかして、死んだ?」
「死んどったら、ここにおらんよってに」イナンナが笑うように言うと、李亜は顔を歪ませ「なんやねんな……」と口籠る。イナンナは、そんな李亜を横目で見ながら「ええんやで」と言った。
「なにが? 死んだんやないんやったら、あたしどうなっとん? 」
「その事やったら、これから少しずつわかるよってに」イナンナは口許を緩める。そして、タイミングを見計らったように、女将が陶器の皿に盛りつけられた先付けを運んできた。それは、青ネギが散らされ、おろしポン酢が添えられた薄切の肉のたたき。肉の表面は軽く炙られ、断面には鮮やかな赤身が見えている。
「とにかく、食べよか」とイナンナは箸を手にとるが、李亜は「なに値打ちこいとんねん」と料理に見向きもしない。
「無理もあらへんわ。そや。あなた、パスタラビスタいうとこで働いとったね」イナンナは、李亜にかまわず、上品な箸づかいで肉のたたきを口に運ぶ。
「パスタラビスタ? なんで? ってか、あたし、忘れかけてる。そんな名前の店で働いていたような気がするぐらいしか思い出せへん」
「にゃくいちさんは、そういうもんや。うちらは、自分の名前も忘れていくよってに、帰ってきたばかりのあなたはどうなんか興味があるんや」
 どことなく、イナンナの寂しい話し方に、少しばかり気後れしているのか、それとも自身の記憶を辿っているのか、李亜は考えるように黙りこみ、彼女も目の前の料理に箸をつける。
「にゃくいちさんって何なん?」
「嘉久で、妊娠したら帰ってきはる、カミ様や」
「はぁ?」
「あなた、気ぃついてはらへんかった? ややこができたよってに、帰ってきはったんや」
「ちょ、あたし、妊娠しとんの?」
「せやで。ちなみに、うちもや」二人の女はギスギスしている割に、歪ながらも会話をやり取りをする。
「嘘やん。えっ? 誰のこ?」
「知らんわ。忘れたんやったら、これからも思い出す事ないわ」イナンナはそう言うと、李亜は顔を歪ませて「なんやったっけ、明妃や! あの子もにゃくいちさんなん?」
「うちは、その子の事忘れてるし、知らんけど、多分そうやわ」イナンナは微笑んだ。
 イナンナは、次に運ばれてきた椀物の蓋を開ける。澄んだ出汁の中に浮かぶ薄切りの肉と季節の野菜が入った吸い物。金箔が浮かび、上品な香りが漂う。濃厚な旨味が口の中に広がったのか、イナンナは心地よい表情をした。そして、椀を卓子に置くと、彼女は異常な量の水を飲みほした。
「あなただけの記憶なら、それは真実にならんよってに。こっちに来る時に、ヒトの世界では、あなたの全てが無かった事になるんや」イナンナはそう言ってから「ほら、食べや。船では魚ばかりやったやろ? お肉やで」と、美しい陶器の皿に盛られた肉の刺身を、李亜に食べるようにイナンナは促す。薄くスライスされた肉は、見事なまでの霜降りで、肉の甘みが引き立つように、山わさびに、太白ごま油と刻んだ昆布を混ぜたペースト状の薬味が添えられていた。
「美味しい?」
 李亜は、ぶっきらぼうに頷くと、再び箸で肉をつまむ。そして、しばらく凝視した後で口へ運び、ゆっくりと咀嚼する。すると彼女は急に泣き始めてしまった。イナンナは無表情のままその様子を見てから「どないしたん?  そないに美味しかったん?  お代わりもあるよってに」と言った。
 李亜は涙をこぼしながら首を横に振るが、嗚咽を堪えられないのか、肩が震えている。
「わからんけど、なんか、疲れたんや。なんやろ。頭ん中がぐしゃぐしゃや」
「そやね。無理もないわな。うちも、そうやったんやろな」イナンナは言い終えてから大きく息を吸う。
「そや。久慈って一体なんなん? あたし、あいつから逃げてきたつもりやけど、なんでかわからんけど、船におった」
「久慈はな。うちらの氏人やよってに。召使いみたいなもんやよってに」イナンナは、そう言うと箸をおいた。李亜は、涙で潤んだ目を彼女へ向ける。
「氏人?」と李亜は言った。
「そう。氏人。あなた、勘違いしてはるかもしれんけど、何も悪意などないよってに」
 李亜とイナンナの会話はそこで途切れる。なぜなら、女将がほんのり果物のソースかなにかの香りのする、ステーキを持って来たからだ。イナンナはステーキを切ると、その断面を見て、口へ運んだ。
「とにかく、あなたは、ここの住民やさかい、ここで暮らしていくんやで」イナンナは、そう言って李亜に微笑んだ。李亜もステーキに手をつけようとしたが「臭ッ」と顔色を曇らせ、眼を見開き驚愕の表情になる。
「これ、腐っとるんちゃうか。こんなん食べてたら死ぬで」
「何言うてはんの? 美味しいやないの」
「ちゃうって! なんや変な臭いすんで」
「妊娠してはるからや」
「これ、何の肉や? また、変なもんを、あたしに喰わそうとしたやろ」李亜は立ち上がり、何処かに行こうとしたが、手を口にあてて、嘔吐を堪えるように前屈みになる。
「あぁ。大変やよってに。辛いでっしゃろ? 悪阻やね」イナンナは献身的な態度で李亜の背中をさすった。心配とは種類の違う、どこか暗鬱な顔色をイナンナは浮かべ「うちの役目は終わりや」と言った。


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