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にゃくいちさん 十六話

 太陽が南中高度に達した時、虚無感で満ち充ちたような濃い藍色が空に煙りあがっていた。ほとぼりのような木陰の斑点が道に映っていて、黒色の車に日光が時々反射する。イナンナと運転手の会話はなく、車内は山の中を進んでいく。
 林道を上がりきると甕トンネルが現れ、燈火もない暗闇に、ヘッドライトが高く当たる。一定の大きな闇が前へ前へ押し寄せてゆくかのように見え、光が当たる度にそれが流れるように消えてしまう。トンネルの中程まで進む頃には、ほとんどの光が闇に飲み込まれてしまい、黒い景色に遠くの白い光が残るばかりであった。
 甕トンネルを抜けると、すぐに大きなカーブが現れた。対向車がくると、離合するのが困難な狭い道が続く。山を切り開いた道路がそのまま谷の側へ下り、山肌に沿ってカーブしている。見える山々は、角質化した鱗のような岩肌が目立っており、それらの山襞が交互に重なって、屏風のように奥側を隠していた。カーブを曲がりきる時、その山襞の一番奥に巨大な鳥居がそびえたっているのが見えた。イナンナは、それをしばらく見つめてから、恐れるかのように眼を閉じる。
 絶望は法則性なく訪れる。「自分が何者かわからない」という懸念は戦慄につながり、自分の記憶が「本当のものだろうか?」と思い詰めると、虚無感に陥るのかもしれない。
 眼を開けたイナンナの視界にバックミラーが映った。入り込んできた光に焦点を合わせると、後続車の中に麻袋を被せられた李亜が見えたようだ。イナンナは、バックミラーから視線を外し、再び眼を閉じた。
「にゃくいちさんか」その声は、車のエンジン音にかき消されて運転手には聞こえなかった。
 車は山肌に沿って作られた道路を走り続ける。ハンドルを握る運転手は、前方の視界が広がっていくことに安堵したのか、アクセルを強く踏んだ。
 しばらくすると景色は変わり、車は振動するようになった。道の両脇には高い石垣が並んでいる。丘陵と谷に囲まれ、平地が少ないため、この果杏の里は、石垣を組んで、切り立った斜面の上へ上へと住居を造っていったのだろう。青空が広がり、陽光が優しく照らす道路には、表面が平面的な敷石が敷き詰められている。周囲には、虫籠窓の凝った外観の本瓦ぶきの土蔵造りの家々や、外壁を泰山タイルで埋めているヴィラが点々と立ち並んでいた。車の進む道に沿って、鳥たちが一斉に飛び立ち、その様子を伺うように障子や窓には隙間があった。
 二台の黒い車は、幅の広いアーチのある屋敷に入って行った。敷地内の建物は、外観に城郭や寺院風の意匠を用いており、入母屋屋根の玄関の上には龍体の鬼瓦が載っている。
「おかえりやす」桟の多い硝子戸を開けて、背の低い老婢がイナンナを出迎えた。
 イナンナはヒールを脱いで上がりこみ、板張りの客間に通される。飾り気のない部屋だが、床の間には生けた花があり、少しばかりの個性を主張していた。彼女はそこにあるクロムとサペリ材で作られたシェルチェアに腰かけた。
「お水どす」おかっぱ頭の老婢は、盆に冷えた蟠桃水を持ってきて、イナンナは「おおきに」と言って、コップを空にした。
「今日のご気分はよろしゅうおますか」
「今日は調子がいいですわ。あなたもお変わりなく、よろしくってよ」イナンナはそう言ってからしばらく黙り込み、何かを探るような目線を老婢の首に注いでいたが、やがて口を開いた。
「アヌ婆さんは?」
「奥様はお部屋でお休みになってはります」
「そう。仕方ないわね。にゃくいちさんが帰ってきはったよってに、お見せしよ思ったんです。そういう事でしたら、遠慮しときます」
「その方がええでしょうね。奥様もきっと喜ばはると思います」
 老婢は、そう言ったあと「ちょっと待っとくれやす」と言って部屋を出て行った。
 イナンナは背もたれに上体を預け、天井の板張りの継ぎ目を眺めていた。すると、遠くで子供の笑い声が聞こえた。それはどこか歪んでいて、現実感がない。まるでスピーカー越しに聴いているかのようだ。子供の姿は見えず、声だけが聞こえてくる。
「ママ」「ママ」「ママ」「ママ」「ママ」「ママ」
 イナンナは眼を閉じて、両方のこめかみを両手で押さえた。
「ママ」
 今まで聞こえていた子供の声は消えてなくなり、代わりに子供が泣き始めた。泣き声はやがて大きくなり、耳元で泣き叫ぶような声が聞こえるようになる。
「イナンナ様」老婢の声がした。イナンナは額に汗をかいていることに気がつく。
「大丈夫ですか?」老婢が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「ええ、なんでもあらしません」イナンナは微笑んで見せると、「お水をいただけますか?」と言う。老婢は蟠桃水の入ったコップをイナンナに渡すと、彼女はそれを一気に飲みほして、大きく息を吐いた。
「おおきに」
「奥様からこれを預かってますよってに」老婢はそう言うと、絹の巾着袋を差し出した。
「何です?」イナンナはそれを受け取りながら聞いた。
「お薬や言うてはりました」
「薬? 」彼女は首を傾げるが、すぐに思い当たったようだ。
「あぁ。そうやったわ。確かに受け取りました」イナンナは頭を下げた。
「ほなまた明日」老婢はそう言い、イナンナを玄関まで送っていく。
 車に戻る時に、イナンナは李亜を横目に見た。麻袋を被せられたままで、後部座席でぐったりとしている。
 ゆっくりとした速度で車は走り去っていく。イナンナは巾着袋の紐をほどいて中に入っている物を取り出す。その香りは青臭い燻煙のようで甘くもあり、彼女の脳髄を刺激するかのようだった。
「あぁ、そうやったわ。痛み止めや。そういう事や」彼女はそう言ってから微笑んだ。
「お昼を和久多で用意しております。にゃくいちさんは今日は和久多でお休みいただこうと思います」運転手がバックミラー越しに言った。
「そう、そらええね。おおきに」イナンナは、そう言ってから再び香りを嗅いだ。もしかすると、そうすることで、気持ちを落ち着けようとしているのかもしれない。
「お肉を用意してくれてはんの?」
「ええ。仰せの通りにしております」
「そう。にゃくいちさんもその方がええやろね」イナンナは、そう言ってから、運転手の後ろ姿を眺めた。
「かしこまりました」運転手はハンドルを切りながらバックミラーを見る。
「そうしてください」
 車が停車し、運転手がドアを開けると、イナンナは外に出る。日差しが強く照りつけており、彼女は手をかざして影を作った。石畳の道は黒光りして光っており、運転手に先導されて彼女は、木陰を選んで歩いて行く。イナンナが和久多の門をくぐると、女将が笑顔で出迎えてくれた。彼女は紺地に金糸で流水模様をあしらった着物を着ている。耳を見ると丸く柔らかそうな形をしており、彼女が幸せであることを物語っているようだ。
「おこしやす」女将はそう言い、イナンナを中へ案内した。


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