発達障害持ちの院進希望者に告ぐっ!
どうも!ASD x ADHD の理系大学院生、詰んだ餅です。前回初投稿でざっと私の自己紹介をしましたが、今日は自身が大学院生として詰んだ経緯に関して書いてみようと思います。内容は凄くニッチで、その割に長いです。どうして大学院生が病むのか、発達障害はどんなふうに院生活の障害になるのか、具体的なところを知りたい方、読んでやってください。
そもそも私が note を始めたきっかけは、精神的な病を抱える大学院生の赤裸々な心情の吐露をみて、私も自身の経験を他の人にシェアしようとエンカレッジされたためです。世の中色んな人がいて、その関わり合いの中で消耗してしまう人もたくさんいます。あなたの辛さはあなただけのものでない、もっと普遍的で、となりの人も抱えているようなものだということを少しでも伝えられたなら、きっと今よりも気軽に心の負担を周りに打ち明けられる世界になるんじゃないかなと本気で思っています。私一人がつらつら自身の経験を書き連ねても、結局は宇宙の中のミジンコくらいの影響力しかないわけですが、それでも、もし万が一、これを読んで気が楽になる人が一人でもいたらと思えば、投稿するモチベーションには十分です。実際、私もその大学院生の投稿に、確かに影響されたのだから。
●院進する人ってどのくらい?
さて、文部科学省発表の学校基本調査によると、平成30年の大学進学率は53.3 %で、短大や専門学校を含めると81.5 %だそうです。そして、同年の大学院 (修士課程) 進学率は理学系で最高の42.3 %、全体では10.9 %とあります。短大や専門学校から院進するには各大学が個別に学部卒業程度の学力を有すると認定するものに限られるためマイナーなケースだとすると、大雑把に高校生100人中50人が4年制大学に進み、そのうち5人が院進するイメージでしょうか。さらに博士課程にまで進む人は修士課程修了者の9.5 %とあるため、1人を切る計算になります。理学系の人の半分近くが院進するにしても、全体としては僅かな人数であることがわかりますね。
となると、世の中的には大学院ってどんなところなのか、実感を持っている人はそう多くないということになります。ましてその内発達障害を抱えた大学院生はもっと少ないわけで、さらにその生活をシェアしようとする人はより少ないので、書いておく価値はきっとありますね!
●理系大学院生に求められるコミュ力。私には・・・
結論から言ってしまうと、私にはありませんでした!笑
すべての人に妥当するわけではないことを最初に断りつつ、理系大学院生としての生活においてADHDという特性は本当に致命的です。データを示すことが出来ないので個人の感想と変わらないのですが、ASDの特性は、別に持っていてもそう不利には働かないと思います。実際一つの学問に没入し、人生をかけて追究する姿勢は、あえて露悪的に表現すれば偏った興味関心と言えるかもしれません。ただ研究を続けていく上では、興味関心が持続することは必要最低限の要件だと考えます。ASDでよく言われるコミュニケーション能力のビハインドも、別の側面のアドバンテージで相殺出来うるものですし、実際コミュニケーション能力が高い人ばかりというわけではありません。
ここでコミュニケーション能力についてきちんと書いておく必要があるかもしれませんね。ここでいうコミュニケーション能力は、みんなとワイワイ楽しんで周りを明るくするような性質のものとは必ずしも一致しません。必要とされるのは、もっとドライで堅実なものです。つまり、仕事の進捗をチーム内で報告・連絡・相談したり、膨大なメール対応を処理したり、研究上のアイデアや成果を外部、つまり共同研究者や資金提供者、あるいは一般の方に伝えたりする能力のことです。これにプラスして、人間関係をよくするようなムードメーカー的なコミュニケーション能力があればなおGoodという感じです。前者の事務的な能力は、おそらくすべての研究者に必須です。一方、後者の感情的な能力は、欠落していたとしてもその他の部分でフォロー出来ます。
●どうしてコミュ力が必要?
「理系でもコミュニケーション能力が必要」みたいな言説を見聞きしたことはありませんか? 「でも」という余計な言葉が付いているあたり私はあんまり適切な表現ではないとは思うのですが、ここでいうコミュニケーション能力は上の通りです。というのも、理系の研究を進めるには何かとお金が物を言うところがあります。私は生物系に所属しているので、数学や理論系の研究室とは毛色が違うと思いますが、分子生物学の実験をするときは、外部から余計なDNAや汚染物質が絶対に混ざってはなりません。そのため「汚染フリー」な試薬を「汚染フリー」な器具で、「汚染フリー」な容器に移さないといけません。一つの試薬だけで完結することはまれで、実験工程は複数ステップあります。試薬を混ぜて、反応させて、移して、また混ぜて、反応させて・・・。そのすべてに「汚染フリー」が求められるのです。ですので、物質に触れるものは基本使い捨てで、その分消耗品代がかさみます。各試薬だって高価です。仮にこのような消耗品代をクリアできたとしても、クリーンな環境を維持するコストも考えないといけません。エタノールでこまめに机や器具を清掃して、オートクレーブで滅菌して・・・。クリーンさを担保するのにも消耗品や高価な機器が必要です。そして、ようやく出来上がった試料を分析するためには、とても個人では買えないような機械が必要な場合だってザラです。外注するにしてもニッチな分野だと高くつきます。
いちいち書いてみましたが、とにかくお金がかかることがおわかりいただけたかと思います。どこからこの費用が出るのか。大抵は研究室のボスが獲得してくる研究費です。研究費の代表的なものは科研費で、これには税金が割り当てられています。当たり前ですが、インチキでダメダメなプロジェクトに貴重な税金は使えません。決められた形式の申請書をきちんと書いて、研究計画やその研究の意義を明確にする必要があります。文章でのやり取りですが、コミュニケーション能力が必要なことには違いありません。予算が大きくつく大口の申請では口頭でのプレゼンテーションが必要です。決められた時間内に、必ずしもその分野の専門家とは限らない審査官に納得してもらえるよう、端的に研究計画を伝える必要があります。しかし、それだけでは不十分です。応募倍率は100倍を超えることもまったく珍しくないため、他のプロジェクトよりも魅力的で、過去に例がない、つまり出資する価値があることを強調しないといけません。
晴れて研究費が獲得できたとしましょう。自分一人で進められることはたかが知れています。限られた助成期間でしっかり成果を出すためには、一刻の猶予もありません。別の分野の研究者とタッグを組む場合は、お互いの進行状況を綿密にすり合わせる必要があります。自分たちのチームの中でも、単純な作業や代替可能なことは研究室の技術補佐員さんに依頼することが望まれます。その仕事内容を正確に伝えられなければ、きっとミスが多発するでしょう。
無事研究の成果が出ました! 論文投稿にチャレンジです。論文を書くこと自体は形式だったものなのでそうハードでは無いかもしれませんが、出版雑誌の査読をクリアする必要があります。凄くざっくり言っちゃえば、その雑誌に載せるに値する論文かを審査されるわけです。不明瞭な点や論理の飛躍があれば容赦なく指摘されます。その修正や弁明には多大な労力が必要です。そしてようやく論文が出てひとまずそのプロジェクトは一つの成果としてまとまるのです。論文の形にならずとも、助成を受ければ確実に成果報告を行うことになるので、どういうことをしてどんな結果が得られたかをつつがなく明示出来ることは必須の能力です。どうでしょう、アイデアが生まれてから、それが業績として評価される形になるまで、コミュニケーション能力が無くてはお話にならないことが少しでも伝わったでしょうか。何年間も期間を与えてくれる基金は珍しいので、どうしても短期間で目に見える成果を出さないといけません。そういうわけで一つの連絡ミス、一つの解釈の齟齬がプロジェクトの遅れを招き、ひいては成果発表の内容がしょぼくなって、業績が落ちることに繋がるのです・・・。
●修士課程ですることは?
いわば企画から営業、実務、マネジメントなどあらゆる業務を単身一手に担うことが出来てようやくスタートラインな研究者なのですが、もし大学教員になればこれに講義の仕事や学内事務の仕事もプラスされます。私の指導教官は9時から21時まで独り居室で仕事をし、それをほぼ正月以外毎日続けています。お昼ご飯も居室で適当なものを食べ、夕食はどうやら帰宅後のようです。23時以降はメールのレスポンスが悪くなる上、睡眠時間は大切にしていると明言されているので、おそらく人生のほぼすべてを研究と睡眠に捧げているはずです。それでも、「全然自分の研究が出来ない!」とラボで愚痴をこぼしてらっしゃいます。というのも、学内事務の仕事がとんでもなく多量なようで、そこに時間を持っていかれているようなのです。少なくともうちの指導教官に関しては、見ていて可哀そうな境遇です・・・。修士課程ではさすがにすべてを自力でやらされることはありませんが、それでもその能力を身に着けられるように訓練されます。修士だからといって仕事の内容が簡単なわけでなく、ゴリゴリの研究の全部、あるいは一部が任されます。人によっては既に自分が立案したプロジェクトを進める場合もあるでしょう。修士で手加減してもらえるのは、あくまで "手助けが期待できる" 程度で、もし仕事が辛くとも、自分から支援を求めない限り誰も手を差し伸べないでしょう。みんな等しく忙殺されているのです。そして、結局自分がどう大変で、何を助けてもらいたいのかを伝えることもコミュニケーション能力なのです・・・。
中間報告で発表できる内容が無かったら?
思うような結果が出ず、予定通り計画が進まなかったら?
こういうわけで追い詰められて、まだ研究倫理がしっかり確立していない場合は、ともすれば不正に走ってしまう人も出てきます。功名心や名誉欲からの不正という場合もありましょうが、追い詰められてということも多分にあることでしょう。不正は滅多に無いことですが、病むことはよくあることです。修士課程を元気に、健全に修了できるのは、能力が高い人かメンタルが強い人だけです。修士卒で就職する場合も相当過酷です。何せ修士課程2年間で研究はこなして、就活も終えなければならないのですから。学部の就活とは求められるものが違いますが、結局内定が取れなければ追い詰められるのは一緒です。そう、とにかく「追い詰められる」というのが、よくある精神科への切符です。私は経験していませんから語ることは出来ませんが、博士課程は基本的に手助け無しの研究者人生スタートって感じでしょうか。
●詰んだ餅はどこで詰んだ?
さて、ようやく私の話ですが、私は最初期で詰みました。もうお分かりの方もたくさんいらっしゃるでしょう。ADHDの特性でよくあるデメリットの「物事を順序だてて処理できない」というのがまずアブソリュートリーに、もう絶対的に致命的です。独創的な変わり者がラボにこもって延々わけのわからないことをしている、みたいな変なマンガでありそうなシーンは、よっぽどの大富豪が私設研究所を作らない限り生まれ得ません。あと、複雑な作業を高速で処理するみたいな、分子実験の操作も私には出来ませんでした。思えば小学校の頃の鍵盤ハーモニカで「指またぎ」が出来なかったなあ。その程度がどうしてもできなかった私に、1列目のものを1行目に、2列目のものを2行目に、みたいな作業は無理だったのです。サンプルを結構無駄にしましたYo! 共用の器具の整理整頓ができなかったのも、ラボ内の円滑な人間関係の形成に著しく悪影響でした。もし、もし、もしADHDで時々言われる愛嬌の良さみたいなものが私にあれば、まだ助けてくれる人がいて修士課程を修了することは出来たかもしれません。でも私にはASDもある。典型的なそれで対人関係に難があるので、可愛がられることも無く厄介なお荷物になり下がりました。「追い詰められて病む」というのはあくまで普通の人が普通にやって陥るケース。私はそこに至る前に病んじゃいました。学部で気づけなかったのかと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、研究内容への興味自体は本物だったんです。なまじっか色々見つけたもので、続けたいという思いが勝っちゃったんですよね。それ自体は仕方ないとしても、さすがに厚顔無恥に残りの期間を過ごすことは私には出来ませんでした。
●ASD x ADHD の理系院進志願者へ!
よくよく院進は考えましょう! ASD的な視野狭窄とADHD的な情熱による院進への衝動は、あなたを破滅に誘う甘いときめきかもしれません。しかし、そういう特性を併せ持って生まれたあなたは、これを読んだとて、むしろ「それでもなお!」と院進を決意するかもしれません。私はそれでよいと思います。あなたがそのまま続けられたなら、きっとブレークスルーをもたらすような人間になれるでしょう。あなたが仮に挫折したとしても、私が道しるべとなって、なお生きていけることを身をもって証明します。私はASDやADHDを、障害を伴う個性とでも表現したいのですが、それはこの特性が個々人で千差万別の現れ方をするからです。私には出来なかったけれど、あなたに出来ないと断ずる理由は全くない。ただ、私はどんな形であれ、あなたの選択を応援したいのみです。がんばれ!
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