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ありのままの私を愛してくれた人

コロナが猛威を奮い、普段会わない人との接触を禁じる世になって、一番に「しまった」と思ったのが、母方の祖母に長らく会わずにいたことである。

長男が幼いころは、初のひ孫とのふれあいを喜んでもらいたい一心で、足繁く訪問していた。しかし、祖母が居を共にしていた従兄弟が結婚・出産の運びとなり、「邪魔したらよくないな」との遠慮から、足が遠のいていた。

盆と彼岸に必ず帰省する母から、「おばあちゃんは相変わらずだ」と聞いていたので、「それならよかった」と安堵し、そのうち会いに行けばいいかと思っていたところに現れたのが、コロナという禍いであった。

祖母は90歳を過ぎても、元気に家事をこなしていた。

母の兄である伯父の結婚以来、伯父一家とひとつ屋根の下で暮らし、伯母と家事を分け合っていたが、伯母は3人目の子を出産した直後から体調を崩し、日々の家事をこなせなくなってしまった。

伯父はいわゆる「昔ながらの農家の長男」という気質。家事は一切できないし、やらない。必然的に、一家のすべての家事を祖母が担うことになった。

もう15年近く前、社会人となり、1時間半をかけて通勤することになった長兄の従兄弟のために、「毎朝5時起きで朝食を用意している」と聞いたときは、「え?」と声を上げそうになって、慌てて飲み込んだ。

祖母は「どうせ朝は早く目が覚めるから」なんて言いながら、嬉しそうに話していた。立派なところへお勤めする、孫の存在が嬉しかったに違いない。

幸せそうに語る祖母へ贈る言葉は、「おばあちゃん、毎日お疲れさま」という労いのエールだけにした。「社会人になったのに、どうしてまだおばあちゃんが大変な思いをするの?」なんて愚問、ゴックンするのが正解なのは、学生の私にもハッキリとわかった。

農家を営む親戚同士の結婚で、長男に嫁いだ祖母。農作業の手伝いから一家の料理洗濯と、一日中座る間もなく過ごしてきた昭和の女性である。

家は米軍基地の近くに位置し、戦時中は多くの攻撃を受けたという。畑にいたら突然、爆撃機が飛来し、空から襲撃に遭ったという話には、身が震え上がって、戦争を身近に感じたものだった。

いつも笑顔だった。幼いころから、私のどんな話にも耳を傾けてくれたが、悩みを相談しても、「おばあちゃん、難しいことはわっかんねぇ」と言って、決してアドバイスは返って来なかった。でも、人様への文句を垂れると、「そんなこと言うもんじゃないべ」と必ず諭された。

「苦労はするもんだべな」「ラクして得するなんてことはないからな」「コツコツ地道に頑張ってれば、いいことあるべ」

「いい学校行け」とか「いい会社入れ」とか、「いい子でいろ」なんてことは一度も言われなくて、中学受験以来、学歴社会にまみれてしまった私にとっては、心のオアシスのような存在だった。


新卒採用の就活に失敗して、人生の挫折を経験したことがある。

フリーターになってからは、親との折り合いが悪くなった。でも、稼ぎが少ないので家を出ることもできず、鬱々とした日々を1年ちょっと過ごすことになる。その間に一度だけ、母に連れられ祖母のもとを訪れた。

私はいたたまれない気持ちでいた。年上の従兄弟2人は新卒採用で正規の仕事に就いており、私だけがフリーター。自分で決めた道だから納得はしていたが、格差の構図がハッキリ見えると、卑下したくなる。

世間話だけで終えることもできた。でも、心境を祖母に打ち明けることにした。「どんなに情けない話でも、耳を傾けてくれるだろう」という安心感と、「どうせアドバイスは返って来ないんだから」という気楽な気持ちが、凝り固まった心を和らげてくれた。

一つひとつ、素直な気持ちを祖母にこぼしながら、私は涙を流していた。

人前で泣いたのは久しぶりだった。新卒採用に背を向け、親からは背を向けられ、友人には自分の選んだ道をかっこよく見せたくて、不安を吐露できずにいた。胸の内を大きな孤独が支配している者にとって、本音を語るというのは何よりのデトックスだったのだと思う。

祖母は最後まで、「うんうん」と黙って頷いて聞き続けてくれた。そして一言、「あんたは頑張ってる、大丈夫」と判を押してくれた。

この間まで自分を支えていた学歴が外れて、何もなくなった私。でも、おばあちゃんは、何もない、ありのままの私を受け入れてくれた。

それからは生まれ変わったように、自分の選んだ道を前だけ見て歩み進んでいった。

そんな祖母が認知症になり、進行も早いとの連絡が入ったのは、6月のことである。母はやっと1回目のワクチン接種が終わったところで、地団駄を踏みながら1か月を待ち、7月の終わり、2回目の接種を終えてすぐに祖母のもとへ向かった。

コロナ禍になってから母も会っていなかったので、思い出すにも時間が必要だったようだが、娘は認識できた。だが、記憶の継続が難しいのは確かで、日常生活もままならない。今では伯父も病気を抱えていて、伯母も相変わらず。祖母が家事を取り仕切っていた家は、大変なことになっていた。

問題を目の当たりにした母は、「毎週行く」と息巻いて、その後3回ほど通い、家の片付けや、社会福祉施設を利用するための手続きを行っていった。

3回目の訪問はショートステイに連れていく準備をしていたのだが、母が帰宅後に発熱し、入院。検査で癌が見つかり、突然に、余命幾ばくもないという現実が突きつけられた。

認知症の影響で、痛みに対して鈍感だったり、うまく表現できなかったりということの積み重ねが、発見の遅れを招いたという。年齢的にも手術は検討できず、コロナ禍で病院に入院できただけでもありがたいと母が言うので、これで良かったのだと思う。


病院からは1回10分、3名までの面会が許可された。しかし、予約を取った人の面会が終わらないと、次の予約は入れられない。子ども、兄弟、親戚と、順々に面会を終えていき、先週やっと私の番が回ってきた。

あの日の祖母の太鼓判がなければ、今の私はいなかったかもしれない。その後の人生の歩みは、大きく異なっていたかもしれない。

感謝をどうしても伝えたかった。でもそれを口にしたら、命が終わってしまうような気持ちにも襲われた。

答えの見つからないまま、透明のカーテン越しに祖母との対面を果たした。4年ぶりの再会。いつもの笑顔はなく、呼びかけなければ眠りに落ちてしまう。鎮痛剤を入れている祖母は、穏やかな呼吸でベッドに横たわっていた。

言葉は要らない、と思った。

祖母の呼吸に耳を傾ける。心がつながるような気がしてきて、それで充分だった。「たったの10分」だと思っていた面会時間が、言葉を失うことで長く感じてくるから不思議だ。心に感謝の言葉を連ねて、私の想いは届いたと信じたい。

おばあちゃん、ありがとう。


「おばあちゃん」というキーワードでイラストを探していたところ、祖母にそっくりの絵があり、驚きました。祖母はまさに、こんな感じのおばあちゃんなのです。

夏乃さん> 突然のご紹介失礼します。素敵な絵をありがとうございます!


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