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「信用する」とはどういうことか

連日の猛暑。だるい体に鞭打つために、朝からリビングの雑巾がけと風呂掃除を決行した。雑巾がけを子どもたちに任せたところ、やんや喜びながらタタターッと行ってくれたので大助かり。あっという間に終了した。

次は風呂掃除だ。お共を募集するが、手は挙がらなかった。サラッとしたリビングの床の上で寛ぐ兄弟。はいはい、わかりましたよ。風呂掃除は一人でやります。勉強しててよね。

月一の風呂掃除では、一時間をかけて椅子や棚、壁、床等々、浴室内のあらゆるものをこする。額に汗が滝のように流れ落ちる中、黙々と汚れをこすり、最近のあれこれ、子どもの学校生活のこと、夫の仕事のこと、自分のやるべきことなどについて、問いを頭に浮べては考え、答えを探す作業を繰り返していた。

考えを巡らすうちに、ふと思う。「信用するとは、どういうことだっけ」。兄はサザエさんのカツオのようなところがあり、時折、人を出しぬこうとする癖がある。それが如何様に悪いかということを伝える際、『信用』をキーワードに説明するのだが、子どもは何を思って、人や情報などを信用することを決めるのだろう。

大人の私が人や情報を信用するときは、必ずその背景にあるものを詮索した末でのことである。人であれば、見た目や表情、話し方、話す内容。今まで出会ってきた人たちに状況を当てはめ、傾向を分析することで、信用に足る人物かどうかを判断する。情報ならネットでいくらでも調べがつく。初めての事象であれば必ず自分なりに調べ上げ、信じる信じないを決める。信用の土台にあるのは、主観と客観を織り交ぜた証拠たち。その積み上げ方は、いつどこで学んだのだろう。

我が子たちは、すでに疑りの気持ちを持ち合わせている。兄は弟に、弟は兄に、先に得を取られないよう競争に必死だ。疑心と信用の育みはセットのようにも思える。兄なり、弟なりに疑りをかけながら物事を評価し、信頼に足る人や情報か、ということを自らで見極めているのか。心の成長と生活環境の中で獲得したその思考回路は、もはや大人と同じなのかもしれない。ならば兄は、私が日ごろ話すことの大枠は理解できているだろう。足りないのは経験値ということだ。

オオカミ少年の話なども出しながら、事あるごとに兄に説く信用の話。社会生活における、信用の重要性に早く気づいてもらいたいと思いながら、風呂掃除は終了した。滝汗とともに、脳内デトックスもできたようなすっきりした気分で浴室を後にした。

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