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雨のちお守り



 しとしと降る雨がアスファルトを刺激して、ビショビショにさせて鼠色から真っ黒に染めていく。冷たい空気が街を覆い、これから訪れる夏の陽射しの存在さえ遮ろうとする。浮き輪の空気は入れられず、かき氷機がガリガリと氷を削ることなど許されるはずがない。そんな錯覚に陥るほど、今日は肌寒くて思わず唇を震わせる。
 そんな憂いごとばかり考えている僕は、近くにいた長靴を履いた少年が水溜りを踏んで遊んでいることに気づく。ピチャピチャと愉快な音を立てて、この世の憂いなど弾くように道路を踏み込んでは飛び跳ねている。新幹線のイラストが描かれた服が水しぶきで濡れているが、その少年は何ら気にすることもなく自分の欲望を満たし続ける。
 やがて紅色のランドセルを背負った少女が少年の隣に来て、「何やっているの?」と問う。すると少年は、
「見ろよ、俺が飛ぶと水が宙に浮くんだぜ! すげえだろ!」
 と興奮気味に言った。しかし少女は呆れた顔で、
「ダメだよ。服が汚れちゃうよ」
 と冷静な意見を言う。
「いいじゃん。別に」
「お母さん、怒るって」
「いいだろ! お母さんなんて、全然怖くないもんね!」
 強がる少年は、雨の中を傘もささずに駆け抜ける。少女は「待ってよ」とその少年の後を急いで追っていく。二人がいなくなった後の水溜りは空虚でうら寂しく、雨音だけが鳴り響く。
 しかし僕はそんな元気な二人にとって雨は退屈なものではなく、コミュニケーションを司る魔術のように感じているのだろうと思う。きっと、天空舞い落ちる雫を、彼らは純粋に受け止めている。僕みたいに、どんよりした天気にトレースされて俯くような哀れな人間ではないだろう。
 僕がその場所で待機していると、先ほどの少年少女が例の水溜りに戻ってきた。二人とも、どこか焦っているように見える。
「どこだろう、どこだろう」
 少年は舗装された地面に這いつくばるようにして、何かを探している。
「あった?」
 少女も傘を持ちながら、辺りを見渡している。
「無いよ。お母さんがくれた、お守りが無い!」
 少年はこの世の終わりが近づき絶望する民を演じているみたいに、哀愁を漂わせて涙を流してワンワンと泣き出した。
「ランドセルにくっついていたよね?」
 少女は初年と対極的に冷静な態度で、やはり辺りをチラチラと眺める。
 僕は二分後に来るはずのバスに乗車する予定だったが、彼らが長雨を嫌にならないように、そのバス停から離れて彼らのもとに向かう。
「どうしたの?」
 一応、僕は事情を聞く。
「あの、お守りがないんです」
 少女は僕に言う。少年は相変わらず泣きしきっていて、雨と同化しているように見える。
「お守りは、何色なの?」
「多分、青色だったと思う」
「青色か」
 目立たない静かな色を、僕は注視して探す。先ほど、少年はトランポリンに乗っているように楽しそうに跳んでいた。だとすれば、もう少し離れた位置に落ちているかもしれない。
 水溜りの近くには、生い茂った草木の塊がある。僕はそこに侵入する。股下がひんやりと濡れて、滴り落ちる雨水が靴下から靴の中へと垂れる。不快な気分にさせるが、今は気にしている場合じゃない。細分化された枝をめくって、ブラックコーヒーを連想させる地面を見渡すと、蒼く浮かび上がる何かを発見した。僕は傷つけないように上手に植物をかき分けて、手を伸ばしてそれを引っ張って取り出した。見てみるとたしかにお守りだったが、硬くて円状の何かが僕の指に触れた気がした。
「あ、お守りだ!」
 少女が僕の右手を見て微笑む。
「え、本当?」
 すっかりしょげてしまっていた少年も、僕が見つけ出したお守りを見て、キラキラと目を輝かせる。
「本当だ! 俺のお守りだ!」
「はい。もう落としちゃダメだよ」
 僕が少年に手渡すと、「お兄さん、ありがとう」と、この天気に似合わない晴れ晴れとした笑顔を見せてくれた。
「俺、お母さんに作ってもらったこのお守りをずっと大事にしているんだ」
 少年は僕に改めて見せてくれる。どうやら神社などで売っているものではなく、お手製のお守りらしい。青い生地に白い糸で『晴人』と刺繍されている
「このお守りはお父ちゃんが眠っていて、いつも俺のことを見守ってくれているんだって。お母さんが言ってた」
「お父さん?」
 僕が訊くと、今度は少女の方が僕の目を見て言う。
「うん。晴人のお父さん、最近病気で死んじゃったんだ」
 小学生は純粋なことが多いが、僕はこのわずかな時間で、晴人君が置かれている辛い状況を飲み込むことになった。それでもお守りを持って嬉しそうにする晴人君には、胸を打たれるものがあった。
「そうなんだ。なら、お守りが見つかって本当によかった」
「うん。これはお父さんの形見も入っているから、絶対に無くしちゃいけないんだ」
 形見。
 もしかすると、先ほど僕の指に触れたものはお父さんの結婚指輪かもしれない。二人の愛によって生まれた晴人君を象徴する、目に見える素敵な愛の形。
「お兄さん、ありがとう」
「ありがとうございました」
 二人は僕に礼を言って、遠くへと駆けていく。気がつくと、先ほどまで降っていた悲しみの雨は消えていて、水面には僕の胸がいっぱいになって感極まっている顔がはっきりと映っていた。
 無邪気に遊んでいた少年は、憂鬱な気分になる天気を跳ね除けて、見えない愛に包まれて生きていた。僕は突然の出来事に目を背けることができずに彼らを助けたことで、これ以上にないものを手に入れた気がする。
 止まない雨はないことを、きっと遠くに住む誰かが教えてくれたのかもしれない。


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