見出し画像

「宅配便」から考える現代の忙しさ

現代社会は忙しい。自分自身も確かにそう感じるし、周りを見ていてもそう思うことが多い。ただ、これは同じ社会に生きていても、その感じ方には大きな差異があるようだ。


私は大学生の時、猫のマークをシンボルとする宅配業者でアルバイトをしていた。私の仕事内容は早朝の荷物の仕分けと配達であった。

大学や予定がある日は仕分けだけをして帰り、休日は昼まで配達へ行った。配達はトラックの助手席に乗っていくパターンと荷台の付いた自転車でまわるパターンがあった。基本的には正社員ドライバーと同じような仕事をした。

実に様々な荷物があった。片手に収まるダンボールから両手でも持ちきれない鉄の部品、裸のルイヴィトンのボストンバッグなどだ。荷物を通して「社会」を観察しているようでおもしろかった。

数が多くてしんどかったのは「飲料」のまとめ買いだ。マウントレーニアのまとめ買いはさほど重くないが、2Lのペットボトルの水などはダンボールがひしゃげるくらい重かった。そういうモノを頼む人に限って不在がちなので、不在と半分わかっていながらアパートの階段を登り下りするのはキツかった。

イライラした時は「こんなモノを頼むなよ、自分で買いに行けよ」と思ったこともあった。それも一度で配達できるならば問題ないが、受取人不在ならば何度も訪問せねばならないのが我々の仕事だ。そういう荷物のダンボールは、もう何日も運搬されているためボロボロだ。

「自分で頼んだモノを受け取れるように段取りをしてくれよ」といつも思っていた。社会人で仕事があるにせよ、定時であがれば配達の時間指定をして、夜に受け取れるだろうと思っていた。配達中はバイト代の使い道とそんな不満のことを考えていた。


だが、今思えばそう考えられるのは私が学生であったからに他ならない。「学生」という一方的な視点から宅配を考えていたからだ。あの頃は時間が有り余っていたし、講義やアルバイトなど生活にまつわるタイムスケジュールをある程度は自由に決定できていた。


もちろん不在がちな人を擁護するつもりではないが、社会人になってみると確かに忙しい。仕事も定時というのは幻想で残業が多い職場もたくさんある。職場というチームでは、自分だけが帰るというのはなかなか難しいものだ。

それなら早く帰れた日や休日に買いに行けばいいと思うかもしれない。実際、私も配達をしていた学生時代はそう思っていた。だが、社会人になってみるとそんな気力も疲れて失せる。また「休日はゆっくり過ごしたい」「平日にできないことをしたい」という思いもあり、なかなか腰が上がらなくなる。ましてや、休みの日に体を使って重い飲料を買い込もうとは到底思えなくなる。

そう考えると「宅配便」は神様のようなサービスだ。忙しくても、自分が買い物に行かなくても、重いモノでも家に届く。その利便性はもはや現代には欠かせない。


このように社会にはその視点に立ってみないとわからないことが多くある。世の中には適当なコメンテーターや政治家、その他諸々の人がいるが、それはその人から見た景色、抱いた感想に過ぎない。反対の立場や別の立場は実際にそっち側に立ってみないとわからないモノなのである。


見方によって変わる宅配便


頂けたサポートは書籍代にさせていただきます( ^^)