【場ヅレポ#2】写真映えを超えた生命のアート
みなさん、こんにちは。
場ヅクリエイターのましけそ(@mashikeso)です。
この記事は、私が最近触れた「場」に対しての主観的な紹介記事です。
根気が続けば、【場ヅレポ】シリーズとして自分の備忘録を蓄積していければなと思います。なんと今回は記念すべき第2回です!(わーい)
今回、ご紹介するのは、2019/6/20より六本木ヒルズ森美術館で開催されている、
「塩田千春展:魂がふるえる」です。
「糸」を使った圧巻のインスタレーション
まず始めに、大変申し訳ございませんが私はアートといったものに深い造詣はありません。中学の時の美術の成績はずっと「3」でした。。もちろん、塩田さんのことは恥ずかしながら存じ上げませんでした。
そんな私がこのアート展に行ったのは、単に「インスタ映え、すごそう!」という軽い気持ちでした。そして実際に現地で見た数々のアートは圧巻で、圧倒されました。それは現地に行かずとも、画像越しに伝わるぐらい力を持ったインスタレーションでした。
幻想的を通り越した畏怖
しかし実際に足を運んで、これらの空間に入り込むことを躊躇した自分がいました。純粋に「怖い」と、拒絶しました。
なぜだったのか。
そこには、誰よりも「生命(いのち)」に向き合っている塩田さんの強い想いによって空間が形取られていました。
塩田さんは、本企画展の話が来た2年前、その翌日に癌(がん)が発覚したそうです。
このような表現が正確であるとは思いませんが、「癌」という病気は、その重度軽度/早期末期にかかわらず、自分と周囲に「死」を強く意識させる特異な病気であると私は思います。私も身内が「癌の可能性があり」と診断された時にはかなりたくさんのことを考えました。
そんな、周囲が当事者意識を持ちすぎる病気がゆえに、病気の当事者がもっとも人間関係で苦しむ病気であるという側面に先日、ハッと気づかされました。(幡野広志著:ぼくたちが選べなかったこと、選びなおすために。)
おそらく、塩田さんご自身もそうであったのではないかと思います。
病気と向き合い、自分の生き死にと向き合い、そして人と向き合い・・・
そんな、「生きる」ということに誰よりも向き合ってきた想いによって千切られた空間だったからこそ、本当の意味での「死線」と向き合ったことのない私が入るのは「恐怖」を感じ、「畏怖」を抱いたのかもしれません。
「一人歩き」するアート
美大出身の友人と、「アートとは何か」と飲みながら議論する機会がありました。
私は広告やエンタメをつくる側の人間として、
「アートとは自分の想いを一方的に投げかけるもので、エンタメは観る人の理解を促すもの」と言った趣旨の話をしていました。だからこそ、アートは万人に伝わる必要はないけれど、エンタメや広告は観る人の理解度を揃えながら進む必要があると。
しかしその友人は言いました。
「アートはエゴではない。自分の解釈を社会に問いかけ、議論を生む行為である。」。投げかけるのは手段でしかなく、目的はその先にあると。
それぞれに解釈の正解は違うかと思いますが、私はその時、かなり納得感がありました。
そして、異口同音に、塩田さんも2010年のART iTのインタビュー記事でこう語っているものを発見しました。
「作品も子どものようなもので、産み出すのはやはり苦しい。でも、一方で一度生み出されると、いつかそれは一人歩きをしていく。」
今回の作品展も、かなり様々な解釈が一人歩きを始めています。(以下はほとんど私の解釈ですが。笑)
・モチーフが身の回りのもの。毎日が生死とつながっている
・船は「生きる目的のために前進する。」
・一方で「後退は死に等しい。」
・トランクの群れは未来への繋がり
・でもトランクは「今」の閉塞感の象徴
・10歳の少女が「魂」を語ることのギャップと、ギャップを感じる「生への偏見」
いいアートが何かは私にはわかりませんが、少なくとも作品から自分に問いかけられ、自分の中の答えをいつの間にか探してしまうようなアートは強い力を持っていました。
「フォトジェニック」と、「ストーリージェニック」
今回この「場」に行きたいと思ったのは間違いなく「フォトジェニック」だと思ったからです。しかしそれは作品のHow To Sayの部分です。写真や映像に切り取られるのはいつもその手段です。
しかし、人に伝えたくなる、もしくは口にしたくなるのはWhat To Sayの部分ではないでしょうか。その作品の真意やそこに隠れる物語。それは物語映え、つまり「ストーリージェニック」。
WhatとHowのマッチ感こそ、自走していく空間のポイントなのかなと思う、今日この頃。
場ヅクリエイティブディレクターへの道はまだまだ険しい。
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